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 一、はじめのはじめに

 安全保障関連法案が衆参強行採決、九月三十日に公布、早くも一か月以上経過、 カレンダーはあと二枚を残すばかりとなった。 このような事態が起こるとは、おもいもしなかった。敗戦後三年目に生まれ、戦後とともに成長したわたしは、自分の歴史が否定されたおもいだった。

 その後、批判の矛先をかわすかのように、安倍晋三内閣は再び経済政策を掲げ、国民に根強くひそむ経済へのおもいをゆさぶり始めた。と同時に、強行採決に抗する傾向には、「レッテル貼り」だと一蹴した。政府に欠けるのは、昭和の総力戦が敗北に終わったことへの分析、考察が稀薄なところである。外地での兵士の死が直接的戦闘ではなく、なぜ餓死や自決が多かったのか。満州の関東軍の幹部が機密文書を焼却、いちはやく内地に帰還したが、日本軍の体質、その構造はなんなのか、これらの検証、見解を明らかにしないまま、海外での米軍の戦闘行為に自衛隊を派遣する法律を制定したことである。突如侵略したソ連軍に怯える開拓民や居留民に銃口を向ける憲兵に守られ、われ先にと臨時列車に飛び乗った軍人の家族。熱帯雨林で餓死した歩兵。外地の最前線へ赴くことなく、内地のテーブル上の議論に明け暮れた参謀本部のエリートたち。野垂れ死ぬのは末端の下級兵士である。しかしこれは別稿、本論に戻らねばならない。

 

 二、はじめに

 生ある者、必ず死ぬ。そのとき、抱えていた記憶はどうなるのか。記憶はどこに向かうのか。向かうといういい方、適当でないかもしれない。死ねばそこで記憶も途切れる。だからこそ、記憶を受け継ごうとする生者が、死者のほとりから現れ出る。

 盛者必衰は『平家物語』の冒頭に出て来る無常観だが、おごるものも、社会的な力のないものにも等しく滅びは訪れる。少し私事を書く。この場所にふさわしくないとおもうが、おゆるし願いたい。

 今年六月、母が死んだ。昭和三年生まれ、自らの青春と総力戦が一体となった時代を生きた庶民のひとりだった。女子勤労挺身隊として軍需工場勤務、その為、向学心に燃え、成績優秀であったが勉学の道がとざされたこと、生涯悔やみ、敗戦後も国家への不信を募らせつづけた。亡くなる寸前のことである。病室で一度、疎開時の苦しみ、静岡県富士宮市から和歌山へ疎開したときの、苛酷な条件下の列車内の様子。和歌山にたどりついても、土地の人びとの冷遇に直面、飢えをしのぐのが如何に困難を極めたかをぼそり語り、「あんたらには、わからん」と横を向いた。初めて聞く話だった。しかも地上から、その生命が燃え尽きる寸前、息絶え絶えのなか放たれたこと、そばで介護する胸に刻みこまれた。【註1】

 棺に花を投げ入れる、それは生者にとってふしぎな時間だとおもう。予期していた以上、いや、予測をはるかにこえ、時間は際立った。わずか数分なのに長く感じられ、どう呼べばよいのか、今ここから飛び立ち、離れゆく魂の名残り惜しさに染まり、わたしの八人の孫(故人のひ孫)は、最初楽しそうに、途中から陶然と花を投げ、さながら遊園地にいるようだった。死顔が花に埋まるころ、ひとりが泣き出すと、つられてしまったのか、八人の嗚咽が部屋にひびいた。「清(さや)けし」という感慨、万葉集などでよく歌われる情感がわたしによぎった。父母未生以前の記憶、彼らにとって戦争の記憶は、どのように位置づけられるのか。【註2】

