序章 「監視社会」から「制御社会」へ――プラグ・イン



「制御」という怪物

 本稿は、制御という観点から現代社会の諸特性に関する考察をおこなおうとする試みである。

 なぜ制御か、最初に、それについて述べておくべきだろう。

 「制御」という言葉は、むろん、情報科学にその端を発した用語である――あるいは、今日のデジタル処理システムには不可欠の概念であるといえる。だが、デジタル技術の急速な発展と拡大にともない、この語は、いつしか、社会の隅々にまで行き渡るようになっている。デジタル技術とそれによる制御が、人と人との日常コミュニケーションから、生産様式・生産関係、権力の諸層、さらには国境を超えたさまざまな交通回路にいたるまで、未曽有の変化を出来させている。

 「制御」という語の繁茂は、経済・経営手法の領域、行政・ガバナンスの領域、はては安全保障・軍事の領域で、いやおうなく看てとることができるものであり、そこには、どこかしら「怪物的」とでも形容しておきたくなる相貌さえ感じるほどである。

 だが、わたしたちは、この「制御」という概念の怪物を視界から消し去ることを己に許してしまってはいないだろうか。情報文化論といった領域でさえ、「制御」という語がクロースアップされ問題化されることはいまだきわめて少ない。また、21世紀の世界が対峙する新しいタイプの問題群に対して、経済学では「新自由主義」批判、政治学では「新保守主義」批判、国際関係論では「帝国論」批判などが丹念に彫琢され、大きな成果をあげているが、そうした先鋭的な試みにおいてさえ、経済理念、政治権力、資本運動といった水準における抽象度の高いファクターが中心となった議論展開のなかで、「制御」という言葉がなぜか視界に浮かびあがってくることがない。

 今日の社会においてかくも膨れあがりかくも深く浸透しているにもかかわらず、それを視界から不用意にも消し去ってきた怪物的概念に対して挑むこと、それが本稿で賭けられたものであるといっていい。制御という問いを真正面から発することで、幾多の現代社会論が素通りし見落としてきてしまった事態を照らし直したい、それが本稿の企みである。

 この制御という語の圧倒的強度に自覚的であろうとする本稿は、これを批判的に概念分析しながら、逆に、政治理論、経済理論そのほかの社会理論を再検証し、さらにはメディア論、情報文化論、インターネット文化論を再考するチャンスにしたい、そういっておくこともできるだろう。なにしろ、かりそめにも怪物的と形容した相手にするのだ、己自身がキマイラ化することを厭う理由などどこにもないだろう。そして、そのように舵取り変更をおこなうことは、もしかすると、二一世紀を生きるわたしたちの生にとって本質的な重要性をもつかもしれない課題を炙り出すことにさえつながるかもしれない。最初に書きつけた一文の照準は、そうした射程を核にもっている。

権力と欲望が混濁するテクノロジー

 いきなり気負いすぎたかもしれない。制御が、怪物的相貌を放つのは、何もその版図の拡がりではない。その質的側面においても、人と人の関係性あるいは社会における相互作用を論じてきた従来の論立てではうまく扱いきれない部分が次第に明らかになりつつある。制御に関わる具体的な事象をいくつかとりあげ、説明しておこう。

 まずは、電子メールのありきたりのシーンからはじめよう。今日、電子メールはすでに、日常のあらゆる場面における必須のアイテムとなっている。ビジネスの現場はもとより、友人間、家族間のあいだのコミュニケーションにおいても、電子メールの送受信を抜きにして日々を送ることは想像しがたい。一方で、個人にまで絞り込んで相手先を特定化しうるほどに効率化携帯電話あるいはPC通信がこの上ない効率性を確保し、他方では、送信先の活動を中断させる心配のない非同期的送受信が便益性を可能にしたわけだが、この両者が接合され、コニュニケーション行為を、送り手、受け手が自在に制御することができるツールを世に登場せしめたのである。

 しかしながら、このツールがもつそうした効率性と便益性は、どこかしら、制御なるものをどこまでも自由に解き放つ働きへと転化してしないだろうか。わたしたちは、「とりあえず」ガールフレンドに連絡しておこうと思い送信し、「念のために」と社内に大切そうなメールは転送する。とりたてて特別な所作ではない。そうした所作には、だが、「とりあえず」、「念のため」ではあれ、どこか少しばかりの強迫が滲むものとなっていないだろうか。そして、送られる側も同様の回路に投げ込まれている。送信されてきたメールには、それが明け方であれ夜更けであれ、何がしかの返信義務を感じるものだ。たとえそれが、「とりあえず」あるいは「念のため」のメールであることが分かっていても、である。

