驚いたこと

 いまでは、加藤秀俊(一九三〇生)を戦後の生んだ代表的公共知識人とすることに誰しも異存はないだろう。「公共知識人」【パブリック・インテレクチュアル】は、政治・経済・社会・文化問題に対して、専門家に向けてではなく、知的公衆に意見を具申する知識人である。

 戦後の代表的公共知識人といえば、丸山眞男や清水幾太郎などをまず思い浮かべるだろう。加藤は『世界』への執筆こそ少ないが、『中央公論』や『思想の科学』『エコノミスト』『朝日ジャーナル』『Voice』などには話題論文を相当数執筆している。ところが『朝日新聞』論壇時評で言及された執筆者ランキングをみて驚いた。このランキングは辻村明「朝日新聞の仮面」に掲載されている。

 驚いたというのは、加藤は、一九五一年十月から一九八〇年十二月までの上位三一位に入っていないからである。ちなみに、第一位は中野好夫、第二位は小田実(一九三二〜二〇〇七)、第三位は清水幾太郎で、丸山眞男は二三位である。加藤と世代的に近いところでは、松下圭一(一一位)、高坂正堯(一九三四〜九六、一七位)、大江健三郎(一九三五生、一八位)、永井陽之助(一九二四〜二〇〇八、二〇位)、高畠通敏(一九三三〜二〇〇四、三一位)などがランクインしているのに、である。わたしは、『革新幻想の戦後史』執筆のためにこの辻村のデータをよりあたらしいところで集計したことがある。期間は一九八一年一月〜二〇〇九年二月の『朝日新聞』論壇時評である。この新しいデータでも、なんと加藤は一回も言及されていないのである。上位を占めたのは田中直毅(一九四五生、一位)、立花隆(一九四〇生、二位)、船橋洋一(一九四四生、二位)、佐々木毅(一九四二生、一四位)、中西輝政(一九四七生、五位)である。

 たしかに、加藤の発表媒体は業界誌など、論壇時評の目配りの外にあった雑誌が多かったが、さきほど言及したように、『中央公論』などの執筆も少なくない。にもかかわらず、論壇時評で言及されることが少なかった。なぜだろうか。加藤が総合雑誌に執筆しても天下国家型の論説ではなく、文化を対象としたものであることから、天下国家型時論を取り上げる、巻頭論文主義の論壇時評でスクリーニングがかけられたからであろう。

 戦後を画するともいえる加藤の名論文「中間文化論」は、『中央公論』一九五七年三月号に掲載された。戦後は、新制中学校が義務化され、新制高等学校が大衆化することによってインテリを目ざす大衆がふえた。戦前はインテリの「教養」と大衆の「修養」が対比されたが、戦後は、新書ブームや人生論ブームなどでインテリの教養(主義)と大衆のミニ教養(主義)となった。こうしたミニ教養主義、つまりモダンで知的な大衆文化が輪郭をもち、それが一定の厚みに達した時に、加藤によって「中間文化」と命名された。加藤は、それを新書ブームや、ミュージカル、ムード・ミュージックなどの中間音楽、トリス・バーなどの出現にみている。

 これまでの日本の文化構造はエリートの高級文化とノン・エリートの低俗文化とに断層がある「ひょうたん」型だったが、低俗文化ではないが、高級文化でもない「中間文化」がふくれあがってきて、「ちょうちん」型になったとされた。中間文化はサラリーマンだけでなく、労働者・農民にも浸透した大衆文化となっていった。純文学と大衆小説の中間の中間小説や中間文学というジャンルが隆盛するにいたった。そしてそこにこそ戦後派の特色もあり、戦後日本の希望があるとしたのである(「戦後派の中間的性格」、『中央公論』一九五七年九月号)。

 ところがである。「中間文化論」が発表されたときの、『朝日新聞』論壇時評は、同号の『中央公論』の巻頭論文(加藤周一「近代日本の文明史的位置」と藤原弘達「石橋内閣論」) のみである。論壇時評の巻頭論文主義と政論主義が如実にあらわれている。

 

「柔らかくて、伸びやか」と「固くて、真面目」

 加藤より三歳だけ年長だから、同世代といえる、丸山眞男の弟子藤田省三(一九二七〜二〇〇三)は、「中間文化論」が発表されたあと、「(中間だけで)普遍への欲求がない」「がっかりしました」「知的貴族というものの意味がぜんぜん理解されないんです」(久野収・鶴見俊輔・藤田省三座談会「戦争体験から何を汲み取ったか」、『中央公論』一九五八年十二月号、久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』中央公論社、一九五九年所収)と酷評している。藤田の酷評は、新しい見解の登場につきものの引きおろしともいえるが、それだけではない。

