『制御と社会――欲望と権力のテクノロジー』


序章
「監視社会」から「制御社会」へ――プラグ・イン

第一章
制御の形態分析――スタートアップ・メニュー

1.制御の三つの形態

2.制御の動作分析

3.制御の強度分析

第二章
経済の制御、政治の制御――アプリケーションno.1

1.経済のなかの制御から、制御のなかの経済へ

 

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北野圭介(きたの・けいすけ)/1963 年生。ニューヨーク大学大学院映画研究科博士課程中途退学。ニューヨーク大学教員、新潟大学人文学部助教授を経て、現在、立命館大学映像学部教授。著書に、『ハリウッド100年史講義:夢の工場から夢の王国へ』(平凡社新書、2001年)、『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』(平凡社新書、 2005年)、『大人のための「ローマの休日」講義:オードリーはなぜベスパに乗るのか』(平凡社新書、2007年)、『映像論序説:〈デジタル/アナログ〉を越えて』(人文書院、2009年)など。


 

 

   第二章 経済の制御、政治の制御――アプリケーションno.1

前章では、制御の思考が、その拡大と浸透にあたって、どのような形態をとるのかをまず考察し、自己の制御、他者の制御、自他の関係の制御という三つ組の形態としてそれは顕現するという結論に辿りついた(第一節)。次に、制御の思考が、実際の行動や思考の場面でいかなるどのような軌道を示しているのかを考察し、機械なき機械としての変幻自在の己の特性のもと、対峙する世界のみならず自らが設定するインターフェイスさらにはそこへ関与する意識にまでも喰い込み、終わりのなき自己更新のスパイラル運動を作動させていることをみた(第二節)。さらには、それがいかなる強度をもってわたしたちの思考に作用をあたえているのかという問いを通して、それがもっとも明示的に顕現するだろうコミュニケーションの場面での制御なるものの作用を、メディアなきメディアとして縦横無尽に、主観と主観の間の関係性を再編成するさまを確認した(第三節)。

 この章では、制御の思考を、より具体的な水準でのそれがなす動きをみていくことにしたい。わたしたちが向かう先は、政治経済という水準における、制御なるものの、あるいはそれが拡大し浸透した思考の、実際である。
 

1.経済のなかの制御から、制御のなかの経済へ

まずは、経済の領域においてデジタル情報技術とともに登場してきた「制御」なるものはどのようなものとして存立しているかを考えてみたい。むろん、一種の概念装置として作動する用語としての制御のあり様を考察する本稿においては、デジタル情報技術において定義される制御システムが企業取引や会計計算の場面にどのようにとりいれられたかということを問うものではない。そうではなく、「情報社会」と呼ばれたりもする現代において、制御の思考がどう経済の領域に侵入し自己を展開していったのかを観測することにこそ重点がおかれるだろう。

ではあるもの、もしかすると人が直観的に思い浮かべてしまうような、株式取引におけるクラッシュや誤発注のような事件に焦点があわされるわけではない。わたしたちは前章第三節において、デジタル技術論の用語では「通信」と訳されるコミュニケーションの形式性が、社会科学や人文学では「意思疎通」とこれまで訳されてきた、より広い意味での人間活動としての「コミュニケーション」に浸透しているかという問題に焦点を合わせてきた。それと同じ問題関心の地平のものと、「制御」という概念あるいは思考が、どのように経済活動の場に侵入をはじめ、そして経済をめぐる思惟をまるごと再編成するかの勢いで自己を展開しているのか、そのあり様こそに、考察の焦点を合わせたいのである。

その意味において、経済のなかの制御から、制御のなかの経済へという仕方で理解されうる問いこそがこの節で扱われるものとなる。

具体的には、第一に、現代に特徴的な経済の動向(「新自由主義」「グローバリゼイション」といった語句で形容される動向)とデジタル技術の押しすすめた情報文化の親近性を確認するとともに、そうした親近性は実践的にはいかなるかたちのものであったかを考察する。次に、金融および労働という具体的な水準におけるこうした新しい経済動向において観測しうる形態を分析し、いかなる意味で制御的メカニズムと連動するものになっているのかを考えたい。しかし、わたしたちの方法は上の目的に即して、現象の測定を通してではなく、概念あるいは言説群の軌跡を辿ることを通してなされることとなる。

 

 新自由主義とデジタル技術、グローバリゼイションとデジタル技術

改めて指摘することもないのかもしれないが、「情報社会」なるものの出現と軌を一にして、いわゆる新自由主義――ときに剥き出しの資本主義と呼ばれたり、強欲な資本主義と呼ばれたりする――と一般に呼称される経済の潮流が台頭したことは改めて確認されておいてよいだろう。とはいえ、急いで断っておかなければならないのは、この語「新自由主義」は、厳密には経済理論なり政策のかたちで明瞭に打ち出されたものであるというよりは、知的ジャーナリズムにおいて事象を名づけるために持ち出されたものである。端的には、「福祉」概念が登場する前「小さな政府」の19世紀の前半の、統制的というよりは「自由主義」的な市場理解を、1970年代以降歴史に登場した市場中心主義の一連の動きに再度適用しようとしたものだといえよう。したがって、わたしたちとしても、分析概念というよりは、むしろ現代の経済動向をとりあえず同定するための緩い記述概念として考えておきたい。

いずれにせよ、新自由主義は、マーガレット・サッチャー政権やロナルド・レーガン政権で打ち出されたという点から行政政策のレヴェルで、あるいはミルトン・フリードマンに代表されるマネタリズムの経済思想のレヴェルで、論じられることが多い。そうしたときに、デジタル技術や情報文化とほぼ同時期に歴史に登場したという事実についてはそれなりの言及がなされることは少なくないのだが、踏み込んだ論及がなされることはほとんどない。

たとえば、日本においてそうした新自由主義を牽引し、だけれどもいわゆるリーマンショック以後「転向」し、自ら宣言したエコノミストは、次のように語っている。

 

1980年前後にはじまった「サッチャリズム」や「レーガノミックス」は、「小さな政府」を目指し、規制を撤廃し、あらゆる経済活動をマーケット・メカニズムの調整に委ねることが経済効率の向上とダイナミズムをもたらすという「新自由主義」思想から生まれた。