 なるほど、これらは、届けたい、チェックしたいという欲望にうながされてのことだろう。それがメールという行為の真ん中にある。そうではある。だが、「とりあえず」「念のために」という所作は、ツールの効率性と便益性のためにかえって、「送りたい」と「送るべき」の二つのベクトルの境界が曖昧な地点、「チェックしたい」と「チェックした方がよいだろう」が混ざり合う曇った地点にまで、わたしたちを連れ出すこととなっているだろう。

 また、誰かに命令されているわけでもない。わたしたちは、自身のコミュニケーション行為を効率的で便利なツールでコントロール(=制御)しているだけなのだ。欲望の一方通行でも、権力の一方通行でもない、自己制御の回路のなかで、わたしたちはいる。なのに、一日の大半を、このツールへの対応から逃れることのできない状態へと己を晒すこととなっているのだ。メール・チェックのためにお風呂にゆっくり入ることのできない女子中学生を誰が笑うことができよう。

 あるいは、行政における法整備の場面をとりあげてみよう。この分野では、ローレンス・レッシグの仕事がかねてより注目を集め、また実社会でも影響を及ぼしてきた。そのレッシグが近著『REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方』において述べている論立てが関心を引く。[1]レッシグは、その名を高めた以前の仕事『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』においては、デジタル情報環境では、それ以前の物理的条件が御しがたく作用する環境とは異なって、人為によってどこまでも完全な規制が可能となってしまう特性があるため、ヒューマニティをがんじがらめにしてしまうリスクがあり、それがゆえに、一種の自由度、一種の民主主義的エレメントを維持できるよう仕組みを組み込んだ規制のあり方を工夫するべきではないか、そう論じていた。[2]

 だが、新しい仕事ではさらに踏み込み、レッシグは、「未来には「コピー」の頒布に対する完全なコントロールが絶対にあり得ないとしたら、どうしたらいいだろう」というなかば諦念のような問いかけから論をおこしている。デジタル技術が主導する、そしてそれに範を得るような活動領域では、法レヴェルでの制御に根本的に歯止めがかけられない、そう主張しているといっていい。ここでも制御は、怪物的な制御不可能性を示しつつある。経営活動で近年衆目をあつめている「破壊的イノベーション」の論議が示し出す面白い事例にも触れておこう。

 クレイトン・クリステンセンが案出したこの用語は、従来の評価基準では「ベストな経営方法」として捉えられるようなマネージメントをすぐれて健全に追及している「優良企業」であればあるほど、彼がいう「破壊的な」技術革新が他企業において案出された場合それへの対応をどこにも見出せず、滅ぼされてしまうという顛末を言い表そうとするものである。言い換えれば、対応しようと自らの経営システムを制御しようと努力すればするほど、余計に破壊され呑み尽くされてしまうというプロセスのことを指している。この論立ては、ひと頃科学哲学で物議をかもしたトマス・クーンのパラダイム論を彷彿もさせるが、それと異なるのは、既存の経営パラダイムを一掃する革命がかなりの短期的サイクルで生じてしまう向きを語り出した点にあるだろう。

 クリステンセンの論述は、なるほど鉄鋼業界などにも及んではいるのだが、実状としてディスク・ドライブあるいは電動モーターの制御設計などをはじめとするIT関連業種が主たる素材になっている。そのことを斟酌するとき、デジタル環境下においてこそ経営活動をまるごと変容させてしまう破壊的イノベーションが引き起こされる点がより際立ってくる。端的にいえば、制御設計の際限のない刷新が孕む、その度ごとに起きる測りがたい大規模な状況転換の、現代世界における避けがたいサイクルを、経営学者であるクリステンセンはアイロニカルに抉り出したのかもしれない。[3]

 安全保障の場面もみておこう。湾岸戦争から、軍事オペレーションに、各種関連データの前線への送受信と、それらデータをもとにした作戦行動がリストアップされたマニュアルが整備され履行されたこともまたよく知られているところであるが、これについて情報哲学論的な立場からマニュエル・デ・ランダがみごとな分析をおこなっている。[4]戦場においてオペレーションに従事する兵士はもはや、目の前にある状況を自らの目と耳で判断し、行動の針路を己の判断力において決定するというのではない。作戦本部からだけでなく。上空で地上を飛行する監察機から(ちなみにパイロットレスであるかもしれない)、リアルタイムで送られてきた戦場に関連するデータを、常時携帯されているマイクロ無線装置で受信し、それらデータがアドバイスする行為選択肢のチャートにしたがってミッションを兵士は遂行する。データだけでなく、データの解析、その結果からのアドバイスと選択肢の提示まで、制御系プログラムがおこなうのだ。