 丸山眞男的戦後啓蒙思想の枠外にあった加藤にたいする根底的な違和感によるものであろう。その違和感は、まるで、農民がはじめて商人に出会ったときの身体的感覚から発する違和感とでもいうべきものである。座談会では、鶴見俊輔(一九二二生)はさすがに、とりなすようにこういっている。「(中間文化論は)われわれに対する批判としては、正しいものを含んでいるでしょう。それは認めなくちゃいけないですね」。

 といっても加藤は、身近な文化だけを論じてきたわけではない。のちの「無目標社会の論理」(『中央公論』一九六三年四月号)がそうであるように、文明史的ひろがりをもつものなのだが、いきなりの天下国家論ではない。加藤の迂回は、いきなり型の野暮な論壇的知とは距離があった。この齟齬こそ、加藤を公共知識人としての論壇の中心から離れさせ、そのことによりユニークな立ち位置とさせたものである。そう、わたしは思う。

 われわれが戦後の論壇知識人でおもい浮かべる人の多くは天下国家型公共知識人であったときに、加藤は町人型公共知識人とでもいう独自の位置から発信した。天下国家型論壇知識人と加藤では、文体からしてちがう。加藤の論文には難しい漢字も博覧強記をひけらかそうとする古典の引用もない。ひらがなが多く、卑近な事例を使っている。柔らかくて、伸びやかな文体からして町人型である。加藤を町人型とするならば、さきの藤田省三などは「固くて、真面目」な武士・農民型であろう。武士・農民型はいいが、「知的貴族」という段平をふりかざすあたりが、特権的というよりも田舎者臭く思えてしまう。

 

あるエッセイ

 加藤の知のスタイルが論壇的知と異なっていたことは、加藤の初期のエッセイ「車中の身分証明書」で明らかである。タイトルそれ自体がユニークである。タイトルは編集者がつけたものかもしれないが、文中の「身分証明証」ではなく「身分証明書」という用語に触発されて、使われたものだろう。「身分証明書」は、言葉の魔術師ともいうべき加藤ならではの用語である。このエッセイが書かれたのは、『京都大学新聞』の前身の『学園新聞』一九五五年十月三十一日号である。わたしは、まだ中学生、もちろん同時代で読むことはなかった。わたしがこのエッセイに出会ったのは、二〇〇二年ころだったとおもう。

 翌年刊行する『教養主義の没落変わりゆくエリート学生文化』(中公新書、二〇〇三年)のために、戦後の大学生の読書データを探していた。「学生は書物をどう読むか」のアンケート調査結果が掲載されていたことからの閲読である。そのときちょうど同じ面のコラムに加藤のエッセイが掲載されていたことによる。

 加藤が京都大学人文科学研究所助手になってから二年ほどたった二十五歳のときのエッセイである。さきにふれた加藤の名前を世に知らしめた「中間文化論」が『中央公論』に掲載され、単行本となる二年前であり、比較的初期のエッセイである。同じ面の読者調査による「あなたは継続的に読んでいる雑誌がありますか」という質問に京大生の四四・四パーセントが「ある」と答え、「ない」は五五.六パーセントである。雑誌の中では『世界』が群を抜いており、『文藝春秋』『中央公論』と続いている。回答者の半数近くが『世界』や『中央公論』などの総合雑誌を継続的に読んでいたということ自体が論壇的知の大学生への浸透ぶりがわかるというものである。おそらく加藤にはこのデータを示して寄稿が依頼されたのであろう。加藤はこう書いている。

 総合雑誌をつうじて日本のインテリが外国などのことについてよく知っているのは、慶賀すべきことだろうとまず認め、しかし、ややシニカルに言えば、日本のインテリの弱点もあらわれているとして、加藤流の診断がはじまる。