 いたいけなものらの嗚咽、それは、死者をゆするものだったのか。満中陰が近づくある日、水田にゆれるみどりの稲を見ていてはっとした。息をひきとったころは小さなそよぎだったのに、風のなか、いっせいにみどりがゆれていたからだ。そこに居たひとの不在。あの佇まいはもう二度と戻らないということ。このこと、ある程度の覚悟は出来ていたのだが、なぜか予測をこえた感情に襲われ、ことばは追いつかなかった。部屋の嗚咽は、死者の記憶が地上の息と触れあうたまゆらだった。かすかな共鳴、目に見えない、耳では聴きとれないひびきがともされたのではないか。そのとき、息はよみがえって欲しい。母が味わった疎開という事態、これまでまともに論じられてなかった非戦闘員の戦争体験を掬いあげればよかった、わたしに悔いが残った。【註3】

 

三、

 「あんたらには、わからん」、母のぼそりはこたえた。体験の伝達の不可能性、不可能性を本質とする体験の伝承、死ねば、生前明らかにしなかった記憶はとざされる。このことはこれまで、自分なりに理解はしていたが、命旦夕に迫るころだっただけに、肺腑を抉られるおもいがもたらされた。だがそれにしても、世界最終戦ともいわれた総力戦にもかかわらず、日本人が起こした昭和の戦争の呼称がいまだに定まらないという異様な事態、どうとらえればよいのだろうか。母のような一庶民までがあのように翻弄された戦争、その記憶の伝承が、これほどの困難さを強いられること、わたしは今さらながら味わっていた。【註4】

 あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪をつづける宿命を背負わせてはなりません、これは八月に出された安倍晋三総理の敗戦後七十年を記念した談話の一部だが、記憶の伝承に懐疑を投げかけた発言だと受けとめられても仕方のないものである。そして、今なお謝罪は不充分なままであるという声はいっこうになくならない。【註5】

 戦争を通過したもの、とりわけ歩兵として戦場の現場を駆け巡り、奇跡的に復員できた兵士は以後、筆舌に尽くしがたい記憶をことごとく封印し何も語らないまま死んでいった場合が少なくない。父を亡くした四十年前もそうだったが、今回母に死なれ、戦時下のことを聞けばよかったとおもったが、ついにわたしは試みなかった。【註6】

 総力戦の末期、二発の原爆投下を含めた米軍による空襲、東京、大阪、神戸など、十万人以上が死ぬという無差別爆撃をわたしたちは蒙り受けた。非戦闘員への大量殺戮を犯した米軍に対し、その加害責任を追及することなく、生き残ったものらは、あたかも自然災害を受けたかのように受忍、蕭然と耐え忍んだ。【註7】

 受忍は民族としての美質なのであろうか。絶対者、超越的ものとのダイアローグからもたらされる受難、受苦とは明らかに違っている。飛躍するが、阪神大震災時、困窮した民衆の暴動がなかったことは特筆すべきであるという言説があった(集団的な暴動はなかったが、避難所での婦女子へのレイプ、倒壊した店舗に浸入したイラン系の人びとへの暴力はあった。しかし、細部であるこのことを、ことさらに強調するために書いているのではない。しかし、細部からの記憶の疼き、いまも感ずる)。このことは、東アジアの果ての列島の住民のみが培ってきた特性なのであろうか。いかなる天変地異に襲われようが、従容として耐え忍ぶことを本然としているのであろうか。『荘子』「斉物論」では、危急存亡、茫然自失の極限のとき、生き残った人びとは天籟に包まれるとあるが、耳に聞こえず、眼に見えない無の存在である天籟を自覚、こころのどこかに、ひっそりと忍ばせ耐えていたのであろうか。【註8】

 だが、受忍することで、中国大陸や南方戦線での日本軍の加害行為の記憶に蓋をしてしまったのではないか。空襲、原爆投下という被害を、日本軍の加害行為との関わりでとらえる時期に、わたしたちは遅れに遅れてさしかかったのだ。と、あらかじめ結語を提起し、拙論執筆中の事態、国の三権分立制度を実質的に破壊、法の精神をないがしろにし、現行憲法違反を確信犯的に実行する安倍政権による安全保障関連法案の衆参強行採決に抗う、学者や市民、若いひとびとの団体シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)などの懸命な抗議の行為。この事態を、各地の「空襲を記録する会」はどう受けとめ、今後の現実的な活動にどう繰りこむのか、まさにここが問われている、こうおもえてならない。【註9】

