第一章 植民地と海外県、その断絶と連続

 

1 「カリブ海のフランス」という問題


 

小さな場所

 マルティニックとグアドループはカリブ海の小さな島々だ。マルティニックの面積は約1100平方キロメートルであり、日本語話者に身近なところでは、沖縄島(約1200平方キロ)ほどの大きさだといっていい。現在の人口は40万人程度で、沖縄島の人口の約3分の1である(参考:統計局ホームページ カリブ海拡大図http://www.stat.go.jp/data/sekai/carib.htm )。

 マルティニックはひとつの島だといえるが、グアドループは小さな群島をなしている。本島は蝶のかたちをしたバス=テール島(低い陸地)とグランド=テール島(大きな陸地)のふたつからなり、マリ=ガラント島、サント諸島、デジラード島、プティト=テール諸島(小さな陸地)が離島をなしている。面積は本島が約1370平方キロで、すべての島をあわせると1780平方キロほどの大きさだ。人口は44万人程度で、マルティニックよりも若干だが規模は大きい。

 地理学的に、このふたつの「島」(注1)をふくめた東南部に点在する列島は「小 アンティル諸島」と呼ばれる。対して、キューバ島、エスパニョーラ島(スペイン語表記。現在のハイチおよびドミニカ共和国)、ジャマイカ島、プエルトリコ島といった西北部の比較的大きな島々は「大アンティル諸島」と総称される。これらカリブ海の島々は熱帯気候に属し、気温は年中高く、雨季と乾季の時期がある。

 こうした地理的特性から、カリブ海は観光地として一般に人気が高い。緯度の高い地域に住む人びとにとって冬の季節を熱帯地方で過ごせるのは嬉しいことだろうし、強烈な陽射しでカラフルに彩られた町並みや自然はエキゾチックな美を感じさせることだろう。青く透きとおった海、白い砂浜、ココヤシの木といった南国リゾートへの期待どおりのイメージをカリブ海は裏切らない。

 実際、カリブ海の島々の多くは観光を重要な産業のひとつにしている。マルティニックとグアドループも例外ではない。パリから飛行機で8時間かかる、物理的にも心理的にもまさに「異国」であるこれらの島々は、フランス本土向けの観光地だ。クリスマスから4月末にかけてのハイシーズンにはマリンブルーの海と熱帯の自然を求めて来る観光客で賑わう。

 グアドループの北に位置するアンティーガ(アンティグア)という英語圏の島はなかでも観光を主産業にしている。この島で生まれ育った英語表現の作家ジャメイカ・キンケイド(1949年生)に『小さな場所』(旦敬介訳、平凡社、1997年[原著1988年])と題された自伝的評論がある。著者にとって、アンティーガは観光地ではなく生まれた土地だ。人口数万人の小さな島。アメリカ合衆国やイギリスの観光客にしてみれば、数ある美しい島のひとつにすぎないだろう。だがキンケイドは観光客には見えない隠された現実を提示する。しかもその提示の仕方は生易しいものではない。観光客としてこの島にいずれ訪れるかもしれない英語圏の読者に「あなた」と呼びかけながら、「あなた」の無邪気な振舞や素朴な感慨が、どれほどアンティーガの現実を無視したものなのかを鋭く突きつけるのである。「あなた」はアンティーガにはそれほど興味をもたず、自分が求める南国リゾートをただただ満喫している。そこで暮らす人びとのことなど一切考えず、島の歴史と文化についてあえて知ろうともしない。「あなた」は島を「消費」するだけの存在なのだ。

 ジャメイカ・キンケイドの言葉はあまりに強烈だ。直接呼びかけられていないとしても、その呼びかけから逃れることを許さないような衝撃力をもっている。「小さな場所」からのこの言葉は、ひとりキンケイドだけのものでなく、「観光地」に暮らす人びとの、やり場のない思いを代弁しているように思えてならない(注2)。ハワイ、ニューカレドニア、タヒチ、オキナワ。カリブ海と同じく太平洋の島々もまた「小さな場所」だ。

 

カリブ海のフランス

 キンケイドが代弁しようとするのは、島から外に出て余暇を楽しむような経済力も時間もない、そう言ってよければ、底辺で暮らす人びとの思いである。もちろん、カリブ海住民のすべてが同じ境遇にあるのではなく、それぞれの島のあいだにも、島のうちにも無数の差異があるわけで、島の外に出て余暇を楽しめる人びとも当然ながら存在する。その意味では、マルティニックとグアドループは、カリブ海のなかでは比較的裕福な方だといわねばならない。ふたつの島はフランス領であることによってヨーロッパ経済圏に組み込まれている。通貨はユーロだ。カリブ海のフランス、カリブ海のヨーロッパとして、マルティニックとグアドループには、「世界最貧国」と呼ばれるハイチや、近隣の島から移住を求める人びとが後を絶たない。

 しかしながら、このふたつの島に暮らす人びとが全般的に裕福かというとそうではなく、貧富の差ははっきり存在する。政府系機関である海外県発券機関(IEDOM)の2008年の調査では、各海外県の失業率は2割を超えるという。フランス本土の失業率が7.8%であるのに対し、グアドループの失業率は22.70%、マルティニックのそれは21.20%におよぶ。さらに15歳から24歳の若者の失業率を見た場合、グアドループでは55.70%、マルティニックでは47.80%にまで達している(注3)

 現在、マルティニックとグアドループの主要な農作物はバナナである。フランス本土で流通しているバナナは基本的に海外県で生産されている。しかし、バナナをのぞけば、これらの島を代表する産品はラム酒しか残らない。天然資源もなく、観光業とバナナ栽培以外にはさしたる産業も育っていないのが現状である。しかも、慢性的な失業を解消することもできない。そのような島が決定的な貧困に陥らない主たる理由はただひとつ、いまもなおフランス領だからである。

 これらの島がフランスの一部であることは、経済面で見た場合、決定的である。慢性的な失業状態にあっても人が飢えないのは、フランス政府から毎年一定の補助金が社会保障の名のもとで供出されるからである。マルティニックとグアドループの産品は限られている以上、生活必需品の大半は輸入に頼らざるをえない。スーパーの商品から自動車にいたるまで、大部分はフランスからの輸入品である。バナナ産業が成り立つのも、フランス政府が自国のバナナを保護して本土のバナナ市場をほぼ独占させる政策をとっているからである。観光が成り立つのも、フランス本土から「南国リゾート」を求めて観光客がやって来るからである。つまるところ、マルティニックもグアドループも経済面においてフランスに全面的に依存しているのである。