 総合雑誌は京都府の財政がどうなっているかよりも有名文化人の執筆になるフランス政府の運命や如何という地球規模の天下国家の話題が中心になる。わがくにのインテリはこの少数のインテリの天下国家論をそのまま再生産する権威主義的インテリである。『世界』を読むこともインテリのアクセサリーになっていないか。ちなみに、と加藤はいう。大学生のいく散髪屋にいってみなさい。そこでは、『世界』も『中央公論』もなく、『面白倶楽部』や漫画がおいてあるが、大学生はそれをニヤニヤしながら熱心に読んでいる。だから『世界』や『中央公論』が売れるから、車中で携帯されるからといって、それだけで、日本文化の将来を喜ぶことはできないとしている。

 いまこの加藤のエッセイを読めば、多くの人々はそうなんだ、と共感するほうが多いだろう。しかし、書かれたのはいまから半世紀も前。当時は大学キャンパスは教養主義が自明で、マルクス主義も学生文化のメインを占めていた。そんな時代をリードした『世界』をはじめとする総合雑誌に、権威主義であるとか、読むほうもアクセサリー(車中でのインテリの身分証明書)にしているといったことを、そもそもおもいつくのも大変だった。インテリ・アイデンティティーを揺るがせることになるからである。

 たとえそうおもっても活字にすることなどはばかられたであろう。そんな時代に、加藤であればこそ、ここまで言い切ることができたのである。加藤は、なにが書かれてあるかよりも、どう読まれているかに着目しているのである。物はなにを表現しているかよりも、どう使われているか。加藤の終始一貫した視点だった。

 

日本型カルチュラル・スタディーズ

 この点でわたしは、加藤を日本型カルチュラル・スタディーズの開拓者の一人とおもっている。カルチュラル・スタディーズの名称の本家は、イギリスで、スチュアート・ホール(一九三二〜二○一四)などがバーミンガム大学の現代文化研究センター(Centre for Contemporary Cultural Studies)を中心に活動をはじめた一九七〇年代に由来するが、レイモンド・ウィリアムズ(一九二一〜八八)の『文化と社会―――1780―1950』(若松繁信・長谷川光昭訳、ミネルヴァ書房、一九六八年)やリチャード・ホガート(一九一八〜二〇一四)の『読み書き能力の効用』(香内三郎訳、晶文社、一九七四年)、E・P・トムスン(一九二四〜九三)の『イングランド労働者階級の形成』(市橋秀夫.芳賀健一訳、青弓社、二〇〇三年)などにさかのぼれる。カルチュラル・スタディーズは、ニューレフトが労働者文化を掬い上げるということから生まれたものである。

 イギリス流カルチュラル・スタディーズでは、労働者文化を掬い上げ、ブルジョア文化への対抗ヘゲモニーを握ろうとする反権力という権力志向が明白であるが、加藤のカルチュラル・スタディーズには、権力性も左翼性もみられない。いってみれば労働者文化型ではなく、町人文化型カルチュラル・スタディーズである。

 加藤は「思想の科学」系であり、庶民目線という点では、イギリス流カルチュラル・スタディーズと似ているが、リベラル派といおうか、脱イデオロギーのぶん「思想の科学」系右派といってもよいから、イギリス流カルチュラル・スタディーズとはぴったりこない。

 そのせいだろう、カルチュラル・スタディーズの入門書(上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』ちくま新書、二〇〇〇年)には、日本におけるカルチュラル・スタディーズの先駆者として戸坂潤(一九〇〇〜四五)や中井正一(一九〇〇〜五二)、鶴見俊輔、花田清輝、小野二郎(一九二九〜八二)までの名前を挙げながらも、加藤の名前は挙がっていない。逆にいえば、加藤のカルチュラル・スタディーズが借り物ではない、独自の視点だということになろう。

 加藤は、「中間文化論」の発表の翌年、「"思想"と"実感"」というエッセイを『日本読書新聞』一九五八年三月二十四日号に発表し、これまた話題を呼ぶ。思想の人間的基礎が「実感」であるからして、実感をもとにして自分の思想形成をしていくことを戦後世代の特色として期待したエッセイである。このエッセイは、日本人の実感主義に棹さした加藤流日本型カルチュラル・スタディーズのキーワード解説というべきものだった。

 加藤の自伝『わが師 わが友―――ある同時代史』(中央公論社、一九八二年)にはこんなところがあった。加藤が参加した思想の科学研究会で独学の映画評論家佐藤忠男(一九三〇生)に出会った印象を書いているくだりである。佐藤は、自分の体験から、当時のインテリ、つまり論壇的労働疎外論や悲観的大衆社会論を全面的に否定して、工場労働者にすれば(インテリが疎外の元凶とする)ベルト・コンベアのほうがどれだけ便利かしれないと言っていたことに虚をつかれる。書斎の中で「疎外」を思索するのも結構だが、佐藤さんのように油にまみれて働いている人の「実感」のほうがずっと大事だとおもった、と書いている。加藤の「実感」論文は、この佐藤との出会いをきっかけにしているのかもしれない。