 

四、

  「戦争を知らない人間は、半分は子供である」。これは大岡昇平の断言である。今年、塚本晋也監督によって映画化された小説『野火』の「狂人日記」に出て来る。わたしは戦後生まれなので、齢六十をこえても未成熟、どこまでいっても稚気から抜け出ることができないと、『野火』を再読する度に気づかされる。初めて『野火』を読んだときから三十八年後、大岡昇平が皇軍の兵士として闘い、俘虜となったフィリピンのレイテ島をたずねた。餓死、発狂、人肉食、憔悴の果ての自決、米軍との銃撃戦ではなく、食糧補給を断たれ、弾薬は底を尽き、一人またひとりと、異国の地で孤絶したまま野垂れ死んだ兵士の行軍のあとをたずねた。ほんとうにここ、この南洋の地で激闘があったのか、信じられないと、多くの兵士が餓死したカンギポットの山容を仰いだ。倒れている墓標、色の朽ちた日章旗、それらが南国の陽ざしと風にさらされていた。遠い列島から来たわたしを襲う、獰猛なジャングルのみどり。灼熱の陽光。日米の肉弾戦も、俘虜収容所があった気配も、どこにも見当たらなかった。記憶のないものが、他者の記憶をたどることの困難、不可能性をわたしはおもい知った。饐えた血の臭い、腐乱する肉片、崩れた屍体に群がるウジ、野獣の咆哮。濃紺の海、突如のスコール、火焔樹の梢。それらすべて、大岡昇平が書きつける「奇怪な観念」、「生まれて初めて通る道であるにもかかわらず、私は二度とこの道を通らないであろう、という観念」の現れにおもえ、わたしも、田村一等兵のように、「うなだれて歩いて行った」。そして、そのときの時間が不思議であった。どう記憶を受けとめるのか、熱帯雨林でウジにたかられ、腐っていく足や腸のはみ出た腹を見据えながら手榴弾で自決した兵士の最期の悲鳴に囲まれ、いや、そんなことなかったかのようにそそがれる陽ざしにあおられていた。

 

五、

 空襲は個の体験の集合である。つましく暮らす一人ひとりを、ある日、空爆という暴力が襲った。記憶の集合体である空襲体験を構成する一人ひとりの命数が尽き、体験を持つ当事者が地上から消滅する事態、これが七十年後の現在である。【註10】

 人は必ず死ぬ。当たり前のことである。当たり前のことが、そうではなくおもわれる場合がある。本人の過失ではなく、理不尽に、一方的に生命が絶たれる事態である。しかも突如、外部から暴力的にもたらされる。空中からの原爆や焼夷弾の投下。四方八方に転がる炭化した死体。投下されるその瞬間まで、誰がどこで、どのように生きていたのか、名前がわからない。隣人(他者)の突如の消滅を抱え、生き残った者は苛酷な生を強いられる。

 あれから七十年、依然行方不明、名前のわからない死者。住んでいたやすらぎの場に、いまだ戻って来られない。東日本大震災時の津波は天災、空襲は人災、後にニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で規定された人道に対する犯罪である無差別殺戮に該当する。

 アメリカ軍による沖縄や本土への空襲、無差別殺人の原爆投下、その日まで誰が生きていたのか、不明である事態に抗し、名前を明らかにする記名運動が各地の空襲を記録する会から生まれ、久しい。しかし、いまだに名前が判然としない事態、存在の瞬間的抹殺という戦争の不条理を思想的に解明すること、戦争終結という目的で原爆を投下した不条理、なぜそれはゆるされたのか、戦勝国だからゆるされ、敗戦国は受忍すべきなのか。爆撃下の無辜の人びと、軍に属さない非戦闘員がなぜゆえ一方的に受身で、しかも、明らかな人災を自然の暴威のごとく耐え忍んでしまったのか。それは日本人の美質であるとする識者もいるが、わたしどもが蒙り受けた事態を被害と加害の複眼的な視点から明らかにすることは不可避である。【註11】