 後に見るように、この経済的従属関係は宗主国と植民地との関係そのものである。1946年の県制施行法以降、政治的ステイタスとしては、マルティニックとグアドループはもはや植民地ではないはずだ。しかし、フランスが元植民地の通商権を「独占」するという点で、これらの島は依然として植民地的構造を脱していない。

 こうした関係を打開する抜本的な政治的選択は独立である。本書を通じて示すように、戦後のマルティニック、グアドループにおいて、知識人および学生を中心とした政治運動に賭けられていたのは独立だった。しかしその一方で、独立という選択は、島民の不安の対象でもあった。経済基盤の脆弱なマルティニックとグアドループがフランスから離れれば、たちまち「最貧国」になるかもしれない。ハイチを見よ。「世界初の黒人共和国」という栄光の代価として手に入れたのは独裁と貧困ではないか。独立後の西アフリカを見よ……。

 それゆえ、マルティニックもグアドループも政治的独立を経験しないまま今日にいたっている。知識階級を中心とした一部の人びとには、いまなお独立は捨てることのできない希望であり続けている。独立を信条としながらも、この政治的選択を今日では非現実的であると見る人びともいる。独立よりも自治権の拡大を求めるべきだという意見もあれば、共和国フランスを「母なる祖国」と思い続ける人たちもいる。いずれにせよ、現実的な考えとして優勢なのはフランスとの関係を保ち続けることに変わりはない。

 しかし、このことは打算的に割り切れる話ではない。フランス本土への依存と帰属をとおして、これらの島はたしかに見かけの上では経済的にも政治的にも安定を保っている。とはいえ、やはり解消できない矛盾がそこにはある。歴史を遡れば、島の住民の大半の子孫は、アフリカから連れてこられた奴隷の血を引いている。県制施行法が成立する1946年まで、3世紀以上にわたってフランスの植民地だった場所である。グアドループの哲学者ジャッキー・ダオメ(1944年生)も指摘するように、島の人びとは、存在論的居心地の悪さとでも呼ぶべきアイデンティティをめぐる葛藤を心中に抱えている(注4)。アイデンティティの問題は、知識人の発言をとおして主に提示されるが、たとえ表立ってそう言表されない労働者のストライキにおいても、このことは潜在的に問われている。

 

植民地としての海外県

 プロローグで述べたとおり、本書の主要な課題は、2009年の海外県ゼネストの社会運動の射程と拡がりを示すことであり、そのためには、長期的な視座から、ゼネストへいたった諸要因を捉える必要があると考えている。とくに本書で扱うのは、海外県以降の両島における社会運動と知識人の歴史である。その歴史的展開については第2章以降で詳しくたどることにして、最初の章にあたる本章では、海外県問題の背景を提示することを目的にしている。

 海外県問題には主に三つの見方がある。ひとつは海外県に肯定的な共和主義の立場からのもので、フランスの県となったにもかかわらず、本土との実質的格差が是正されないことが問題となる。この場合、解決策はフランスへの同化要求というかたちをとる。一方、海外県に否定的な立場からは海外県問題の解決として独立を主張する。この場合、海外県問題は構造的なものと考えられる。自治要求はこの中間形態と見なすことができ、フランス共和国の一部を構成しつつも、一定の政治的・経済的な自律性を求める。また、海外県問題の捉え方には共和主義者と独立派双方の見方が混在しているといえる。

 本書における海外県問題の捉え方は独立派に近い。海外県は植民地であるとする捉え方である。もちろんこれは極論であり、単純な見解だという謗りを免れない。しかし、共和主義的な立場が海外県と植民地との断絶を強調するのに対して、独立派の見解は、海外県を植民地との連続において捉える。すなわち、県化後も植民地問題は依然として継続していると考える。 

 実際、植民地時代の痕跡は、フランス海外県となって久しいいまでも人びとの生活や風景のなかに見出せる。その最たるものは奴隷制である。フランス領において奴隷制が廃止されたのは1848年のことであり、現在から見てまだ160年しか経っていない。それに対して奴隷制はこれらの島で二世紀以上にわたって 続けられた。現在、奴隷制を直接体験した人びとはもはやいないにせよ、サトウキビ労働の風景は20世紀中盤にはいまだ日常的であり、現在でもサトウキビ畑の風景は部分的に残っている。奴隷制の記憶は海外県以後も人びとのうちに保持されており、奴隷制と奴隷貿易を「人道に対する罪」と規定した「トビラ法」以降、この記憶はますますその重要性を帯びてきている(注5)

 その一方で、ほとんど風化してしまった記憶もある。コロンブスによる「発見」以前にこれらの島々に住んでいた先住民の記憶だ。ヨーロッパ人の入植の過程で「殲滅」に追いやられてしまったため、先住民の痕跡はもはや多く残されていない。ヨーロッパ人の入植以降の歴史が5世紀であるのに対し、先住民はカリブ海地域に紀元前4世紀から住んでいたとされており、人類史の視点からすれば、いまでも先住民の歴史がカリブ海においてもっとも長いことになる。そのことを考えれば、海外県問題には一見直接関係のない先住民の記憶もまたここで想起しておくべきだろう。少なくとも、西洋によるカリブ海地域の「発見」から始まるこの地域の「歴史」の始点には先住民がいる。

 次節では、海外県問題の背景に潜むこのような記憶を想起しておきたい。先住民の記憶までさかのぼること、奴隷制の記憶をたどることは、マルティニックとグアドループのみならずカリブ海全域にかかわる共通の経験を喚起することにつながるはずだ。ただし、記憶をたどるといっても「あるがままの過去」の再構成を試みるのではない。むしろ筆者が試みたいのは部分的・断片的な「ありえたかもしれない過去」を現在につながるかたちで想像することである。