政府の介入や社会からの善意を頼りにするのではなく、個々人が自己責任に基づいて競争する社会こそが健全なものであり、そうした自由な社会こそが人々を幸福にし、経済を発展させるのだという新自主主義の考え方は、折しも起きた冷戦の終結、ソ連の崩壊によって、その正しさが証明されたという印象を大多数の人々に与えた。[1]

 

さらに、「ソ連の崩壊」のあと、さらには「ロシアや東欧圏と西側諸国との間に立ちふさがっていた市場の壁(そういえば「鉄のカーテン」という言葉があった)が消え去」ったあとの次第について、このエコノミストは次のような文章へとつなげている。 
 

この結果、ついに人類は「グローバル・マーケット」の時代に突入することになったのだが、こうした動きに拍車をかけたのは、コンピュータとインターネットによるIT技術の本格的普及だった。世界中をカバーする情報網を簡単に、そして安価に構築することが可能になったことで、これまで投資をためらっていたような遠い地域や辺鄙な場所であっても、西側諸国の企業が進出できるようになったというわけである。[2]
 

 このエコノミストが、現時点で新自由主義と形容されている経済動向についてどこまで支持しているのか、どこから批判しているのかを吟味するのも興味深いところではあるが、それはわたしたちの当面の考察とは関係するものではない。そうではなく、この種のエコノミストが、こうした現在の経済動向を語る際に、どうしても「コンピュータ」や「インターネット」に言及せざるをえない部分にこそわたしたちの関心は向けたい。

新自由主義に関して、政治学の立場にある海外からの論者の概観も引いておこう。先のエコノミストも「グローバル化」あるいは「グローバリゼイション」という言葉を頻繁に登場させるが、この政治学者もじつのところ、1970年代以降の経済を語るときのもうひとつのキーワード「グローバリゼイション」をタイトルに付した論のなかで新自由主義を論じつつ情報文化の動きについて頻繁に言及する。  

1970年代初期にブレトンウッズ体制は崩壊し」、それを端緒として「自由主義の拡大に基礎を置いた新グローバル秩序」が強まっていったと彼はいう。「世界の根底的な政治変化は、アメリカを本拠とする諸産業の経済的競争力を掘り崩し」、1971年に「金本位の固定相場制度を停止」し、その後の10年はグローバルな経済的不安定を迎えたという。それは具体的には、「高インフレ率、低い経済成長率、高い失業率、政府部門の赤字、そして世界中の石油供給の大部分を統制できたOPECが引きおこした過去に例のない二度のエネルギー危機というかたちであらわれ」るが、この危機のなかで、「統制型の資本主義モデルにもっとも強く共鳴してきた北世界の政治的諸勢力は、経済・社会政策への「新自由主義的」アプローチを唱える保守的政党に対して、選挙で大敗を喫し続けることになった」のだと続ける。こうした流れを受け「1980年代までに、イギリスのマーガレット・サッチャー首相とアメリカのロナルド・レーガン大統領が、ケインズ主義に対抗する新自由主義的革命を先導し、グローバリゼイションという考えを意識的に世界中の経済「自由化」とむすびつけていった」のだと論じるのである。[3]そして、「最近30年間に経験したような大規模な技術進歩は、社会に市場を中心とした深遠な変容が起こっていることを示す有効な指標である」と断言もする著者は、論述のなか随所で「グローバルな電子投資ネットワーク」「新しい金融システム」「光ファイバーケーブル」「サイバー空間」「インターネットやそのほかのテクノロジー」などの言葉を登場させるのである。

先の日本のエコノミストと同じように、新自由主義あるいはグローバリゼイションを描き出そうとする際に、デジタル技術の話題はどうしても避けがたいかのようでもあるが、この二人にだけ特徴的なことであるわけではない。新自由主義と、グローバリズム、そして、デジタル技術の発達が可能にしたコミュニケーションネットワークの高度化は、三点セットで語られることがごく一般的であるといってもいいだろう。しかし、どのような意味でこれらのトピックは三点セットであるといいうるのであろうか。

大半の場合、こうした論が指摘するのは、デジタル技術、とりわけコミュニケーションに関わる技術が可能にした、領域や領土の境界をやすやすと超える「自由化」が、「新自由主義」あるいは「グローバリゼイション」という潮流を生んだのだという点である。少し踏み込んだものでも、コミュニケーションに関わる技術がもっとも顕著に実現したのは、IT技術による金融工学の登場と、国内外の市場間の取引工程の簡便化、に言及するのがせいぜいである。

コミュニケーションのグローバル化や、IT技術による取引の簡便化はまことにイメージしやすく、おそらくそうだからこそ、デジタル技術あるいは情報文化は現代経済に関する夥しい論稿のなかで、新自由主義というにせよグローバリゼイションというにせよ、迎えつつある世界は、支持する立場からはユートピア論として、批判的立場からはディストピア論として描き出されていったのかもしれない。とはいえ、この種の価値評価はさしあたりわたしたちの関心事ではない。わたしたちが知りたいのは、現代経済とデジタル情報文化の関係の、制御なるものの作動がみえるほどに照らし出された親和性である。

 

 新自由主義の二段階

最初に切り口として、1970年代よりはじまり今日まで続いているといささか性急に素描してきた新自由主義の潮流についてより丁寧にスケッチし直す作業をおこなってみよう。

というのも、少なくとも、新自由主義がはじまったとされる1970年代には、まだコンピュータ文化は、ごく一部の特権的分野の恩恵に浴する人々にしか浸透していなかったからである。大半のひとびとにとっては社会のインフラストラクチャ―として定着し機能しているものではけっしてなかった。少なくとも金融の現場では1970年代においては、ゴールドマンサックスやモルガンスタンレーなどが用いていた、株式市場との電子アクセスを可能にする「ワイヤー・ハウス(自社専用回線)」の水準にとどまっていたのだ。[4]わたしたちは、コンピュータの一般的な普及がどの時点として同定することができるのかという問いに過度に耽溺する必要はないものの、それでもなお、一般の人々のごく当たり前の生活のなかでのデジタル技術そしてそれによるコミュニケーション行為の新しい形態の社会への浸潤を、新自由主義やグローバリゼイションを語る際には十分に丁寧にみておくべきであることは間違いないのだ。

たとえば、これに関して、象徴的にも実質的にも、新自由主義の経済の次元での範例として頻繁に言及されてきた国際通貨基金(IMF)の動向について、その機能拡大の推移についてケース・スタディとしてみておくことができる。