 

 米軍による空襲、「生きながらの大量焚殺」を自然災害のように受けとめたと書いたが、東京大空襲直後を蹌踉と歩きつづけた堀田善衛の『方丈記私記』(ちくま文庫、六十―六十三頁)から引用する。【註12】

私が歩きながら、あるいは電車を乗りついで、うなだれて考えつづけていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなく、廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を置いて、しめった灰のなかに土下座をした、その人たちの口から出たことばについて、であった。早春の風が、何一つ遮るものもない焼け跡を吹き抜けて行き、おそろしく寒くて私は身が凍える思いをした。心のなかもおそろしく寒かったのである。風は鉄の臭いとも灰の臭いとも、なんともつかぬ陰気な臭気を運んでいた。(原文改行)私は方々に穴のあいたコンクリート塀の蔭にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。(中略)そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることも許されないであろうという、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そういう考えもまた、私自身において実在していたのである。

 これは、廃墟のあとに佇む堀田善衛の観察である。生命と財産を一方的に破壊されても、その加害者である米軍を責めず、むしろ自らを責めるという奇怪な逆転。誰をも告発せず、事態そのものを引き受け、受忍する非戦闘員。しかも深々と土下座をし、地に額をこすりつけ、申し訳ありません陛下、そうくりかえす住民の姿は事実なのだが、七十年経過した今、どう受けとめればよいのか。土下座を促したものは、わたしたちの精神史の底流に、いまなお潜んでいるのであろうか。

 

七、

 敗戦後七十年、わたしは、昭和二十三(一九四八)年生まれだから、無条件降伏直後の記憶はない。ないがゆえに、たとえば、連合軍の占領下、厳しい検閲制度のなかで書き継がれた文人の仕事を貪るように読み、以後いくたびも目を通し、当時の空気を学んできたひとりである。【註13】

 では記憶は、いつのころから立ち上がるのか。想起すると、五歳前後から立ち上がるようにおもえる。もう少し掘り下げると、昭和二十年代の後半の、いまやセピア色になった薄闇の記憶が現れる。たとえばこういう光景である。父に連れられた高架下の闇市のあと。星条旗はためくメリケン波止場。そこに停泊するアメリカの艦船を見学、青い目をした水兵の背の高さを目の当たりにしたこと。国道二号線で、巡幸する昭和天皇を見送ったことなどである。なかでも強烈な印象が刻まれたのは、昭和三十五年の安保闘争であり、その年の秋の山口二矢による社会党委員長浅沼稲次郎刺殺である。いち早く我が家にあったオリオン電機製造のテレビからわたしは、社会に目覚めていったといってよいだろう。【註14】

 鬼畜米英や本土決戦、無条件降伏、獄中十八年という活字に驚愕したことはあっても、わたしは一億総懺悔などという発想になじんだことはなかった。とりわけ、昭和二十(一九四五)年九月二十七日に撮影された占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が立ち並ぶ写真には、幼い身ながら違和感をおぼえたこと、記憶している。戦後民主主義とともに成長したが、ベトナム戦争激化、日本が間接的に加担していることを知った高校時代、朝鮮戦争以降、自分では血を流さず、他者の血を吸い取って高度経済成長する薄汚さ、欺瞞性に気づいた。しかし現在、父母は既にこの世になく、彼らの生前、戦時下の記憶の聞き取りを試みたことさえない。このこと、悔やまれてならないが、もう遅すぎる。

 父は大正初年、東京で生まれ、岩手県の宮古の海辺や岩手山の山麓で育った。城下町の盛岡市内にあった季村医院を引き継ぐ長子でありながら出奔、東京の私立大学の法科を学び終え、商社に就職。勤務地は当時の満州国の首都新京(現在、吉林省長春)であった。やがて召集、哈爾賓、斉々哈爾、嫩江、海拉爾など大陸を転戦、戦争末期には南方戦線へ送られ、ボルネオ島のジャングルを抜け出たところでオーストラリア軍に捕縛、アピ(現在コタキナバル)の収容所に入れられ復員は遅れた。『野火』の田村一等兵と父は、このように重なっていたのである。