 ここで念頭に置いているのはマルティニック生まれの作家エドゥアール・グリッサンの考え方だ。グリッサンはカリブ海地域の風景には記憶が刻まれていると考えていた。

 たとえば、海について。英語圏バルバドス島の詩人エドワード・カマウ・ブラスウェイト(1930生)に「統一性は海底にある」という一文がある(注6)。 グリッサンはこの一文から大西洋の海底に沈んだ鉄球を幻視し、鉄球がアフリカの海岸からカリブ海地域の海岸へ連綿と続いているイメージを受けとった。この鉄球は、かつて奴隷船で運ばれた人びとに強いられたものであり、航海の最中に病気にかかったことから海に放り捨てられた者たちや、私掠船の追撃から逃れるために「積み荷」として捨てられた人びとの喩である(注7)

 グリッサンの視点を介して見れば、カリブ海の風景は集合的記憶を保持している。風景はそれ自体としては何も語らない。白い砂浜も、一面に広がるサトウキビ畑も、鬱蒼と生い茂る森も、カリブ海のどこにでも見られる景観だ。しかしその黙する風景は、それ自体、何世紀あるいは何十世紀も持続してきた。その意味で海をふくめたあらゆる風景は歴史であるといえるだろう。

 

2 風景と痕跡

 

刻まれた岩

 マルティニックの南部にサント=リュス(聖リュス)という漁村がある。この漁村近郊のモントラヴァイユ森(「わが仕事」森)には「刻まれた岩(ロッシュ・グラヴェ)」と呼ばれる巨石がひっそり佇んでいる。人の力では持ち上げることのできないずっしりとしたその岩は、断面が平らに削り取られており、そこに人の顔に見える文様が刻まれている。子供の落書きのようなそのデッサンは、しかし、この島に住んでいた人びとのもっとも古い記憶を保持している。

 2005年、モントラヴァイユ森の「刻まれた岩」を訪れたことがある。この遺跡の存在を知ったのはマルティニックの作家パトリック・シャモワゾー(1953生)とラファエル・コンフィアン(1951生)の著作『クレオールとは何か』(西谷修訳、平凡社、1995年[原著1991年])によってだった。フランス語圏カリブ海の文学を本格的に紹介したこの書で、著者たちは自分たちの文学の「始まり」をモントラヴァイユ森の「刻まれた岩」に据えたのだった。この遺跡は民家の庭らしきところにあり、その民家の主が遺跡の管理人だった。

 「刻まれた岩」はグアドループにも存在する。バス=テール島トロワ=リヴィエール市(三本川)にあるこちらの方がモントラヴァイユ森よりも規模の面で上回っている。ここには何十もの「刻まれた岩」が保管されており、1975年から考古学公園として一般に開放されている。2011年に訪れたさいは、ガイドの同行とともに1時間ほどかけて敷地内に点在する遺跡を見て回った(写真1)。

刻まれた岩

 そこに刻まれている文様は一般に六つに分類されるといわれる。単純な顔、積み重ねられた顔、装飾された顔、囲まれた目(囲まれた目をもつ顔)、人物、動物である。しかし、それらが正確なところ何を意味するかはほとんどわかっていない。少なくともわかっているのは、このデッサンは紀元前3世紀か4世紀にまでさかのぼる、先住民の記憶の痕跡であるということだ。

 カリブ海の歴史を考える場合、1492年のコロンブス(1451―1506)によるカリブ海地域の「発見」以前は「先史時代」――歴史学・考古学上の分類で「前コロンブス期」とされる。広く知られるとおり、西回り航路でアジアを目指したコロンブスは、これらの島々を「インディアス」(インド)だと思い込み、原住民をインディアスに住んでいる人と解して「インディオ」と呼んだのだった(英語でこの列島を「西インド諸島」と呼ぶのはその名残だ)。

 先住民は岩に記憶を刻む術はもっていたが、ヨーロッパ人のような文字技術をもっておらず、より正確には、文字による記録手段をもつ必要がなかった。このため、たとえ憶測と誤解と偏見に満ちていようと、航海者、宣教師が当時残した書簡や日記が、先住民の生活や文化を知るための重要な手がかりとなってきた。

 

食人種の住む島々

 ヨーロッパ人による記録に基づいて長らく信じられる人類学的区分によれば、カリブ海にはふたつの先住民がいた。ひとつはアラワク族と呼ばれる人びとだ。かれらは、中央アメリカを起源とし、アマゾン熱帯雨林で生活後、現在のベネズエラ北端に位置するパリア半島から、カリブ海の列島を北上し、各島に移住したという。アラワク族の移住は紀元前4世紀以降におこなわれたとされる(現在グアドループやマルティニックで確認される「刻まれた岩」はアラワク族が残したものだ)。とくに大アンティル諸島に集住したアラワク族(タイノ族と呼ばれる)は、7世紀以降、農耕文化の発展により、定住的な社会組織を作り出したといわれる。

 一方、6世紀のあいだに、同じ経路でカリブ海を北上して移住していった集団がいる。これがカリブ海の語源ともなっている、カリブ族と呼ばれる人びとだ。この時期にはすでにアラワク族は主に大アンティル諸島に、カリブ族は小アンティル諸島に住んでいたといわれる。

 コロンブスが第一次航海のさいに「発見」したのはエスパニョーラ島をはじめとする大アンティル諸島であり、そこでアラワク族(タイノ族)とされる人びとに出会った。かれらから聞いたこととして、コロンブスはカリブ族のことを次のように伝えている。

[……]インディアスに入って二番目にあるクアリス島[カリブ島]にはとても獰猛な、人間の肉を喰う人種が住みついております。彼らは多数のカヌーを持っていて、インディアスの島々を渡り歩き、手当たり次第に盗みを働いております。彼らは他の島々の者より格好が悪いというわけではなく、ただ女のように髪を長くしているのです。「計理官ルイス・デ・サンタンヘルへの書簡」(『全航海の報告』林屋永吉訳、岩波文庫、2011年、56頁)(注8)

 これがカリブ族と呼ばれる人びとについての最古の記録のひとつである。しかし、この記述を鵜呑みにするわけにはいくまい。インディオとの最初の接触のさい、ヨーロッパ人はインディオの言語を解さなかったからである。コロンブス一行が見聞したことの真偽は定かではないものの、たしかに「人間の肉を喰う人種」が存在すると報告された。さらに、1493年、スペインからエスパニョーラ島に向かう途上で、小アンティル諸島を探索した第2次航海のとき、コロンブス一行はカリブ族と呼ばれる人びとに実際に遭遇している。場所はコロンブスがスペインのエストレマドゥーラ州にあるサンタ・マリア・デ・グアダルーペ修道院に因んで名づけた島、すなわちグアドループ島である。