 それはともかく、この「実感」に立とう論文は、理論や抽象を尊ぶ知識人を逆撫でするに十分である。物議をかもし、「実感」論争(座談会「「実感」をどう発展させるか」、『中央公論』同年七月号)にいたる。座談会では、江藤淳(一九三二〜九九)や大江健三郎は加藤流実感主義が文士的特権の相対化にみえたのか、散々文句をつけている。

 

「見えないカリキュラム」

 わたしは、ここまで加藤のことを町人型公共知識人といい、研究スタイルを町人型カルチュラル・スタディーズと呼んできた。いったい加藤における町人型はいかにして育まれてきたのか。

 一橋大学(加藤の進学当時は東京商科大学)で南博(一九一四〜二〇〇一)ゼミに入ったこと、師の南をつうじて思想の科学研究会会員になったことが大きかったことは確かである。また自由闊達な京大人文研助手として、東京の論壇知識人とちがった雰囲気のなかで研鑽をつみ、多くのすぐれた人に出会ったことが大きいだろう。そのことは、加藤が『わが師 わが友』をはじめ、折々にふれているところである。

 わたしがここでとくに取り上げたいのは、加藤の卒業した一橋大学という「見えないカリキュラム」の影響である。もちろん、入学試験があるから、わたしをふくめて多くの人の大学進学は自発的選択というより、拘束のなかの選択にすぎない。あるとき、加藤にどうして東京商科大学に進学したかを聞いたときに、数学の配点が低かったからだという答えをもらったことがある。加藤は中学四年修了での大学入学で、いわゆる「四修」(五年卒業以前の入学だから秀才の代名詞)だから、なにがなんでも東京商科大学への進学を考えたわけではないだろう。配点などによる選択が働いていたのである。その経緯は『わが師 わが友』にも詳しく書かれている。

 加藤にとっては、一橋大学は南博教授に出会えたことがおおきなものだったが、加藤の思考と文筆スタイルを考えるときに一橋大学の「見えないカリキュラム」が重要であると思う。加藤自身も「如水会館とわたし」の中で、東大の卒業生を中心とした筋向いの学士会館と一橋の如水会館の雰囲気がまったく「異質」だといっている(『如水会報』一九九五年四月号)。卒業大学の影響は四年間で終わるわけではない。卒業後も他者や読者は、著者を卒業学歴でみる。そのぶん自己社会化は卒業後も続く。学歴をめぐって、先取的社会化(anticipatory socialization)ならぬ遅延的社会化(legged socialization)が作動するからである。東大卒の人はいつまで立っても東大卒らしい。いや東大卒らしく振る舞う。加藤にとっても一橋大学出身というのは、本人が意識する以上に大きなものがあるのではないか。いや意識されないからこそ大きいといえる。したがって、以下は加藤秀俊の非論壇的知の背後にある一橋的なるものをみていくことにしていきたい。

 

一橋的なるもの

 一橋大学の原型は、商法講習所(一八七五年)という「紳士」風商人学校である。官吏を製造する帝国大学の武士的官学臭とは異なった官立ハイカラ町人学校だった。その後、学校名は、東京商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校、東京商科大学、東京産業大学、東京商科大学、一橋大学(一九四九年)と改称される。

 一橋はすでに一九二〇年に大学(東京商科大学)に昇格しているが、旧制高校→帝国大学の正系学歴貴族からすれば、あくまで専門学校上がりの大学である。そのかぎり本流正系学歴からそれている。しかし、一橋(高商、予科)の入学試験の難しさは学歴貴族の入り口だった旧制高等学校と遜色ないものだった。東大からくらべると一橋の卒業生数は少ないからビジネス・エリートの実数では劣ったが、輩出率(卒業生数からみたエリート輩出の割合)では東大を上まわっていた。たとえば、一九六二年における大企業重役輩出率(一九二八年の卒業者数を分母に計算)では、断トツが一橋大学で、二位東大の一・五倍。三位慶應大の二・三倍、四位京大の二・五倍である(青沼吉松『日本の経営層――その出身と性格』日経新書、一九六五年)。傍流というにはメジャーに近い学校だった。