周知のように、第二世界大戦後、通貨を統制しつつの西側の経済活動を、固定相場制を前提とした通貨政策誘導しようとしたブレトンウッズ体制の主たる機関として、つまりは、国際通貨体制の安定と国際収支のバランスを主たる任務としてIMFは発足している。だが、1971年のニクソン・ショック以後、197273年にかけて固定相場制から変動相場制へ移行するなか、IMFはそうした本来の役割を失い、さらには1979年の第二次石油危機、加えて70年代末からのラテンアメリカ諸国の対外債務問題に直面し、経済危機にある当該国に「金融支援をおこなう融資機関として変貌をとげる」ことになる。そうした経緯のなか、IMFが1980年に「構造調整策(Structural adjustment facility)」(のちには「拡大構造調整ファシリティ(Enhanced Structural adjustment facility)」)を、通常融資の範囲を超えるかたちで設定することになったこと、そしてその際、支援対象国に財政再建を中心にした中長期の構造改革を「コンディショナリティ(融資条件)」として課し、財政再建の短期的改善、国営企業の民間化、各種補助金削減の実施などが当該国に要求されることになっていたことはしばしば論じられているとおりである。[5]

だが、1990年前後にIMFなどが主軸となって新たに設計された「国際的な資本取引の自由化」の施策が実施され、それが多くの途上国で資本流出の危機的状態を引き起こすことになったという事態は、上でみたような構造調整型の施策方向に決定的な打撃を与える。要するに、IMF政策が想定していたよりも、はるかに通貨の速度、資本が支援対象国から流出する速度の方が速く、資本の国外流出により当該国の経済がまるごと危機に瀕したからである。1994年のメキシコ危機、1997年から98年にかけてのアジア危機、1998年のロシア危機などである。[6]

要するに、IMFの現代史をみるかぎり、その(アメリカ合衆国も含め)各国の金融施策との関連、グローバルな(融資国への)関与のあり方、双方において看過できない段階的変容が認められるのである。

こうした段階的経緯を一括して不用意に一般化し、現在にいたるまでの新自由主義とグローバリゼイションを論じる向きも少なくない。たとえば、左右両派から、IMFの任務に関わるこうした変更がレーガノミックスの背景のみならずアメリカ政府の対外政策とも同調していた点、また予測していた経済回復が生まれなかったばかりでなく様々な社会不安を引き起こしてしまったこと点などから、アメリカの覇権的拡張主義批判の観点から記述し解釈されることも少なくない――これについてはすぐさま、いわゆる「帝国」概念の妥当性をめぐる問いや、不均等発展の詳細をめぐる問い、あるいはさらに新たな統治性の形式をめぐる問いなどを引き寄せるが、そうした問いについては、制御と経済をさらに政治も含めて扱う次節で論じることとしたい。[7]

わたしたちとしては、197090年前後の新自由主義と、1990年代以降の新自由主義を区別して考えることしたい。この区分けは、デジタル技術が実現したコミュニケーションが関与している以上、制御の作動にもついても看過できない面があると思われるからである。
 

 レーガノミックスからクリントノミックスへ

こうした腑分けは、新自由主義の展開過程のなかでめまぐるしく変転した経済思想の諸潮流においてもまた対応するものであったということができる。それもおさえておこう。

新自由主義の思想上の擁護は、オーストリアにおけるオルド学派にはじまる。[8]自由主義のラディカルな支持を唱えたフリードリッヒ・ハイエクが、ときとして新自由主義の起源もしくは前史にあるとされる論は少なくないが、ハイエクもこのオルド学派に属する経済学者である。暴力的に単純化していえば、オルド学派が理論的に整備したのは、市場において生起することは何であるかという問いをめぐるものであったといえる。彼らは、市場においてなされるのは、市場需給や価格決定に関する調整メカニズムの作動ではなく、競争という状態の実現であるという。背後にあるのは、この競争なるものこそが、自生的秩序をつくりだすのだという論理である。計画経済などにより運営されるような秩序形成は、理論的には一種の独裁主義もしくは全体主義に陥るほかない。端的にいえば、自生的秩序を積極的に構成するために、われわれは市場をその場として構築せねばならないということである。ハイエクがその著において、経済現象の分析というよりも、集産主義(collectivism)などの経済的統制がいかにして個人の政治的自由を抑圧することになるのか――裏側からいえば、なぜ社会主義は政治的自由を奪う社会にならざるをえないのか――について強く論じつづけるのもこのためである。[9]

この点を考慮すると、ときとして解されるように、ミルトン・フリードマンとハイエクの類似と相違も浮かびあがってくるのではないか。というのも、フリードマンにおいて前景化してくるのは、競争なるものの強く政治的または倫理的な擁護のみならず、通貨量の調整に一層の焦点をあてた議論を展開しているからである。『資本主義と自由』において興味深いのは、第三章で国内においては貨幣供給量と利子率で金融政策をおこなうことが重要であるというマネタリズムの素地をつくる反面、国際金融政策を論じる第四章では、変動相場制が自由の名のもとに支持されているという点、さらには財政政策による景気浮揚の施策を不要な政府支出として断じる第五章、累進課税制よりも「機会の自由」に重きを置く分配制度を唱える第十章である。[10]

競争の擁護に加えて、金融政策と通貨政策の重視、さらに財政政策の収縮化が重ねあわされる論点はまさに新自由主義を支える経済思想としてふさわしいものとなっているといえるものだ。とはいえ、とにもかくにも、1974年にハイエクが、1976年にフリードマンがノーベル経済学賞を受賞し、さらには、1979年時の連邦準備制度理事会(FRB)議長がフリードマンの理論を支持し、いわゆるレーガノミックスが本格的にスタートすることになることは周知のとおりである。そして、マネタリズムとして総称されるようなこうした諸施策の方針は、市場の機能を重視する新古典派経済学に沿ってあるいは少なくもそれと同調しつつ実施された部分がある。

だが、この種の思想が、他方で、IMFの失策をはじめとする情勢を受け、1990年代以降、とくにクリントン政権になって以後、実務にも近い思想実践のなかで強く見直されることになったことはしばしばし見逃される。ハイエクからフリードマンへの経済思想の流れは、新古典派理論を、その市場特性の理解の仕方において批判しつつも、市場なるものの概念は維持しつづけたといえるところがあったわけだが、レーガノミックスと対比されて当時クリントノミックスとも呼称された新たな一群の経済思想は市場の万能性に対する強い懐疑から出発しているのである。