 この第二次航海の記録については、1985年に新資料が発見されるまで、コロンブス自身による報告は長らく存在しないとされてきた。したがって第二次航海に随行したチャンカ博士の書簡が「人間の肉を喰う人種」を実際に見聞した報告として知られてきた。

人間の肉は非常に美味で、これほどうまいものはこの世にないということでありますが、実際彼らの家で我々がみつけた骨は、かじれるだけかじってあり、固くてどうしても喰えないところだけしか残しておりません。一軒の家では、鍋で人間の首筋を煮ているのをみつけました。「チャンカ博士がセビリャ市に送った書簡」(『全航海の報告』前掲、77頁)

 この記述――引用は一部に過ぎない――は一見するとカリブ族が人食いであることを証明する決定的な証拠であるように思われる。しかも、1985年に発見されたコロンブス自身による第二次航海の報告はこの「食人種」カリブ族の実在を補強するものになるだろうか。

私がいまこの船に乗せて送っている人びとによって両陛下が後ほどご覧になりお知りになられますとおり、この島々はどこもかしこもカニバルのもので、この人食いの人びとが住んでいると聞きました。

 この島[グアドループ島]には村は多くなく、さまざまな丘陵の斜面に点在しておりました。家々は大変良く、備蓄に溢れていました。男たちは、その大勢が森に逃亡してしまったため、わずかにしか遭遇せず、捕らえることができませんでした。女たちしか捕らえられませんでしたが、両陛下の多大な努力を払ってそうすることができたこの女たちを同じくお送りいたします。この女たちの打ち明け話によると、かのじょたちは他の島々から連れてこられたそうで、私の考えではカリブ族はこの捕虜たちを妾と見なしていました。かのじょたちはまた私に力を込めた合図でもってかれらが自分たちの夫、自分たちの息子・兄弟を食べたことを、また、かのじょたちにも食べるように強いたことを報告しました。「第二次航海の報告」(注9)

 ここに書いてあるとおりであるとすれば、カリブ族と呼ばれる人びとは人食いであったことは疑いないだろう。それでも、疑問は多いに残る。まず何よりもカリブ族と呼ばれる人びとが記述の客体としてしか現れないことである。こうした記録が残っているという事実は、記録の正確性を保証するものではない。すでに述べたようにコロンブスは食人種の存在を伝聞でしか聞いておらず、その伝聞も通訳(解釈)を介している。チャンカ博士が目撃した骨が、人肉の結果であると断定できるのかも定かではない。一説には、カリブ族には葬送の儀式で人骨を焼くという習慣があったとされる。そうであるとすれば、儀礼用の容器を鍋と取り違えたという可能性も否定できない。いずれにしてもたしかであることは、コロンブス一行の誰も実際には食人行為を目撃しておらず、間接的証拠(伝聞や人骨)を手がかりに食人種の実在をほぼ確証する記録を残している、ということである。

 食人行為の有無にこのようにこだわるのは「カリブ」という語にこの人食いのイメージが長らくつきまとってきたからである。人食いを意味する「カニバル」という語は「カリブ」から派生した。カリブ族のみならずカリブ海という名称自体に人食いのイメージが残響しているのである。

 ピーター・ヒューム(1948生)の『征服の修辞学』(岩尾龍太郎、本橋哲也、正木恒夫訳、法政大学出版局、1995年[原著1986年])は、カリブ 族およびカリブ海に刻印されたこの人食いのイメージが、ヨーロッパの植民地主義のイデオロギーと結びついてきたことを大胆かつ緻密に論じている。ヒュームが指摘するとおり、明らかに食人の象徴行為を有するカトリックの聖体拝領について、人はこれをカニバリズムとは呼ばない。聖体拝領を聖なるものとし、カニバリズムを野蛮な食人行為とする弁別はどのように作り出されたのか。ヒュームの仮説にしたがえば、ヨーロッパ・キリスト教世界が自己同一性を獲得してゆく過程で、その「他者」を表象するさいにカニバリズムが異端の習慣を意味するものとして機能した。こうしてカニバリズムとは「ある共同体がその他者との境界を明徴に標記するためにしばしば用いられる、人肉を獰猛に食らい尽くすイメージ」として、「ヨーロッパ植民地主義言説内部における完全な意味を獲得した」(『征服の修辞学』前掲、115頁)という(注10)

 このヒュームの見解を踏まえれば、長らく信じられてきたアラワク族とカリブ族という人類学的区分もまた不確かなところを残すように思える。少なくとも、ふたつの先住民の対立的表象、すなわち、大アンティル諸島に住む平和を好み温厚なアラワク族(高貴な野蛮人)と、小アンティル諸島に住む攻撃的で人を食べるカリブ族(食人種)という表象は、ヨーロッパの集合心性をとおして作り出されたといえるだろう。

 それゆえ、アラワク族とカリブ族の二項対立的把握には、それ自体、カニバリズムのイデオロギー的負荷がかかっている。最近の研究では、この紋切型は修正されており、アラワク族とカリブ族の対立性よりも類縁性が強調されている。グアドループの歴史家が編集した『カリブ海の歴史と文明』第1巻(2004年)は、アラワク族とカリブ族の対立的表象を批判しながらも、カリブ族のうちには儀礼的行為として人肉を食べる習慣があったとしている(すなわちコロンブスをはじめとするヨーロッパ人の記述を一定程度根拠としている)。『カリブ海の歴史と文明』では、1938年にドミニカ島でヨーロッパ人神父により聞き書きされた、カリブ族の起源物語が引用されており、その物語は、(1)カリブ族とアラワク族が血縁関係にあったこと、(2)ある事件をきっかけに両民族が反目し対立し合う関係になったことを説明している(注11)。すなわち、この話は食人行為の儀礼性が復讐にあることを見事に説明しているわけだが、ある意味で出来すぎた話であるともいえ、この起源物語自体が作り話である可能性も否めな い。