 こうした位置つまり正統にかぎりなく近い傍流にある学校には特有の「隠れたカリキュラム」が働きやすい。ここで「隠れたカリキュラム」というのは教壇からいわれるわけでも、教科書に書かれているわけでもなく、学校の歴史や雰囲気が伝達してしまう沈黙の教育作用である。

 一橋の「隠れたカリキュラム」はさきにみた正系にかぎりなく近い傍系という学校空間の特有の位置から生成してくる。正系から遠い傍流校であれば、正系をほとんど意識しない。しかし、正系に近い傍流であればあるほど正系を意識せざるを得ない。正系に近づこうとする「引力」と目と鼻の先にある正系に激しく反撥する「斥力」の両極端の力が働きやすい。こうして一橋には正系学歴貴族文化への強い「同調」か、強い「離反」の両極端の作用が働きやすくなる。

 一橋を帝国大学以上のフンボルト流アカデミズムの大学にしようとした福田徳三(経済学者、一九七四〜一九三〇)などの営為は、強い「同調」の例である。上原専禄(一八九九〜一九七五)に代表される教養主義も正系学歴貴族文化だった旧制高校的教養主義への強い「同調」とみることもできる。阿部謹也(元一橋大学学長、一九三五〜二〇〇六)の教養論もまたそうした一橋的教養主義の系譜に位置づけることができるが、阿部のいう「教養」は、学問や知識というよりも知恵や身振りを含んだ人々の生きかたをいうのだから、帝大・旧制高校的教養主義の影響を受けながらも、一橋的なるもの(平民的・町人的)をくぐった教養論ではある。旧制高校的教養主義とは異なったものだから、官(漢!)学的「教養」というよりも平民的「きょうよう」といったほうがよいのではないか、とわたしはおもう。

 一橋のもうひとつの「隠れたカリキュラム」は、本郷(東大)圏の正系学歴貴族文化からの「離反」である。それが石原慎太郎に代表されるものである。石原が一橋の進歩的教授を『亀裂』などの小説であんなに罵倒し、忌み嫌ったのは、ブルジョア文化をもとに、学歴エリート文化の貧乏たらしさをあばくことで、一橋の進歩的教授の正系学歴エリート文化へのすりよりが我慢できなかった……。といっては、邪推がすぎようか。

 石原のスタイルは、知の中心(論壇的知)に対するマッチョ的離反であるときに、加藤の離反はあくまで紳士(旦那衆)的離反ではある。だから石原は「反」論壇的、「反」左翼であり、加藤は「非」論壇的、「非」左翼である(図1参照)。

図1 戦後目本における「一橋的なるもの」

注:図の加藤秀俊の近傍に位置するのが、ベストセラー『なんとなく,クリスタル』の著者田中康夫(法学部卒)である。この点については竹内洋「現代思想としての一橋的なるもの」(『大衆モダニズムの夢の跡一彷復する「教養」と大学』新曜社,2001年所収)を参照されたい.。

 

知的メディアの中心に

 しかし、高度成長によって日本社会は大変貌をとげ、論壇的知そのものの底が抜ける。一九六〇年代は日本が農業社会から工業社会の最盛期に大きくうつりかわる時代だった。農林漁業人口は 一九三〇年、五〇パーセント、五五年、四一パーセントだった。ところが、六五年には、二五パーセントになる。ホワイトカラーと販売・サービス業の合計(四〇パーセント)が、農林漁業人口よりはるかに多くなる。

 論壇的知を支えた、都会と農村や知識人と大衆などの枠組みが崩壊する。朝日岩波的なるものや旧制高校・帝大的なるものは、大きく退潮した。農村社会の崩壊は山の手知識人への憧れをもたらす上昇インテリの生産構造を崩壊させた。インテリの変貌もおこり、それまでインテリといえば反体制インテリしか考えられなかったのが、ビジネス・インテリや実務インテリという言葉が擡頭し、反体制インテリは思想インテリや観念インテリといわれ、相対化される。

 こうした日本社会と知の変貌のなかで、中央公論社は、一九六二年十一月から中公新書の刊行をはじめる。この「中公新書刊行のことば」は、「真理は万人によって求められることを自ら欲し」ではじまる三木清の岩波文庫の「読書子に寄す」の向こうをはったものである。そこにはこうある。

 

……私たちは、知識として錯覚しているものによってしばしば動かされ、裏切られる。私たちは、作為によってあたえられた知識のうえに生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。