 先ごろ話題となった『アバター』(ジェームス・キャメロン)と『ハート・ロッカー』(キャスリン・ビグロー)はともに、リアルタイムで送信される各データにより制御される個々の兵士の作戦行動より設計されている軍事オペレーションを扱っている。前者では、「わたしはこんなことのために兵士登録をしたのではない」と呟き、戦闘機を引き返すヒスパニック系の女性の兵士が、物語の展開の切り返しポイントを形成しているし、後者においては、目の前で爆死する市民を助ける作業の制限された範囲のなかでのクールな情動が、たくみに描きだされている。こうした事態は、特定の計算論的知能を携えたマシーンの登場と、それによる制御を受けることが前提となっている思考と行動から成り立つ世界の到来を物語るものにほかならない。

 加えておけば、こうした物語内容上の特徴と連結しているのが、表現技術上の特性である。モーション・キャプチャーやパフォーマンス・キャプチャーを全面に駆使した『アバター』においては、それら新しい画像制御技術によってこそ、「通常の」人間であるキャラクターと人造された存在であるキャラクターの造形上での差別化が可能となっているだろう。他方、一見した印象でドキュメンタリー的リアリズムと評したくなる『ハート・ロッカー』においては、画面構成に実はCG技術が応用されていて、結果、細部の所作に焦点化しつつ制御への欲望と制御への不安を醸し出す巧みな演出が可能となっている。さらにいえば、『アバター』においては立体視により、『ハート・ロッカー』においてはドルビーサラウンドにより、制御をめぐる身体情動を劇場内に座する観客に引き起こしていた仕掛けにも、物語世界の展開は連動している。

 制御が怪物性を孕みつつあるというのは、これらの諸場面を指してのことである。日常のコミュニケーションから新しい軍事オペレーションにいたるまで。だが、その浸透範囲が拡大しているという面にのみ着目して怪物性と主張しているわけではない。わたしたちは、制御なるものに生の周りを取り囲まれ、そこに質的変化を生じさせてもいるのだ。こうした場面を目の前に、知性や意識にはコンピュータが関わることのできない領域があるか否かといったハードプロブレムはさしあたり関係ないだろう。事実として、コンピュータの制御システムが、自己準拠を繰り返しながら、わたしたちの思考と行動にとてつもない作用を及ぼしているのである。

「監視社会」から「制御社会」へ

 制御への問いへとわたしたちを導いたのは、現象論的な興味深さだけではない。そこには、強い哲学史的動機も作動している。

 というのも、1995年に没したフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、1990年あたりに書き記したフレーズが、いまだ一点の曇りもないまま、わたしたちにさし迫っているからである。そのフレーズとは、

   les sociétés de contrôle[5]

に、ほかならない。

 このフレーズは、通常「管理社会」と翻訳され、それがほぼ定訳となっているものである。そのことは十分に承知している。だが、これを、「制御社会」という言葉とあえて訳すことで、その意味するところを読み拡げ、読み開き、読み深めてみたい、そうすることでもしかすると現代社会の一側面を照射し直すことができる、そうした目論見がわたしたちにとりついて離れないのだ。フランス哲学を専門とする研究者ではない野蛮な解釈へと展開してしまう危うさは重々承知である。ではあるものの、門外漢がゆえに遊び溺れることのできるだろう冒険、たとえば、関連すると思しき論稿や著作を手当たり次第に渉猟しこのフレーズに衝突させるという冒険、に自らを連れ出してみたいという誘惑に抗することができないのだ。

 また別の観点は、「管理」ではなく「制御」という言葉の選択は、徹頭徹尾身勝手で独善的な振る舞いというわけでもないだろう、どこかしら、主観的印象を超えたベクトルを内包しているのではないか、という直感もまたそこに横たわっている。というのも、ここで仏語の controle(英語のcontrolをとりあえず思い浮かべても問題はない)にあてようとしている「制御」という言葉は、すでに触れたように、科学的言明や陳述、とりわけ情報科学におけるそれらにおいて、用いられる語である。こうした自然科学における「制御」という語の定着した振る舞い、そして、社会を論じる言説空間の系譜における「管理社会」という訳語のより馴染んだ振る舞いを視野におさめるとき、同一の原語が探求の種類に応じて異なる訳語で置き換えられるという知の布置の成立条件自体が興味深いものとして立ち上がってくる。このような布置に、十分に敏感となり自覚的になってみること、それはやたらに無闇な企てではあるまい。なぜ、こうした布置が成立したのか。