 以上のように、カリブ海の先住民について知られていることはそれほど多くない。アラワク族が残したとされる「刻まれた岩」は何を物語るのか。解読されないその絵文字は、あたかもカリブ海の歴史それ自体であるかのようである。海が鉄球をつけて沈められた死者たちについて語らないように、「刻まれた岩」は黙したままそこにある。

 

サトウキビ畑

 サトウキビ畑は今日でもマルティニックとグアドループに見られる風景である。サトウキビの背は高く、3メートルは優に超える。キビは竹のように固い。一般に植え付けから収穫までに1年あるいはそれ以上を要する。4月から5月に植え付けをすると、12月には一面がサトウキビで覆われる。収穫は翌年の5月から7月にかけておこなわれる。一般に畑を焼いた後、キビを鉈で伐採する。これをトラックに乗せて工場に持ってゆき、圧搾機にかけて「ヴズ」と呼ばれる搾り汁を採取し、さらに濾過する。砂糖(粗糖)を精製する場合、濾過したヴズを加熱して水分を蒸発させ結晶化させる、という製糖の工程を踏む。

 しかし現在はどちらの島でも砂糖を作ることは少なく、サトウキビは主にラム酒製造に用いられる。ラム酒の場合には、ヴズを発酵タンク(写真2)のなかで発酵させ、砂糖をアルコールに変えた後、この砂糖酒を蒸留塔で蒸留させて、大樽のなかで寝かせる。醸造させる期間に応じて、ホワイトラムやダークラムになる。ホワイトラムのアルコール度数は一般に50度か55度である。

発酵タンク

 島ではラム酒は愛飲されており、なかには世界的に有名な銘柄もある(注12)。 クレオール式建築の家特有のテラスで、昼下がりから夜にかけて、友人や知人を迎えるときに人びとはよくラム酒を飲む。ホワイトラムの1リットル瓶がテラスのテーブルに置かれ、多くの場合、ラム酒を注いだ小さなグラスに砂糖とライムを加える。「ティポンシュ」と呼ばれる日常の飲み方だ。

 そもそもサトウキビはどこから来たのか。

 サトウキビ発祥の地は現在のニューギニア島で紀元前8000年から6000年にかけて現在の東南アジア、インド、中国に広まったといわれている(注13)。 7世紀にペルシアから砂糖の精製法とともにイスラム世界に伝わり、8世紀以降にエジプトをはじめとするイスラム文化圏で栽培されるようになった。ヨーロッパにサトウキビが伝わったのは11世紀末、十字軍を介してである。それ以前はヨーロッパにおける主な甘味料は糖蜜だった。サトウキビは寒さに弱いことから当時は地中海地域で栽培されたという。

 サトウキビをカリブ海地域に持ち込んだのもやはりコロンブスである。インディアス発見の翌年におこなわれた1493年の第二次航海は、エスパニョーラ島への本格的な植民を目的としていた(この過程でグアドループ島を発見してカリブ族に遭遇した)。17隻の船と約1500の人員を率いたこの航海で、コロンブスはエスパニョーラ島にサトウキビの苗を移植したのだった。その後、サトウキビの本格的栽培が取り組まれるとともに、メキシコ、ブラジルをふくめたカリブ海の各地域にも移植された。マルティニックとグアドループに持ち込まれたのは1635年、すなわち両島にフランス人が入植した年である(栽培が本格化するのは後述するように17世紀後半以降)。別言すれば、カリブ海におけるサトウキビの移植はヨーロッパ人の植民地化と平行関係にある。

 サトウキビ畑を耕し、収穫し、砂糖を精製するにはその技術もさることながら何より大量の労働力を必要とした。しかし、ヨーロッパ人の植民地化の過程ですでに多くの先住民が命を落とした。カトリック司祭バルトロメ・デ・ラス・カサス(1484―1566)は、1552年の報告書でスペイン人による「インディアスの破壊」について次のように記している。

この[スペイン人入植以降]40年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(染田秀藤訳、岩波文庫、1976年、19―20頁)

 このようにインディオは、スペイン軍との戦争で殺されたり、鉱山労働を強制されたり、植民者が持ち込んだ病気に感染するなどして「殲滅」へと追いやられていった。小アンティル諸島でも同様に、ヨーロッパ人との戦闘に敗れたカリブ族は消滅の一途をたどった。なかでもフランス人が最初に入植したグレナダ島には「跳躍者たちの丘陵(モルヌ・デ・ソトゥール)」と呼ばれた崖がある。文字通り殲滅へと追い込まれたカリブ族の最後の一団は、その崖から身投げしたと伝えられている。

 インディオの消滅の後、ヨーロッパ人はサトウキビ農園を経営するために労働力を他所に求めるようになった。最初に導入されたのは、白人移民である。その供給源は大まかにいって三種類あったといわれる(注14)。 第一は、年季奉公人である。かれらは渡航費の免除のうえで一定期間(主に3年間)植民地で労働に従事した。第二の供給源は、囚人、犯罪者で、国家の支援のもと、囚人労働の一環として植民地に移送された。第三は、宗教上あるいは政治上の敵である。イギリスでは本国の体制派の宗教を信奉しない者たちがバルバドス島に送られた。しかしながら、以上の白人労働力にはそれぞれ難点があり、最大の問題は砂糖生産に必要な分だけの労働力が確保できないことにあった。

 そこで新たな労働力として注目されたのがアフリカの黒人だった。白人年季奉公人よりも安価であり、扱いやすく、何より大量に供給することができたからである。こうして17世紀以降、かの悪名高い三角貿易が確立し、ヨーロッパ商人によって奴隷として買われたアフリカ人たちがカリブ海の植民地に次々と移送された。人びとは、積み荷として船倉に押しやられ数週間の過酷な航海を強いられた後、ついにたどり着いた未知の土地で奴隷市場に連行され、サトウキビ農園の主人に買い取られる、という運命をたどった。

 

大邸宅と奴隷小屋

 サトウキビ畑はカリブ海を決定づけてきた風景だ。数世紀にわたって続くこの風景は、カリブ海の人びとにとっては生まれながらにして与えられていた。一般にこの風景からそれほど遠くない場所に、奴隷たちが住む粗末な小屋が並び、その小屋の先には農園主の大邸宅がある。農園主はその広い敷地に風車、製糖所、厩舎から、大規模な農園になれば、管理職の屋敷や小売店などをもつ。奴隷の生活も、農園主の生活も、すべてこのサトウキビを生産する空間、すなわちプランテーションのなかで完結する。