実際、クリントン政権において米国大統領経済諮問委員会委員長であった経済学者ジョセフ・E・スティグリッツは、経済研究の水準では市場参加者のなかの情報の非対称性を指摘し市場における完全競争の無根拠を前提にしない理論を構築するとともに、実務の場ではIMFの資本自由化の施策を痛烈に批判し、さらにはIMFと共同路線をはった(IMF、世界銀行、アメリカ財務省の実務者一群による)「ワシントンコンセンサス」に反対し財務省と敵対したことは周知のとおりである(IMF批判を軸とした著作まで記している)。[11]あるいはまた同政権において1993年より労働長官となる経済学者ロバート・ライシュは、1991年に発表した『暴走する資本主義』で、「社会全体の利益」や「公共の利益」をないがしろにした1970年代以降の市場主義に強い警告を発し、やがて一部のエリート階層と大多数の労働階層の間にとてつもない格差が生じていることを強く批判する提言をはじめていた[12]。彼らのこうした論点は、近代経済学の学説展開史のなかでこそしっかりと観測されるべきである。言説空間の通時的コンテクストを踏まえないそうした身振りは、たとえば、イデオロギーが先行し、新自由主義の穏当派として評価したり反対にリベラル派よりの国家主義者として位置づけたりする乱暴な裁断にいたりかねない。

もっといえば、こうした懐疑と見直しのなかから生まれてきたものが、市場を外部から支える諸制度を市場の安定的な維持管理のためには不可欠とする制度学派の見直しであり、市場を、むしろ参画しているエージェント(プレーヤー)の情報処理に関する場として考えゲーム理論の導入をはかる経済理論であるといっていいだろう。大急ぎで付け加えておけば、市場のみならず、市場において行動する人間(あるいは企業の代表としてのエージェント)も本性上失敗することがありうるとする行動派経済学が、認知科学の知見を活用しつつ台頭してきたのも大きくはこのラインに沿った流れであるといっていいだろう――オバマ政権を支える経済学理論のなかに行動派経済学があることはよく知られているとおりである。あるいは、その逆の方向をもつものが、行動ファイナンス論なのかもしれない。
 

 「貨幣のコントロール」と「金融アーキテクチャ」のあいだ

すでに触れたように、市場主義こそが政治権力からの自由を担保するもっとも適切な装置であるとするミルトン・フリードマンがその著『資本主義と自由』において、まさしく新自由主義の勃興ともなった、貨幣供給量(マネー・サプライ)とインフレーションの理論を打ち出したのは、「国内の金融政策」と題された第三章である。だが、実のところ、その原題は「貨幣のコントロール(Control of Money)」であり、戦後の新古典派主義の理解のなかで位置づけられていた財政政策の働きの限界を指摘するとともに、貨幣量の制御によるインフレーションの制御の重要性を前景化するためのタイトルであったというべきだろう。

これもまたすでに触れたことだが、この論を支持するかたちで、1979年に当時の連邦準備制度理事会(FRB)ボルガー議長が、当時アメリカにおいて深刻化していたインフレーションを抑制するために貨幣供給量の引き締め策を講じる。このとき、国内金融状況に対する一種の介入のかたちで実現され、海外の国々の経済活動にまで波及していったという点を考慮するならば、「貨幣」の「コントロール」とは、まさに、第一義的には国単位で想定された、貨幣量のコントロール、つまりは、貨幣のための貨幣による制御という自己言及的なメカニズムを指しているということだ。その上で、経済活動、とりわけインフレーションを軸として想定される景気変動を間接的に「制御」することを主たる意味合いとして用いられた語であるといっていいだろう。

これと対照的な仕方で照らし出されてくるのが、ほぼ四半世紀ほど経って、フリードマンと同じくノーベル賞の栄誉にも与り、また実務にも近い経済学者ポール・クルーグマンが、アジア通貨危機をはじめとした1990年代半ばの国際金融危機に関して分析し総括した論を述べる際におこなった「金融アーキテクチャ」という言葉遣いである。

インターネット文化に積極的に発言をおこなう憲法学者ローレンス・レッシグがデジタル情報文化を論じる際に用い、それを端緒として広まった感のある「アーキテクチャ」という語が、そうしたことを踏まえて用いられているのかどうか定かではない。だが、クルーグマンはこの語を用いる直前の箇所でアジア危機を分析する際に次のような文章を記している。したがって、金融を「制御」する可能性と不可能性を考察する問題系のなかでこの語を用いていたことは間違いない。

 

アジアの金融危機は199772日、タイ・バーツの切り下げとともに始まったと一般に考えられている。(中略)1997年上半期に、バーツが切り下げられるかもしれないという憶測から、外貨準備が加速度的に減少した。そして72日に、同国は管理された範囲で15%の切り下げを試みた。しかし1974年のメキシコの場合と同様、穏やかな切り下げの試みは制御不能となり、大規模な投機とはるかに大規模なバーツの下落に拍車をかけた。(傍点引用者)[13]

 

 これを受け、クルーグマンはこう論をすすめている。

 

経済的な困難は、必然的に経済改革への提案をもたらす。アジアの経済危機とその影響は、国際通貨制度の見直し、あるいは少なくとも発展途上国に適用される部分については全面的な見直しが必要であることを多くの人に示した。このような全面的な見直しの提案は新しい金融「アーキテクチャ」のための計画という、漠然としてはいるが印象的なタイトルの下に分類されるようになった。[14]

 

因みに、クルーグマンはここで、「アジア危機が、どうして国際通貨制度の再考が緊急に必要であるとほぼすべての人を納得させることになったのだろう」と問い、まず「アジア諸国の問題は主に国際資本市場との関係から生じたように思われる」という理由をあげ――あえて付け加えておけば、従来想定されていたようなかたちでの「投機的な攻撃を受けやすい従来の兆候を見せている国は一つもなかった」としている――第二の理由としては「国際資本市場を通じた伝播力が明からに強いこと」を考えるべきであろうと自説を展開している。[15]