 むろん、「管理」と「制御」のあいだの差異は、翻訳文化のなかで生じた紛らわしくも小さな混乱であるといった解釈もできなくはない。だが、そうした解釈は、欧米文化を先進/非西洋国の文化を後進といった価値判断、西洋の科学的用語が中心/非西洋諸国のそれはそれに合わせるべきものといった価値判断にとらわれすぎではあるまいか。あるいはまた、「制御」という自然科学の訳語の方が厳密であり、「管理」という訳語は、知の状況を俯瞰的に見渡す労を文系の翻訳者がとらなかったからだという見方も、性急に思える。自然科学は学的用語の鋳造に厳格である一方、社会論は往々にして曖昧な用語に自堕落に身を任せてしまうものだという発想法も、科学的用語もまた日常生活のなかでの言語との連動、交渉、関係性のなかで生まれると主張する科学哲学の社会構築論に依拠するまでもなく、どこまで有効かは疑わしい。

 むしろ、「管理」という訳語とともに「制御」という訳語が何食わぬ顔で流通している今日の日本語の知の布置の繊細さに着目し、そこを可能性のブレイク・ポイントとして捉え返すことも可能なのではないか。

 確認しておこう。先のフレーズをドゥルーズが書き記した1990年という年号が示す時代の相に注目しよう。1990年は、つまりは、情報科学論がいまだ情報文化論といったより広い視野のなかで社会体において今日のような仕方で全面開花する前夜であったといってもいい。インターネットはもちろんのこと、いまだパーソナル・コンピュータの普及さえ部分的な段階であったし、コンピュータ・グラフィックスの精度など研究者や専門家の間の話題でしかなかっただろう(『ジュラシック・パーク』(スティーヴン・スピルバーグ)が公開され「このようなレヴェルが可能となったのか」と驚きの言葉を人々が口々に発したのが同じく1990年である)。デジタル処理の計算空間は、特別な領域において特別な人々が携わる世界だったのであり、「制御」という言葉は、まだ一部の人たちの頭のなかにしかない。

 こうしたことを念頭におくとき、わたしたちは今住まう世界に現在進行形で浮かび上りつつある、この種の現象をとり扱う際の、採るべき方法論に関する慎重さの重要度が明確になってくる。たとえば、実証的社会研究を採用した場合、それなりの成果も期待されるとはいえ、そこに危うさもないわけではない。実証的社会研究は、観測されたと判断された事象を事実としてとり扱ってしまう傾向がある。そうした傾向は、記述分析の作業において概念を実体的に扱いすぎる危うさがあり、畢竟、わたしたちの問いにおいては、「制御」以前の社会はあれほど無垢だったのにという安易な疎外論、あるいは「制御」以後かくも便宜と安全が確保されるようになったのだという安易なユートピア論へと横滑りしていく危うさにさえつながっていくかもしれない、

 そうしたとき、実証的方法論に則って測定するという実証的社会研究ではなく、むしろ、世界をわたしたちが認識する際のレンズそのもの、すなわち、言葉あるいは概念の交通整理をおこなう作業の有効性こそが、この種のテーマを扱う場合、前景化されてこないだろうか。わたしたちが扱う「制御」という問いに絞りこんでいえば、そもそも、先に触れた、ドゥルーズがles societe de controle の考察を、概念の系譜学のなかで練り上げられたものである。ドゥルーズは、このフレーズを、同時代を席巻したもうひとりの哲学者ミッシュル・フーコーが彫琢した概念「規律・訓練社会(仏語:les societies disciplinaires)」と対比させる仕方で、案出している。

 これを視野におさめるとき、「監視社会」から「制御社会」へという概念の系譜がとりあえずの考察の出発点として、すぐさま浮かびあがってくることになるだろう。むろん、「監視社会」から「制御社会」への変化を直線的に扱うことはいかにも素朴だ。少なくとも、そこには「管理社会」を介在させる迂回路が必要であり、そこを中心に、おそらくは相当程度に縺れ絡み合った力線を丁寧に解きほぐしていくという砂を噛むような作業こそが求められるものとなるだろう。一言でいえば、採るべき方法論は、概念史であり概念分析だということだ。ドゥルーズの「コントロール」とフーコーの「ディシプリン」が交差する場所から、その場所に流れ込む、あるいは流れ出る、あるいはまたその周囲を旋回するさまざまな概念の力線を捉え、それらの軌跡を計測すること。そうした分析方法こそがわたしたちの基軸となる。