 プランテーションの風景については、ユーザン・パルシー監督(1958生)の映画『マルチニックの少年』(1983年)が具体的なイメージを与えてくれる(注15)。この映画はマルティニックの作家ジョゼフ・ゾベル(1915―2006)の自伝的小説『黒人小屋通り』(1950年)を原作にしており、作家の分身であるジョゼ少年の成長をとおして、マルティニックの農村と都会を描いている。物語前半の舞台は「黒人小屋通り」と呼ばれる奴隷小屋の界隈だ。20世紀前半にはプランテーションの風景はまだ日常に残っていた。

黒人小屋通りは、丘の中腹に、等間隔で並んだ、およそ三ダースの波形の鉄板で覆われた木製のあばら屋からなっている。丘の上には瓦葺きの王座、管理人の屋敷があり、その妻は小売店を経営している。この「屋敷」と小屋通りのあいだに、会計係の小さな家、ラバの牧養場と肥料置き場がある。小屋通りの向こう側は一面、広大なサトウキビ畑、その果てに工場が現れる。『黒人小屋通り』(注16)

 ここでの屋敷は農園主のものでなく、農園主(工場主)のもとでプランテーションを取り仕切る白人の管理人のそれであるが、基本構図は変わらない。すなわち、大邸宅と奴隷小屋がプランテーションにおいて主人と奴隷、所有者と労働者、白人と黒人という対照的な関係を空間的に表象しているのだ。

 このことをいち早く論じたのはブラジルの社会人類学者ジルベルト・フレイレ(1900—1987)だった。フレイレはアメリカ合衆国深南部のプランテーション社会がブラジルのそれに類似していることを発見し、プランテーションを基盤にブラジル社会が成立したことを論じた『大邸宅(カザグランデ)と奴隷小屋(センザーラ)』(鈴木茂訳、日本経済評論社、2005年[原著1933年])を著した。

ルイジアナ、アラバマ、ミシシッピ、南北カロライナ、ヴァージニア――いわゆる「深南部(ディープ・サウス)」、すなわち家父長的な経済制度がブラジルの北部や南部のそれとほとんど同じ型の貴族階級とカザグランデ、奴隷とセンザーラを生み出した。[……]生産と労働をめぐる技術――単一栽培(モノカルチャー)と奴隷制――の同じ影響が結合し、アンティル諸島やジャマイカ同様、あのアメリカ大陸のイギリス人の土地にも、われわれの間に見られるものと類似した社会的帰結がもたらされた。ときにはあまりにも似通っているので、言語や人種、宗教といった付属物にだけしか違いがないほどである。『大邸宅(カザグランデ)と奴隷小屋(センザーラ)(上)』(前掲、4―5頁)

 ジルベルト・フレイレのこの指摘は、ブラジルからカリブ海を経て深南部にいたる一帯が同一の物質的基盤を共有していた事実を喚起させるとともに、プランテーション文化圏とでも呼べる、それらの地域の文化的・社会的空間の共通性をも示唆している。フレイレはまた別の著作でノルデスチ(ブラジル北東部)のサトウキビ畑について語り、「民衆のポエジー」は「サトウキビの、その味、その匂い、その粘着に染まったままである」と表現している(注17)

 たしかにサトウキビ畑の風景は民衆の労働と分かちがたく結びついている。『黒人小屋通り』にはジョゼ少年が大人たちの仕事の様子を感嘆しながら語る場面がある。労働歌にあわせて男たちはサトウキビを伐採し、女たちはキビを束ねる。

すべてが素晴らしかった。黒や小麦の色をした肌は半分むき出しで、垢だらけのぼろ着は光によって強められ、吹き出る汗は、背中を伝い胸に滲み、腕を振り下ろす動作のたびに大包丁が放つ一閃に応じて光っていた。背景音の類が足踏みされた藁によって積み重ねられ、「束ね紐」が後ろに投げられ、束ね女たちがこれをつかみ、十本一束に縛り、十束が山のように堆く積もっていた。これらの歌は途絶えることなく、ときには、努力の絶頂にある胸部から漏れた荒い鼻息や鋭い口笛が合間に入った。『黒人小屋通り』(注18)

 このプランテーションの空間で人びとは生きた。集団の歌は日々の過酷な労働を緩和し、夜には、太鼓の音にあわせた歌と踊りが繰り広げられるとともに、人びとは語り部の民話を聞いた。この空間で生み出された歌や民話が、大農園の解体以降、各地で発展する民衆文化の基盤となった。その意味でプランテーション社会とは逆説的にも民衆文化の「母胎」だった。

 

逃亡奴隷の森

 森はカリブ海の島々を特徴づけるもうひとつの風景だ。ただし森といっても日本語の語感とはずいぶん異なる。熱帯では木々も植物も密生しており、強烈な陽射しのもとで青々とした塊が一面に広がっている。その驚くべき密度のために、森のなかにはほとんど光が差し込まず、外から眺めると、森の内部は日中でも闇に閉ざされている(写真3)。

森の内部

 森は逃亡する奴隷たちの潜伏場所であり住処だった。逃亡行為は奴隷制が敷かれたプランテーション文化圏全域で見られるが、いくつかの地域では逃亡奴隷社会が形成され、ブラジル、ペルー、ジャマイカ、スリナムの各地では逃亡奴隷の子孫が独自の社会体をいまでも構成しているという(注19)

 フランス領カリブの逃亡奴隷にかんする古い記述はジャン・バティスト・デュ・テルトル神父(1610―1687)の旅行記『フランス領アンティル諸島通史』(1667年、全3巻)に見出せる。宣教師として17世紀にグアドループ島を中心に当時のフランス領の島々に滞在したデュ・テルトル神父は、1665年、マルティニック滞在中に数百名の逃亡奴隷が集う野営地が同島に実在したと報告している。逃亡奴隷を率いる長は、「森で見つけた300人か400人ほどの逃亡奴隷のなかへ飛び込み、われこそが長だと宣言し」、主人の名前をとってフランスシスク・ファビュレと周囲に呼ばせた「好戦的な風貌をし、途方もなく強い威光を備えた、屈強なニグロ」(注20)で、住民(白人入植者)を脅かす存在であったが、最終的には、交渉の過程でフランス当局の罠にはまりフランス本国に移送された(注21)