 生前父は戦争のことは何も語らず、ましてや、捕虜収容所に居たことなど記憶の奥底に封印していたので、逝去し二十五年経過したある日、わたしが偶然にその事実を知ったとき、長年のもやもやが溶解するのを感じたものだ。

 わたしの幼い頃、父はなぜあのような乱暴なふるまいをしたのか。別段、悪ふざけをしたわけでもないのに、石炭で炊かれた五右衛門風呂に沈められ、窒息しそうになって水面に浮かび上がろうとする頭を再び押さえこまれるという悪夢に似た記憶。この行為、精神科医ならどう解釈するだろう。以後、父の前に立つのがそら恐ろしく、父の及ぶ影から逃れることばかりわたしは考えた。記憶の強度を減圧させる、だがそれは至難であった。ときに凶暴さが噴き出る父の記憶の要因のようなものに到達出来たとおもえたのは、外地の捕虜収容所に閉じこめられたという事実の発見にあったが、このとき受けた感じはなぜか透明、酷薄なものではなく、それが不思議でもあった。

 阪神大震災の勃発時、わたしの経営する会社の本社事務所が倒壊した。倒壊した家屋の背後から、懸命に家屋を支える父の背姿が伝わってきた。経営者として、それまでのわたしは、よくあるぼんくらの二代目、災厄に遭遇して初めて、奮い立つきっかけをつかんだようにおもう。紅蓮の炎、ものというものが壊れる音、悄然と運びだれる死者、壊滅する光景が昨日まで平穏だった時間の底に隠されてあったこと、そのことにうちのめされた。隠れていたものの現れ、しかも、あってはならないカタストロフィーとして。だがわたしは、不謹慎にも、この現れこそを待っていたのだと覚った。現れの向こう、そこに痩せさらばえた父が居り、壊滅を懸命に支えている、そのそばに、やっとたどり着けたとおもった。私事を綴ってしまったが、もうこれくらいにしよう。

 

八、さいごに

 地震のあと、炎上した菅原市場の近くの避難所に、ある日、天皇陛下と美智子妃殿下がお見舞いに来られた。おふたりは学校の体育館で寝食をともにせざるを得なくなった人びとの真正面に膝をつかれた。真っ直ぐにすすまれ、真正面に正座、憔悴する人の間近で言葉をかけられた。とりわけ妃殿下の、細い腕をしならせ、空中で指をぐいと握りしめる激励の仕草に、人びとはどれほど鼓舞されたことだろう。凛としたまなざし、はかりしれない迫力、いま想い起こし、身震いを禁じ得ない。はやくもあれから、二十年経った。国民のほとんどが戦争を放棄した九条を改正したとしても、天皇一家は九条を遵守しつづけます、無言の意思が立ちのぼる背姿だった。【註15】

 今年は敗戦後七十年の節目、夏が近づくとさまざまな特集番組が放映された。阪神大震災そして東日本大震災の経験、とりわけ、東京電力の原発事故という、いまだにメルトダウンした物質の行方すら明らかにできない放射性汚染というカタストロフィーの後だったので、七十年という時間の分析検証は決定的に意味が変わってしまったようにおもえた。

 ある番組をおもいだす。それは、満州から帰還した女性の堕胎に焦点を当てていた。わたしには、その番組がことさらこたえた。天皇による終戦の詔勅の玉音放送の六日前の八月九日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄、突如ソ満国境をこえて侵略してきたソ連兵による残虐なレイプは、これまでよく聞かされてきたが、朝鮮、中国、台湾、フィリピンなどの男性に犯され、奇跡的に生還した内地の福岡県筑紫郡の二日市保養所で堕胎手術を受けた女性(手術に当たったのは旧京城帝国大学医学部医局員)。ときに麻酔なしで、腹部を切り裂かれ、まだ息のある胎児の脳を一撃、秘密裡に樹木の下に埋葬、この、あってはならぬ事態を番組で知らされ、わたしは、呻いてしまった。