国際資本市場あるいは国際金融市場なるものがIT技術と金融理論が結びついた金融工学をベースにしてその基盤が出来上がっていたことは周知のとおりである。[16]したがって、先に示した「制御不能」という言葉は、具体的には金融工学を下敷きにした資本移動に関わる国際市場においてその動きが「制御不能」になったこと――各国政府はもちろんのこと、IMFも含め国際経済機関が「制御不能」となったこと――をこそ意味しているといっていいだろう。クルーグマンは、これをうけて、「金融政策の独立性」「為替レートの安定性」「資本移動の自由」からなるトリレンマ――このうち最大で二つしか両立できない――の難問に対処する立案こそが「アーキテクチャ」の課題となるという。[17]

 貨幣の「コントロール」すなわち「制御」の問題は、フリードマンからクルーグマンへという経済思想の言説移行のなかで、象徴的にその位置づけその意味合いを明らかに変貌させてきているということだ。

もちろん、貨幣供給量の操作という意味合いでの国内金融政策の理論フレームから、資本の流出入に関わる国際金融市場に関わる理論フレームへと課題対象が移行したのだと解することもできよう。だが、異なる角度から照射すれば、「意思疎通」としての合意(コンセンサス)が自由な欲望の跋扈する市場を調整しうるという段階から、「通信」としてのコミュニケーションが市場を震えさせる段階へと移行したもいうことも可能かもしれない。

「制御」概念の振る舞いに理論的な焦点をあてているわたしたちは、それに加えて、これらの二人の気鋭の論客の言説が含羞するこの語に関わる意味づけの布置の差異は、もっと大きな問題系、現代経済をめぐる思考様態の特性に関わる問題系へとつながっているという点も指摘したい。
 

 コミュニケーションの構造転換

 どういうことか。

なにごともそうであるが、一般化された、あるいは抽象的な思想や理論はできるだけ具体的な次元に即して考察せねばならない。別言すれば、観念が生まれる場としての唯物論的な次元に戻して考察する必要があるだろう。そう考えるとき、経済活動に対するコミュニケーションの構造の根本的な転換こそに現在、つまり新自由主義の核心が存するとする興味深い論を見つけ出すことができる。その論者は次のように言い切っている。

 

 コミュニケーション、そしてまた、コミュニケーションを情報の流れとして生産的に組織化することが機械生産の時代における電力と同じくらいに重要になってきた経緯は、すでに理解されている。実際、コミュニケーションは、商品の流通販売からその生産や返品にいたるまで生産過程全体にとっての潤滑油になっている。生産と消費、供給と需要の関係を逆転させることができるのは、コミュニケーションによるのであり、サラリーマンの硬直化した労働形態を崩してまで、できるだけ柔軟に生産過程を構造化することを余儀なくされるのも、つねに情報コミュニケーションによるのである。[18]

 

 この著者、イタリアおよびスイスを中心に刺激的な経済研究を発表しつづけているクリスティアン・マラッツィによれば、「流通の観点」からいえば、こうした「逆転」は「バーコード」に象徴的にあらわれている。「おそるべき情報集積機器」であるこの装置は、「小売りの売上高についての全データ、人気商品の個数、消費の上下の期間(時間帯)、「製品の直接収益率」(使用中の陳列空間、放送や色の種類などとともに)が一目瞭然で」あり、「流通販売の瞬間が消費者の情報データ収集の場所となり、そのおかげで、物品サービスの大量消費を個別のニーズに合わせることのできる」装置となっている。

 「生産という観点」からは、トヨタ方式ともトヨティズムともいわれている「カンバン方式」に「逆転」はまさに具現しているだろう。これは、「生産指示規格と引き継ぎ通達という二重の機能を果たす札票を[工程間をつなぐ]連絡カートの上に置」くことで、「前後水平に行き交う情報の流れを利用しながらさまざまな職場のやり取りを調整する仕組み」であるといえる。結果、「生産中枢の業務計画に依存する必要」をなくすのである。

 さらに具体的な経済実践の場、生産や労働の場面についてもマラッツイは論をすすめている。20世紀前半を中心に支配的な生産フォーマットとして機能した労働体制を、アメリカの自動車工場での実践形態をもとにモデル化し、「フォーディズム」を用語として形容することが社会科学のひとつの特徴づけの仕方としてある。業務内容が(多くの場合は、部品ごとに)区画化された上で全体が流れ作業などの工程表のなかで統合される仕方ともいえるが、それは業務ごとのの専門(熟練)労働者を生み、その体制による給与水準の総じて安定的な維持が、労働者自身による大量消費を実現し、生産と消費が労働を媒介にしつつ循環するというサイクルの実現にまでつながっていただろう。だが、「フォーディズム」が1970年代に新自由主義の勃興と時を同じくして終焉を迎えつつあったのではないかという問いが近年活発に議論されはじめている。マラッツィもまた、今日の生産実践あるいは労働実践はポストフォーディズム論という問題系を引き受け、次のようにも論じるのである。

 

 フォーディズムのシステムでは、流れ作業は、ホワイトカラーの部局でお膳立てされた指示を機械的に実行していたため無言でなされていたのであり、その意味では、生産はコミュニケーションを排除していた。それにひきかえ、ポストフォーディズムの生産システムでは、「話し合い」、コミュニケーションをとりあう生産工程が登場している。このシステムのなかで利用されているテクノロジーは、情報の循環を流動化することを主眼とするまぎれもない、「言語機械」とみなされるだろう。[19]

 

 むろん、この「言語機械」は、コンピュータとしてもっとも直截的な仕方で具体化され

ていると考えてよい。マラッツィは、この語を解説するにあたって、イギリスの数学者アラン・チューリングが1936年に理論化し今日の情報テクノロジーの発端となった文字通りの「言語機械」、すなわちわたしたちもまた前章でとりあげた「チューリング・マシン」に言及している。ただ、(これもまたわたしたちの発想を同じくするものであるが)、そうした「言語機械」は、一種のメタファーとして、企業活動を組織する言語コミュニケーションのモデルともなっているというのである。

労働の場面におけるこうした言語の位置転換のさらなる中核的意味を指して、マラッティは、ユルゲン・ハーバーマスがかつて唱えた道具的理性を超えた理性の土壌でもあった、つまりは労働の外部でもあったコミュニケーション行為が、いまや労働のなかへ、道具的理性の域内で中心的に機能するものとなったとまで論じる。コミュニケーション行為はまさしく構造転換をおこなったというわけである。
 