 デュ・テルトル神父の報告記は、同時代の旅行記が空想的な場合が多いのに対して、信頼に足る記述だと専門家には評価されているが、たとえば逃亡奴隷の長についての形容(好戦的な風貌、屈強なニグロ)は客観的記述というよりも、ヨーロッパ人による他者表象の記述と捉える方が適切ではないだろうか。すでにカリブ族に対するコロンブスの報告で見たとおり、好戦的な野蛮人という表象はここでもかたちを変えて繰り返されているように見える(注22)

 デュ・テルトル神父は奴隷の逃亡行為についてもいち早く考察をしている(注23)。神父によれば、隷属から解放されるための「自由への渇望」だけでは逃亡行為は説明できない。なぜなら逃亡を企てる者たちはアフリカでも隷属状態に置かれ、むしろアフリカでの方がカリブ海よりも生存の条件として過酷だったからである。そのように考える著者は、逃亡の種類を区別する。

 ひとつはカリブ海に連れてこられてきたばかりの新参者である。新参者は、カリブ海で強いられる労働に馴染むことができず、「アフリカ」へ戻ろうとして森へ逃亡する。しかし、かれらが口にできるのは「野生の実、カエル、カニ、サワガニ」といったもので、これらを生のままでしか食べられない。このため、ある者は結局プランテーションに戻り、またある者は飢えや病で死ぬという。

 もうひとつはすでにプランテーション労働に馴染んだ者たちで、かれらは主人たちの手荒い扱いや食料不足を不満に脱走する。かれらは鉈鎌や斧やナイフなどを持ったまま逃げ、人の近づけない山間部で庭を耕してそこで暮らす。闇夜に乗じてプランテーションに戻って必要品を奪ったり、主人の武器を盗んだりもする。さらに食料栽培が安定すると、自分の家族を連れ戻したり、ほかの逃亡奴隷者が合流するなどしてコミュニティを形成するようになる。その具体例として、1657年、マルティニックで逃亡奴隷の追跡者が森で栽培された食料やヒョウタンの皿を見つけていることを神父は報告している。

 逃亡奴隷をめぐるこの考察の歴史的妥当性については立ち入らない(注24)。少なくともここで確認できるのは、森に逃げた人びとの生活の痕跡をこの記述が残しているということだ。デュ・テルトル神父が記しているのは17世紀のマルティニックにおける逃亡行為だが、グアドループでも同じだっただろうことは想像に難くない。

 森はプランテーション世界とは異なるもうひとつの空間と時間を有している。プランテーション世界の外で、逃亡奴隷が自律的に生活を営む場所が森だった。やがてこの逃亡奴隷が、カリブ海の知識人のなかで抵抗の主体として表象され、民衆文化のうちに定着するようになる。後に見るように、逃亡奴隷の姿は反体制運動の象徴として繰り返し現れるだろう(注25)

 

3 植民地と奴隷制

 

フランス史のなかの島々

 マルティニックとグアドループの「歴史」には共通する四つの重要な年がある。

 最初は1635年。これはフランス人がこれらの島に入植した年だ。言い方を変えれば、マルティニックとグアドループがフランス領としてフランス史に組み込まれた年である。先住民カリブ族の「殲滅」とアフリカ黒人の強制移住が運命づけられたのはこの年であるとも言っておきたい。

 次に重要なのは1685年だ。黒人法という法律がフランス領で制定された年である。黒人が奴隷であり、奴隷主の動産であることが法によって定められたのである。フランス領カリブ海地域では奴隷貿易と奴隷制を背景に、18世紀、プランテーションの砂糖生産がピークを迎えることになる。

 それから、1848年。黒人奴隷制が最終的に廃止された年である。「最終的」というのは、じつはそれ以前にも奴隷制は撤廃されているからである。奴隷制廃止は、これまでプランテーションに縛りつけられていた人びとに「自由」を与えた。以後、植民地の人びとは「フランス市民」となるだろう。また、奴隷制廃止はプランテーション体制の漸進的崩壊を予告することになる。

 最後は1946年。何度か触れたように、植民地をフランスの県とすることを定めた法案が可決される年である。

 この四つの年をたどるだけでも、マルティニックとグアドループの「歴史」が宗主国フランスに完全に従属していることが見てとれることだろう。植民地化をおこなったのも、奴隷制を導入したうえに黒人法を制定したのも、この法律を撤廃して元奴隷に市民権を与えたのも、県化を承認したのも、すべてフランスである。「歴史」の主体はあくまでフランスにあるのだ。

 カリブ海の旧フランス領で独立を果たしたのはハイチだ。黒人奴隷制がフランスによって廃止されるはるか以前の1804年に、自分たちの手で自由を勝ち取った国である。カリブ海初、黒人初の共和国として出発したハイチは、たとえ苦難の道を歩もうと、フランス軍に勝利して自国の「歴史」を切り開いた点で、海外県の独立派知識人の精神的支柱になってきた。

 本章第1節で触れたように、海外県以降のマルティニック、グアドループには、「独立」か「同化」かという政治的主題がある(「自治」は中道路線)。筆者の感覚からすると、独立を求める人びとの気持ちはよくわかる気がする。自分たちの生まれた場所がかつての植民地であるだけでなく、現在はかつての宗主国の一部であること。その宗主国の政策によって自分たちの親の世代が奴隷として扱われ、自分たちの祖先は奴隷貿易によってアフリカから無理やり連れてこられたことを知るとき、そうした「歴史」を強いてきた旧宗主国フランスに対して怒りや悔しさを感じるのはもっともなことだろう。そこから、全的な依存・従属関係を脱して、「民族自決」の原則を実現したいとする痛切な願いが生まれるのもやはりもっともだと思う。ところが、実際はそうはならない。独立運動を展開する人びとがこれらの島の「多数派」を形成することはないのである。むしろ「同化」のほうがつねに求められてきた政治要求だった。

 なぜか。その理由を考えるためには、フランスにおいて奴隷制が廃止された経緯をたどる必要があるだろう。フランスでは二度奴隷制が廃止されている経緯もあって、やや複雑なところがあるのだが、海外県問題を考える上で重要な論点を含んでいるので押さえておきたい。