 

 これこそ、事実をみるよりも眼鏡磨き(イデオロギーや理論)が大事としたこれまでの論壇主流派とその影響下にあったインテリへの批判そのものである。

 この中公新書の刊行の言葉のこのくだりが印象に残っているのは、同年に、京都アメリカ研究夏季セミナーがあったときの逸話を参加者から聞いたからである。講師のひとりは社会学の泰斗ロバート・K・マートン(一九一〇〜二〇〇三)だった。日本人参加者の質問は、機能主義理論についてなど理論的質問がほとんどだった。マートン教授は、「ところで」と、こんどは参加者のほうに質問した。「いま日本の農業人口はどのくらいで、ホワイトカラー率はどのくらいでしょうか」。参加者の日本の社会学者は、誰一人、この質問に答えられなかった。マートン教授は怪訝【けげん】な様子がありありだったという。社会学理論に興味があっても、お膝元の日本社会の基礎的データを知らない社会学者たちだったからである。論壇的知の歪みは弱小学問に、はっきりとあらわれていたのである。そういえば、加藤は、どこかで言っていた。日本の社会学は社会の学である「社会学」にあらず、欧米産の社会学(理論)の学なのだから、「社会学学」なのだと。
ところで、論壇的知を代表する一方の雄である中央公論社の新書刊行の言葉を書いたのは、誰あろう、加藤秀俊だった。加藤は知的メディアの中心に躍り出たのである。

 一九八〇年には、経済学者・村上泰亮によってエリートではないが、そうかといってエリートの下位者や追従者である大衆でもない「新中間大衆」の時代になったとされた(「新中間大衆政治の時代」、『中央公論』一九八〇年十二月号)。村上の命名した新中間大衆【ニュー・ミドル・マス】こそ、加藤がかつて着目した中間文化のひろがりと中間文化大衆の結晶化だった。この新中間大衆に「柔らかい個人主義」(自己表現としての消費)という成熟社会の兆しをみた者(山崎正和)もいる。加藤の着眼した中間文化は論壇主流知識人に継承されるにいたったのである。

 

下流大衆社会化

 しかし、そこから幾星霜。中間文化の可能性を描いた加藤でさえ、『常識人の作法』(講談社、二〇一〇年)においては、高学歴社会の大卒を「半端なエリート」の大群としてこういっている。ホンモノのエリートに対しては怨み、妬みなどのあまりいい感情をもっていないが、高卒や中卒に対してはいささかの優越感をもっているから「床屋政談」が得意で、週刊誌やテレビの解説の受け売りで意見をいう「めんどうな存在」としている。あの輝いた中間文化の担い手の息子や娘は大卒の学歴を手にすることで、いまやめんどうな「半端なエリート文化」になっているとされている。

 加藤が予測し、希望した高度大衆社会はたしかに一九八〇年代日本に結実したかにみえた。ところが、平成の御世からは、中間大衆社会どころか、下流大衆社会にむかっているのではないか……。

 わたしは、これを中間文化社会の反転としての下流大衆社会化と睨【にら】んでいる。日本社会では、そもそもが大衆と隔絶した知識人文化が脆弱なぶん、大衆の知識人の模倣と知識人への上昇が容易なように、大衆の、そして大衆インテリ(中間知識人)の知識人文化からの離脱と下降も容易である。大衆は知識人文化に対して憧れ(模倣)と憎しみ(引ぎ下げ)の両義的感情をもちやすい。知識人と大衆の切れ目のなさは「高度」大衆社会を生む契機ともなるが、「下流」大衆社会へと下降する契機にもなる。いまの日本社会におきているのは、第1章の「「国民のみなさま」とは誰か」でみた大衆御神輿ゲームと共振した後者の下降力ではないだろうか。

 ここまで書いてきてわたしはこう思うにいたった。加藤は、戦後日本の言論界において、意外にも坂口安吾(一九〇六〜五五)や福田恆存に肩を並べる存在であったのではないか、と。加藤が着目し、掬い上げた「実感」は、坂口安吾の「堕落」や福田恆存の「エゴイズム」と並んで、戦後日本の言論界に風穴を開ける視点だったのだから。

[竹内洋『大衆の幻像』(中央公論新社、2014)所収]

 

竹内洋(たけうち・よう)1942年生まれ。関西大学名誉教授。京都大学名誉教授。

 

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