 金融が市場をのみこむとき

マラッツイはこうした観点から金融とは何かについて、ラディカルにも歴史を参照しつつ具体的に説明を与えている。1975年にアメリカにおいて「経済の株式融資を強化するため、貯蓄の放出に向けた仕掛けが指導」したこと、また「いつでも資金の換金が可能な」オープンエンド型投資信託が1982年に大きく株価を上昇させたことに言及し、次のように論じるのである。

 

年金基金そしてオープンエンド型投資信託とともに、まずアメリカ、それから世界中で、貯蓄の大々的な吸い上げがはじまり、株式への投資が増加します。銀行貯金から株式投資へという流れのなか、20世紀末のニューエコノミーの形成に決定的だったのは、家庭経済の貯蓄を株式取引に向かわせた進路変更です。この逸脱を〈金融化〉と名付けましょう。[20]

 

こうした事態は、「労資の分離を撤廃し、労働者の貯蓄を資本の変容/再編成の過程にかたくむすびつけ」、ひいては広い意味での「賃金」を「金融市場の〈調整変数〉に変えて」しまうことになっただろう。[21]同時に、こうした事態は当然、「金融市場で投機的に行動する」ことを引き起こすが、しかし、それは「市場が〈自己言及的〉であるかぎり〈合理的〉で」あるといわねばならない。というのも「価格は集団的見解の動きを反映しており、個々の投資家は情報そのものに反応するのではなく、その情報を受けた他の投資家の動きに反応して」いるにすぎないからである。[22]

 

 投資家の選択/決定の引き金として機能する世論は、慣習あるいは一般に〈真〉または〈支配的〉と認められた解釈モデルを備えています。この慣習は、社会自体から生まれ、生産と消費と想像力の社会関係の総体として歴史に現われます。ニューエコノミーの社会的金融力は、テクノロジー、言語、コミュニケーションのパラダイムとして出現しました。

 金融的流動性の凄まじい急成長は、ニューエコノミーをただ表面的に見て「カジノ資本主義」と命名する者もいたほどでしたが、それは通貨創造の場が中央銀行から金融市場へと〈移動〉したことを示しているのです。実際のところ、中央銀行が90年代を通して維持していた通貨流通量は、世論とそのコミュニケーション行為によって決定されていました。[23]

 

 「労働状況の変化と金融市場の変化」を「言語」あるいはコミュニケーション」をキーワードにしてその構造的変容を抉り出そうとする大枠の論構成は辿りうるものの少なからず個別事象群の整理に関しては混迷の感を呈するマラッツィの論述を、わたしたちの見地から強引であることを承知でまとめておこう。経済実践においてかくも金融化が前景化するにいたった動因は次のように概括できるのである。金融市場における貨幣流通の調整という名の制御であり、と同時に貨幣化のみならず証券化を含んだ意味での労働対価の調整という名の制御であり、さらには己の労働の貨幣表現に加えて金融市場の上げ下げを反映させようとする自他関係の調整をおこなおうとする制御であるといえるだろう。これら三つの市場における調整とされている働きが、前章第一節でみた制御の三つの形態と同型であることをわたしたちは指摘しておきたい。

さらにマラッツィに即して、ポストフォーディズムの労働形態も丁寧にみておこう。

今日の労働形態の特徴についてマラッツィは次のような点をあげている。[24](1)フォーディズム体制への批判を吸収し、「公共のもの」である「言語、コミュニケーション=関係構築に関わる行動」が労働へと摂取された、(2)フォーディズム的な時間に物理的に拘束される形態から、「スキル」「適応力」などを育成せねばならない「社会的な労働時間」までもが要求される「終わりなき労働」の形態となった、(3)ネットワークのなかで、すなわち「コミュニケーション空間」が拡大したなかで、結果「個々の搾取を全体のなかでみる」労働となった、(4)「個々の労働作業の(商品の生産に必要な労働時間の)〈計測〉が困難に」なった、(5)「〈記号=資本〉」すなわち「生産の社会関係の記号化」は、「私的なものが公的なものとなり、公的なものが経済とな」った、(6)労働に関わる「言語的協働」は、「労働者の〈身体〉」に宿ることになった、こういった点である。

これらもまたわたしたちの見地から暴力的に整理するとき見出されてくるのは、所与の言語により自らの労働を管理し、そうしたマニュアル化された言語により働きかける対象や対人あるいは言語を制御し、さらにはそれら二つを随時計測しつつ得られた観測結果を迅速に己と労働現場の関係へと反映させる、そうした三つのコントロールを円滑におこなう労働様態である。三つのコントロールが前章でみた制御の三つの形態と同型であることはみてとることにそれほど困難はないはずである。
 

 システムの自己言及スパイラル

さらにいえば、制御した己に対しても心身のさまざまな側面にも、他者に対してもその対象域にも、また必然的に自己と労働の関係の在り様にも、どこまでも限りなく更新しつづけねばならないということだ。わたしたちは、前章第2節で制御なる概念のなかには、「時空間的な適用版図の拡充」と「世界そのものの存立形式の変容」を孕んでいるとしたが、まさしくこうしたアナーキーなまでの動作の軌道と呼応するものであるといえるだろう。  

これに加えて、規模の拡張が利益率増につながるという「収穫逓増」の理論――これの洗練された理論化により、クルーグマンはノーベル賞を授与された――が接続されたとき、規模拡大の運動は、己にリミットを設けるような愚かな身振りをするはずがないだろう。これが意味するのは、三つの制御の形式が、己の版図をどこまでも広げる欲望のなか、自己展開を拡大しつづけるということにほかならない。これは、前章第三節で論じた「情報への欲望、情報へ向かう権力」が具現化された事態にほかならない。メディアなきメディアのコミュニケーション様式である制御の版図は、己の作動場所さえ変幻自在にし、一層の拡大と浸透を繰り広げていくであろう。制御は、経済の対象として、金融市場も労働の現場も、いや世界のありとあらゆるものを飲み込んでいくのだ。いまだ視界に浮かびあがっていないものさえも飲み込んでいくだろう。