 この分析方法を踏まえ、ここまで何の断りもなく用いてきた「社会」概念についても少し付言をしておこう。

 すでに触れたように、新自由主義の経済思想と相性がよいのか、デジタル技術に関するトピックがそこに差し挟まれることは少なくない。国際金融システムはコンピュータ管理が大前提となった新種のボーダーレスな資本取引であるだとか、情報通信による意志伝達が国を跨いだ分業体制やアウトソーシングを可能にしただとか、インターネット上の課金システムがニュー・エコノミーを登場させただとか、といった論立てである。こうした夥しい数の見解は、新自由主義思想と相性がよいのか、賛否両方の側で渾然一体となって発信され受信され享受されることがきわめて多い。

 新自由主義思想が解説される際に、この思想を奉ずる側にも批判する側にも便利な参照点として必ずといっていいほど引用されるのが、1970年代に連合王国の財政再建と景気回復を主導したマーガレット・サッチャーが言い放った「社会などというものは存在しない。あるのは、個人と家族だけだ」という言明である。

 これをもって、ケインズ主義的福祉政策を許容する大きな政府の終焉のはじまりと位置づけられ、市場を最高の価値判断主体として定位する時代が開始されたと少なからぬ論者が主張もしたのだ。こうした論議が考慮に入れるよう促すのは、制御ときわめて相性のよい新自由主義の時代にあっては、「社会」概念は、十分な慎重さをもってとり扱わねばならないという指針である。本稿でも「社会」概念に対しては慎重さをもってのぞむこととしたい。「制御社会」というタイトルを冠せず、むしろ「制御と社会」と「と」を間に挟み、二つの概念の距離、交渉、相互作用を鑑みたいという含みをもたせた所以でもある。

 軌道修正はおそらく必至であるとも思われるが、以下に続く論展開の見取り図を示しておこう。この序章に続いて、第一章では、「制御」と「社会」をめぐる理論的問題を、できるだけ形式的に分析、整理することが試みられる。情報論、コミュニケーション論、メディア論でなされている重要な論稿を読みこみながら、「制御」に関連する諸概念を精査し直すことになるだろう。

 続く第二章では、政治経済(ポリティカル・エコノミー)を対象に、「制御」という観点から、現代社会の諸問題を照らすことが目指されるだろう。具体的には、ポスト福祉国家あるいは新自由主義といったテーマのもと展開される経済思想、そして、冷戦以後あるいは帝国・帝国主義といったサブジェクト設定で論じられている政治思想を中心に考察をすすめる。

さらに第三章では、今日の人間存在をめぐる諸問題を、「制御」という観点から枠付け直すことが試みられるだろう。ときに「アンダークラス」ときに「ディアスポラ」といった言葉(あるいはまた「例外状態」といった言葉)を駆動させながらで問題化されようとしている人間存在に関わる事態に、「制御」という観点から光をあて直すこと、それが課題である。これらの論を受け、終章では、歴史上もっとも密度の高い批判的思考を残したといえる理論家が書き残した「一般知性」という概念を再考し、何がしかの来るべき制御論的批評の可能性について探り出すことをおこなってみたい。

 軌道修正どころか、下手をすれば、辿りつく先さえ見失いかねない船出かもしれないが、すでに航行制御装置にわたしたちはプラグ・インしてしまった。ともかくも、走り出すしかない。

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[1] ローレンス・レッシグ『REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方』、山形浩夫訳、翔泳社、2010年。

[2] 『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』, 山形 浩生・柏木 亮二訳、翔泳社、2001年。

[3] クレイトン・クリステンセン『イノベーションのジレンマ 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』、玉田俊平太監修、伊豆原弓訳、翔泳社、2001年。

[4] Manuel De Landa, War in the Age of Intelligent Machines, New York: Zoon Books, MIT Press, 1991.

[5] Gilles Deleuze, “Post-Scriptum Sur les sociétés de contrôle,” Pourparlers 1972-1990, Les Éditions de Minuit, 1990/2003, p241. あるいは、同書に収められた“Contrôle et Devenir“(「管理と生成変化」)も参照のこと。