 満洲から逃亡する途中、眼前でまさにレイプされる十代のいたいけな女子学生の身代わりになり、「その子を離しなさい」とソ連兵にからだを預けた女性。堕胎を受けたひとりだったが、これはあまりにもむごい。彼女のように、身を犠牲にしてことに当たる政治家、与野党をふくめ、今、どこにいるのであろう。こうおもうと暗澹とする。政治家のレベルの劣化はよくいわれるが、誰もかれもが小選挙区制に縛られ、選挙で勝つか否かの功利を最優先、民の苦しみをおもうこと、わが体の傷のごとくせよといった志念を忘失したものが少なくないことにおもい当たるからである。

 政治家ばかりが劣化したのではない。経済優先にがんじがらめになったわたしども国民の知的劣化はそらおそろしい。そんな折、戦争の記憶を持つ当事者が途絶えはじめる。この時とばかり、為政者は安全保障感をあおり、記憶のない国民はあおられ、再び戦争は勃発する。今まさに、その時期である。だから、戦争の記憶を有するひとが一人ふたりと地上から消える今こそ、彼らに息を吹き、死者を目覚めさせ、その息を受けつがねばならない、そういい聞かせ筆を擱く。【註16】

 




【註1】 当時母は、陸軍少年戦車兵学校の教官だった兄西脇亮介と共に富士宮市で暮らしていた。亮介は陸軍戦車部隊に属し、北支戦線で重傷を負い内地へ強制送還、昭和十九年に病死した父慶次郎のあとを継いで一家を支えていた。縛りつけられた便衣兵(ほかに当時は馬賊、匪賊、義賊という呼称もあった)を三八式歩兵銃の先端に装着した軍刀で刺殺した苦悩を生涯抱きつづけた。

【註2】 「ある程の菊投げ入れよ棺の中」。これは、夏目漱石の最晩年の小品「硝子戸の中」二十五のなかにある。死んだ大塚楠緒(一八七五―一九一〇、漱石の友人で美学者の大塚保治夫人)への手向け句である。

【註3】 疎開に関しては、歌人の齋藤史(父齊藤瀏は陸軍予備少将。二・二六事件で銃殺刑になった歩兵第一連隊の栗原安秀中尉は幼友達)が背負った信州の山国での体験は貴重である。桶谷秀昭との対談から引く。「例えば私の隣の家では、お姑さんが忙しいから、お嫁さんがしゃもじを持ってみんなにごはんをよそったら、そのせいで離縁です。真田藩の発祥地の真田町へ行きますと、農家には玄関がなくて、勝手口と縁側が出入口なんですが、女は縁側から入れない。そういう習慣さえ私は知りませんでした。お嫁さんは、結婚式の一世一代の晴れ姿であろうとも、勝手口からしか入っちゃいけない。そして、お嫁さんがその家の台所へ行きますと、藁束でお尻を叩くんですね。牛馬に等しい覚悟を強いる。嫁はつまり労働力なの。そして、私の住んでいたところでは、そこで塩水を一杯飲ませてくれました。なぜかというと、正気を付けるんですって。(中略)それらの風習が、敗戦前まであったという」(雑誌『新潮』一九九八年新年特大号、三八六―四〇七頁)。
わたしの母は死ぬ前、疎開時の飢えを語った。ひもじさに堪えながら、弟の手をひいて丘にのぼり、眼下に実る瓜や胡瓜を見下ろしていたらしいが、土地のひとはなぜ無関心を装ったのか。なぜ都会の子に冷たく接したのであろうか。着たきり雀の襤褸、?身の姉と弟、せめて瓜ひとつくらい投げ与えても罰はあたらなかったのに。