 こうしたいわば新自由主義の経済の運動が、先にみたようなその二段階のフェーズのなかでどう推移していったかを照らし直してみる必要がある。そうすることでこそ、わたしたちの問いであるところの制御概念の振る舞いは浮かびあがるだろう。それを観測するときの補助線として、わたしたちは前章で言及したハーバート・サイモンをふたたび呼び出しておかなければならない。情報理論を人間の活動一般の基礎づけの理論へと導入した彼は、本来経済学者であり、しかも、1978年に(すなわちハイエクの4年後、フリードマンの2年後、そしてFRB議長のマネタリスト声明の前年に)ノーベル経済学賞を受賞し、経済学の言説空間に力のある論者として介入しはじめるからである。実際、この後、サイモンの領域をまたがる縦横無尽な精力的な活動が、多くの言説空間で彼の名と理論を浸透させていったことには括目すべきものがある。わたしたちは、ハードウェアの普及の前に、サイモンによる、知のソフトウェアの言語が日常に相当程度浸透したことに改めて驚いておいてよい(たとえば、効用を最大化するという形態ではなく、自身の活動を「満足化」の度合いのなかで推移させるのが、人々の経済活動、いや人間としての行動一般に認められる特性であるというサイモンの着想は、消費者アンケートから教育の授業評価アンケートにまで浸透しているものである。これについて次節においてより詳細に扱いたい。)

サイモンがそのノーベル賞受賞式の際におこなった講演で、「規範的意思決定論」という名称を用いつつ、マネージメントに「デジタル・コンピュータ」の理論を導入しうる道筋(「オペレーションズ・リサート」などの先駆的プログラムの例なども引き)を示しつつ、手続的合理性を称揚していることを看過しておくべきではない。

サイモンは、経済活動、とりわけマネージメント一般における意思決定に際して、このようにいう。それは、「ビジネス・スクールや学部において、企業があたかも現実の世界でも理論通りに動くあるいは動きうるかのごとくに」講義しているが、そうではないという。それは、「収益と費用の差を最大化することの問題」に端緒にあらわれるだろう。理論は、「利益最大化」などという単純な定式化はおこなわないものの、「利益体リスクの「効用化関数」を最大化すること」を目指すといった定式化はおこなうという。だが、である。

 

ところで現実の場面では、企業は、製品の数量を選択するだけでなく、あわせて製品の種類も選択しなければならない。しかもそれら各種の製品を、企業はときに発明したり設計したりしなければならない。また企業は、それらの製品を利益があがるべく組み合わせて工場で生産できるよう、スケジュールをたてなければならないと同時に、生産物を売るためマーケティング上の手続きや構造を工夫しなければならない。こうしてわれわれは、教科書に出てくるような企業のカリカチュアから、実際のビジネス界にあるような企業の姿へと、一歩一歩進んでいくのである。そして現実に近づくごとに、問題は、正しい行為の代替案を見出すこと(実質的合理性)からしだいに、良い行為の代替案がどこにあるかを計算するその方法の発見(手続的合理性)へと、移っていく。[25]

 

こうした手続的合理性を唱えるのには、意識決定のプロセスを、計算論的に構成されたプログラミングに実装し、現実の経営組織に組み込んでいくことが可能であろうという目論見もある。いい方を変えれば、「オペレーションズ・リサーチ」「オペレーション・アナリシス」など往時のプログラミングを例にあげて、それを制度的に応用する可能性をサイモンは指摘するのである。[26]

わたしたちがいう第一段階、すなわちレーガノミックスやサッチャリズムが謳われた時期においては、ハードウェアとしてのコンピュータの一般普及はいまだ実現していなかったものの、一般の言語空間のなかにおいては、サイモンの理論をひとつの波及力のあった例証として、人々の思考システムのなかには制御の思考はすでに存在しはじめていたのである。もう少し敷衍しておこう。

経済活動のなかへの制御の浸透の第一段階は、制御的思考が、理論的なかたちで経済・経営学に侵入しはじめた段階であるということができるということだ。手続的合理性あるいはそれを実装したプログラミングなどにおいて、組織において意思決定が制御が可能だという想定のなかですすめられた、欲望の「自由」の安定化が想定された試みであったといえるという点である。この意味で、フリードマンが、ハイエクのテーゼにある程度沿って経済的主体の自由行動こそが自生的秩序を作るとする論を展開する場合に、そうした主体に効用の最適化を想定していたが、サイモンはほぼ同時期にそうした最適化の不可能性を説き、手続的合理性を担保する制度的あるいは組織的システムの整備の重要性を備えていたことには注意しておいてよい。すでに、ここで競争は、市場の調整力ではなく、組織的意思決定の整備がそこに加わってこそ、サポートされるのである。急いで確認しておけば、先に触れたようにハイエクらオーストリアのオルド学派が理論化していた、自生的秩序を形成する「競争」という概念において、すでに市場概念は、実態的に調整機能を付与されておらず、競争の受け皿という意味合いしか纏えないものになっていたのだ。

国内でのそうした「競争」と「手続的合理性」を主回路とした(金融に関わる)メカニズム整備とそれが引き起こしたことへの対応が、結果として、海外へのさまざまな国の国民経済へ波及したことは周知のとおりである。つまり、メキシコ危機をはじめとした、1980年代を通して生起した「周辺」諸国におけるさまざまな苦境、困窮である。端的にいえば、アメリカのインフレ抑制政策を目指したドル金利引上げが、巨額のドル建て債務をもつ「周辺」諸国の利子負担を急激に上昇させたということだ。それが、IMFの構造プログラム型の実施へ、あるいはまたベーカー長官による「持続的成長のためのプログラム」へと展開していったこともよく知られているとおりである。

アマルティア・センが指摘するように、IMFをはじめとする国際機関には、政治的顕現を発動しうる参画メンバーの構成体のなかにあきらかな非対称を認めることができるが、[27]こうした一連の動きに一貫して看取されるのは、手続的に「妥当」であるとされた合意形成のプログラミング(合衆国においては金融政策、「周辺」諸国においては財政政策をはじめとした構造調整といった腑分けがそこにあることは見逃されてはならない)がなされれば、あたからもプログラミングが処理していくように当該国の経済活動を回復あるいは健全化していくだろうという発想である。

これと対照的な差異をなして、第二段階、すなわち、アジア危機をはじめとする資本流出危機で生じたことは、それとは異なる位相の危機だったのだ。ハードウェアとして実現した制御装置の機能が、人為的操作の制御域を超えて、アメリカを含めた世界規模の金融市場ネットワークに跳ね返ってこざるをえないほどに、アナーキーに動いてしまったといえるからである。クルーグマンをはじめとする経済学者が「アーキテクチャ」の構築の重要性を唱えるのも、そうした認識からであるといえるだろう。