【註4】 詩人辻井喬の見解、以下。「敗戦後、私たちは神を失ったまま、むしろ神を失ったことによって「自由」になったように見える。しかしそれは本当の、「人間的」な自由なのだろうか。そう考えていくと、もしかしたらわが国の人々はもう詩などを求めていないのかもしれないという不安が私を捕えた。(原文改行)しかし、その不安を超えて私を書く方へ押し出したのは、このままでは、「蛍の樹」で虚しく輝いている兵士たちの魂は帰還できないという想いであった。双方で千万人を超える死者を出した戦争の主役を演じてしまったわが国で、戦争の名前も決まっていないというのは、世界史のなかでも滅多にない醜聞ではないか。」(『わたつみ三部作』のあとがき「詩が滅びる時」、二九六頁)。

【註5】 朝日新聞社が八月二十二、二十三日に実施した全国世論調査(電話)によれば、「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という総理談話に「共感する」が六十三%に及んでいる。植民地という事態を改めて学ばねば、そういうおもいは無慈悲に萎れる結果であった。幕末期、欧米からみれば驚嘆すべき慎ましさと隣りびとへのやさしさを有していた日本人は変質したのか。惻隠の情など、かけらも残っていないのであろうか。

【註6】 保阪正康の「戦場体験者の記憶と記録」(雑誌『ちくま』二〇一三年九月から二〇一五年六月まで二十二回連載)は、中国や南方戦線で闘った一般兵士(敗戦時、二十歳前後)が自らの残虐行為を戦後なぜ発言しなかったのかという視点で書き継がれている。「ひと粒の水滴でもよいから残しておくべき」という執念での連載であった。
シベリア抑留体験のある父からの二年間にわたる聞き取りである小熊英二の『生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後』(二〇一五年)は新書版だが分厚い。シベリア抑留という戦時体験に、戦前と戦後の生活史を挟むことにより、特異な体験の連続と切断性が描かれている。小熊氏は、後世に伝えるべき経験をした人の記憶を聞き取り書き残すことは学者の役割だとし、「記憶というものは、語り手と聞き手の相互作用で作られる。聞き手に聞く力がなければ、語り手から記憶を引きだすことはできない」と添えられ、何も聞きだせずに母を死なせたわたしの胸に迫る。

【註7】 この一月、決定版『東京空襲写真集―アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録』(早乙女勝元監修・東京大空襲・戦災資料センター編、勉誠出版)が上梓された。初公開の約二百枚を含め千四百枚を超える記録写真には、言葉を奪われ蕭然と佇む庶民の姿が切り取られている。敗戦直後の写真撮影は厳しい統制下に置かれ、軍か警察関係者しか撮影はゆるされなかった。そのなかで、陸軍参謀本部直属の出版社である東方社(部長、木村伊兵衛)の菊池俊吉や警視庁の専属カメラマンの石川光らの貴重な記録が収録されている。石川はGHQの提出要請を拒絶しフィルムを庭に埋めた坪の中に隠し守り抜いた。

【註8】 桶谷秀昭は、壊滅した光景のなか茫然自失する瞬間、日本人は何か別の厳粛な存在、『荘子』のいう天籟を知った、とする(『昭和精神史』の第二十章「春城草木深し」)。

【註9】 財団法人政治経済研究所付属東京大空襲・戦災資料センター戦争災害研究室は、加害と被害の重層的な関係から「無差別爆撃」の国際共同検証作業をすすめている。広島、長崎だけが「唯一の被爆国」という紋切り型の発想ではなく、日本への空爆を重慶や成都、ドイツのドレスデン、さらに、現在のアメリカ軍によるイラクやシリアへの空爆との繋がりでとらえようとする試みである。共同研究のメンバーに、阪神大震災時、わたしたち「震災・まちのアーカイブ」と共に活動した山本唯人の名を見出すことができるのは心強い。なお日本の空襲研究は今や中国語に翻訳され、国際シンポジウムの基礎資料になっている。

【註10】 中井久夫の「戦争と平和についての観察」(『樹をみつめて』みすず書房、二〇〇六年、五十七頁)に「今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある」とあるが、この言葉、いまさらながら噛みしめる。この観察は今年八月に上梓された『戦争と平和 ある観察』(人文書院、八頁)に再録されている。観察といえば、「「昭和」を送るーひととしての昭和天皇」(『「昭和」を送る』(みすず書房、二〇一三年、八四―一二二頁)は秀逸な一篇である。現在この観察を貫けるのは中井氏ただひとりであろう。

【註11】 一方的な被害者である水俣病の患者さんは、長年にわたる闘争のすえ、自らも加害者であるという地点に到達している。映画『のさりー杉本栄子の遺言』(西山正啓監督)、緒方正人『チッソは私であった』(葦書房)参照。

【註12】 「生きながらの大量焚殺」は『方丈記私記』(ちくま文庫、一九八八年、五十六頁)。堀田善衛は比類のない文人である。『方丈記私記』の冒頭部分で、人間存在の根源的な無責任という重要な概念を提起している。該当箇所を引く。「大火焔のなかに女の顔を思い浮かべてみて、私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物であると痛感したことであった」(十六頁)。二〇一一年三月十一日のカタストロフィー以降、この箇所に辺見庸は深く向きあい、人間存在の無責任と一般化するのではなく、あくまで個の問題、すなわちこれは「わたしの無責任」とし、他者の不幸に対し無責任に関わるしかない罪を背負いこんでいる。

【註13】 太宰治の「冬の花火」「春の枯葉」(昭和二十一年)、「トカトントン」(昭和二十二年)、坂口安吾の「堕落論」「白痴」(昭和二十一年)、小林秀雄の「モオツァルト」(昭和二十一年)、武田泰淳の「滅亡について」(昭和二十三年)など。

【註14】 戦後民主主義を重んじる当時の大江健三郎は、山口少年によるテロリズムに深甚なる影響を受ける。その後『セブンティーン』を発表。

【註15】 再び中井久夫から。「前の戦争を忘れたころにつぎの戦争がおこります。日本は転向するとなったら雪崩を打つように速い。貧困や将来への不安から再びそうならないともかぎらない。(原文改行)いまの天皇・皇后陛下は憲法を大切にされています。最近皇后のなかの通りを一般に開放したりしているのは、不都合なことは隠そうとする秘密保護法案などの動きなどと何か関係があるのかもしれません。(原文改行)また天皇・皇后陛下が、靖国神社に参拝されない方針でパラオをご訪問されたのはうまく考えられたと思います」(「私の戦争体験」、『戦争と平和 ある観察』一一九頁)。
中井氏の深い教養から醸し出される謹みからはこういう表現になるが、陛下の真逆(朝敵というかつての発想を適用する気は毛頭ないが、自由民主党の日本国憲法改正草案の第一条は「天皇は、日本国の元首」に変更されている。ならば現政権の政治行為は元首への裏切りである)を実行する
ものとはいえないだろうか。狡知にたけた安倍政権の意志(ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた、あのナチスの手口を学んだらどうか、こう発言した麻生太郎副総理)の節操のなさは類例がなく、身震いを禁じ得ない。

【註16】 最後にもう一度中井氏に登場していただく。「人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。(原文改行)「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである」(前掲、十九頁)。まさに慧眼、しかし現実にはこのようにことが運ばれ、一度あったことが繰り返された。記憶の伝承は難しいが、若いひとびとが立ち上がった。彼らを前にして、はずかしくない行為をせねばとわたしはおもっている。

 

 

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季村 敏夫 (きむら ・としお)

1948年京都市生まれ。 古物古書籍商を経て現在アルミ材料商を営む。

著書に詩集『木端微塵』(2004年、書肆山田、山本健吉文学賞)、 詩集『ノミトビヒヨシマルの独言』(2011年、書肆山田、現代詩花椿賞)、 『生者と死者のほとりー阪神大震災・記憶のための試み』(1997年、人文書院、 編著)、 『山上の蜘蛛―神戸モダニズムと海港都市ノート』(2009年、みずのわ出版、小野十三郎特別賞)、 編集『神戸モダニズム』(都市モダニズム詩誌、第27巻、ゆまに書房)など。