不確実性は、予測不可能な事態を手続的合理性のなかで想定しえていた範囲を超えて、拡がり、もはや設計された範囲内では制御不可能なものになったともとりあえずはいっておくこともできるだろう。しかし、他方では、市場概念を凌駕した競争概念が、制御を踏み超え出ではじめたのだといえるかもしれない。だからこそのなのだ、先に触れたように、もはや経済学者は市場の見えざる手といういくばくか神学的な調整機能ではなく、より実態に即したかたちで、プレーヤー間の先読み競争を分析するゲーム理論や、誤認や逸脱行動も起こすことが普通である経済主体の行動を前提とする行動経済学などが頭をもたげはじめたのは。市場なるものはすでに、いわば制御の可能性と不可能性の狭間でうつろい、漂い、己の能力に自信をすっかり喪失しているかのごとくである。市場中心主義が、新自由主義の眼目であると多くの人々は論じてきた。だが、実態は、虚ろとなった市場概念に、それにもかかわらず、いやそれだからこそ、万能の夢を投射していたのかもしれない。

経済のなかの制御から、制御のなかの経済へという問題設定はこうした区分を明瞭に浮かび上がらせるためのものであるといっていいだろう。

 

 だが、その運動についての次第を映像としてつぶさに活写するためには、わたしたちは狭い意味での経済から広い意味での政治経済の地平へとカメラの位置を移動させていかねばならない。

 


 


[1] 中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか――「日本」再生への提言』集英社インターナショナル、2008年、20頁。

[2] 同書、72頁。

[3] マンフレッド・B・スティーガー『グローバリゼイション』櫻井公人、櫻井純理、高島正晴訳、岩波書店、2010年、48頁。

[4] 後述するクリスティアン・マラッツィは、論を共有するところも多く参照するところも大なのであるが、こうしたデジタル技術の関与についてやや筆が滑るきらいがある。「ワイヤー・ハウス」についても、それを「株式市場との電子的アクセスを制御する」ものとし、「インターネットの〈オンライン・トレーディング〉」と等価で扱うこととなっている。(『資本と言語』柱本元彦訳、水嶋一憲監修、人文書院、2010年、1617頁)

[5] 太田英明『「新」国際金融システムの課題――迫られるIMFの「構造改革」』東京経済情報出版、2008年、22頁、3132頁。

[6] 同書、23頁。

[7] ラテンアメリカにおける融資の効果が期待されたものとは逆に対外債務に関する深刻化を生んだことから、1985年に「アメリカ財務長官のジェームズ・ベーカーによる提案(正式には「持続的成長のためのプログラム」)」がなされるが、その提案は「経済成長と国際収支調整の推進やインフレ低下のための主要債務国による総合的なマクロ経済・構造調整政策の採用、AIMFの中心的役割の継続および国際開発機関による構造調整融資による補完(主要国による債務国への融資実行50%増など)、B民間融資拡大(向こう3年間に約300億ドル)」などの内容であった(太田英明『IMF――使命と誤算』中公新書、2009年、6970頁)。

[8] このあたりの事情については、佐藤嘉幸『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学へ』(人文書院、2009年)の第一部に詳しい。佐藤は、新自由主義に関してわたしたちのように二段階を区別しないが――そうした彼の立場はポストフォーディズムなる問題系の扱いについて顕著にあらわれる――が、経済情勢における新自由主義の拡大と浸透が、特定の具体的な主体に引き起こされたとするような立場とは異なって社会構造的な観点から考察しようとする点、また次の節や次の章でくわしく論じていくことになるが、新自由主義の跋扈が新たな統治性を生んだとする点においても、わたしたちと共有する視点が多い、

[9]F・A・ハイエク『ハイエク全集T別巻 隷属への道』(新装版)、西山千秋訳、春秋社、2008年。

[10] ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』村井章子訳、日経BP、2008年。

[11] ジョセフ・E・スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』鈴木主悦訳、2002年。

[12] ロバート・B・ライシュ『暴走する資本主義』雨宮寛、今井章子訳、東洋経済新報社、2008年。

[13] ポール・クルーグマン、モーリス・オブズフェルド『クルーグマンの国際経済学 下巻 金融編』山本章子、伊東博明、伊能早苗、小西紀嗣訳、ピアソン、2001年、468頁。

[14] 同書、477頁。

[15] いうまでもないことだが、こうした方向でなく、各国の文化風土に要因を帰す論も多く出されている。投資家ジョージ・ソロスとマレーシア首相マハーティールの論争を引き合いに出しながらなされた「クローニー・キャピタリズム」論、あるいは救済ルールの設置が逆にそれをあてにした過剰な攻撃に転化するという(スティリグッツの唱えた)「モラルハザード」論を国内投資家に転化して論じた論などが多いが、ここではどの論が妥当かを論じることはしない。そうではなく、クルーグマンをはじめ多くの論者が「アーキテクチャ」と呼んだ国際予防策を確保しようとしたその振る舞いの意味にこそ焦点が合わされている。

[16] むろん、こうした動きを先導したのは、ジョージ・ソロスが率いた「クォンタム・ファンド」などのヘッジファンドである。

[17] クルーグマン、前掲書、477478頁。

[18] クリスティアン・マラッツィ『現代経済の大転換――コミュニケーションが仕事になるとき』多賀健太郎訳、青土社、2009年、1516頁。

[19] 同書、1718頁。

[20] クリスティアン・マラッツィ『資本と言語――ニューエコノミーのサイクルと危機』柱本元彦訳、水嶋一憲監修、人文書院、2010年、21頁。

[21] 同書、3839頁。

[22] 同書、26頁。

[23] 同書、66頁。

[24] 同書、4351頁。

[25]  ハーバート・サイモン『システムの科学 第三版』稲葉元吉、吉原英樹訳、パーソナル・メディア、1999年所収、33

[26] ハーバート・サイモン「企業組織における意思決定」、サイモン前掲書所収、とりわけ270282頁を参照のこと。

[27] アマルティア・センへのインタビュー、ネルミーン・シャイク『グローバル権力から世界をとりもどすための13人の提言』篠木直子訳、青土社、2009年、2022頁。