 奴隷制廃止だけでなく、奴隷制がマルティニックとグアドループに導入された過程をたどることも等しく重要だ。フランス国家はどういう政策のもとにカリブ海に奴隷制を敷いたのか。まずはこの点について、これらの島がフランス史に組み込まれた時代背景を確認することからはじめよう。

 

資本主義と奴隷制

 「世界史」のおさらいになるが、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国で支配的だった経済政策は、重商主義である。これは、貿易を中心に自国に資本を蓄積するという考えのもとに「新世界」で獲得した富を本国へ輸入するという政策だ。当初、ヨーロッパが植民地に求めた富は金だった。しかし、やがて金を蓄積するよりも砂糖に代表される熱帯産物の取引の方がより大きな富を生み出すようになってくる。そこで、ヨーロッパは熱帯産物生産の安価な労働力を確保するために、奴隷制の導入を思いつくのである。

 こうして確立したのが大西洋間の三角貿易だ。ヨーロッパの輸出品、航海のための日用品をアフリカへ運ぶ航路を三角形の第一辺とすると、アフリカ西海岸で奴隷を購入してカリブ海地域まで運ぶ大西洋航路が第二辺、すなわち「中間航路」にあたる。第三辺は、植民地で奴隷を売った金額で買い入れた現地産物をヨーロッパに持ち帰る航路である(なお最後の辺は、本国とカリブ海地域の直接貿易で補完された)。

 この三角貿易によってもたらされた利潤が、18世紀末のイギリスで先駆けて見られた産業革命を準備した。産業革命は、生産技術の急激な進展による社会・経済上の大変革を画する現象として、資本主義経済の確立の基礎をなしたといわれる。イギリス産業革命といえば、大量生産と大量流通を可能にする技術革新(紡績機、製鉄法、蒸気機関)やエンクロージャー(囲い込み)によって土地を追われた農民の都市への流入(賃金労働者の出現)がその要因としてあげられるが、マニュファクチュア(工場制手工業)から機械制大工業へ移行するには、本国に資本が蓄積されていることが条件だ。その条件を準備したのが三角貿易であり、三角貿易の基盤となった奴隷貿易と奴隷制である。プロローグで、カリブ海は資本主義システムの発展と切っても切り離せない地域だと述べたのはこうしたことを念頭に置いてのことだった。

 奴隷貿易および奴隷制をヨーロッパ世界経済の形成という枠組みで、すなわち「近代世界システム」(ウォーラーステイン)の枠組みで捉えるという見方は、ある程度定着しているように思える。本書でもその見方を基本的に共有するが、ことに資本主義と奴隷制のテーマにかんしてはトリニダード出身の歴史家エリック・ウィリアムズ(1911―1981)の古典的学説を参照しておきたい(注26)

 ウィリアムズの著作にまさしく『資本主義と奴隷制』(山本伸監訳、明石書店、2004年[原著1944年])と題された有名な歴史書がある。この本は、かれがオックスフォード大学に提出した博士論文「西インド諸島の奴隷貿易と奴隷制廃止における経済的側面」(1938年)に基づいている。

 その基本的主張はこうである。イギリス領カリブ海地域の奴隷制経済は、産業革命に不可欠な役割を果たし、産業革命を準備する資本の蓄積を可能にした。さらに、黒人奴隷制が宗主国の経済的利害から生じたように、その廃止もまた経済的理由が大きい。ウィリアムズの言葉を借りれば、「18世紀の商業資本主義は、奴隷制と独占によってヨーロッパに巨万の富をもたらした。しかし同時に、それは19世紀の産業資本主義を呼び起こす役割をも果たしたのであり、逆に商業資本主義と奴隷制およびその諸産物を破壊することにつながっていた」(『資本主義と奴隷制』前掲、302頁)。

 このことをウィリアムズの論旨にそくしてやや立ち入ってみると、おそらく次のように説明できるだろう。

 三角貿易は17・18世紀イギリスに産業上の発展をもたらした。第一に奴隷輸出のための造船業を中心に海運業が発達し、ブリストルやリバプールといった海港都市を飛躍的に発展させた。造船業では効率良く奴隷を運ぶことを目指し、船舶の積載量や速度が改良された。第二にアフリカ向けの積み荷となる商品の製造である。主要商品は、毛織物、とくにマンチェスターで製造された綿製品だった。ほかにも砂糖、ラム酒、ガラス、ビーズ、さらには船内で奴隷を縛る足枷や鎖などもあった(奴隷の食糧である塩漬け鱈も忘れてはならない)。これらの商品の製造過程で、綿花産業、製糖業、治金業が発展するとともに、今度はこの貿易で得た資本が金融業、重工業、保険業へ投資されることにより、イギリス産業の発展をもたらした。

 三角貿易が隆盛を極めた18世紀、イギリスでは砂糖の消費量が急激に増大した(注27)。たとえば、いまではイギリス文化の典型的イメージのひとつとなったティータイムは、18世紀中に中間階層に定着した。イギリスで紅茶やコーヒーに砂糖を加えるのが日常的な習慣になったのは1700年頃だという。貿易の初期には王族や貴族だけの専有物であった砂糖も、植民地での生産と本国への輸入の増大とともにイギリスの新たな消費文化を形成していったのだ。

 イギリスの資本蓄積を可能にした三角貿易の要である奴隷貿易は、1807年にイギリス議会で廃止が決定された。奴隷貿易が廃止されるにいたった経緯のひとつには、ウィリアム・ウィルバーフォース(1759―1833)をはじめとするイギリスの奴隷制廃止論者の積極的な活動がある。その後、1833年には植民地における奴隷制も廃止された。

 しかし、ウィリアムズの見解では、奴隷制が人種的理由でなくヨーロッパ各国の経済的思惑からはじまったのと同じく、奴隷貿易の禁止と奴隷制廃止もまた、人道主義的理由よりも経済的理由から説明される。

 従来、重商主義の理論は植民地に対する経済政策と不可分だった。本国が植民地の通商権を独占し、他国との交易を一切認めないのと同時に、植民地の産品を本国で排他的に流通させるという政策である。つまり、イギリス領カリブ海地域で生産される産物はすべてイギリス本国に輸入される一方で、イギリス領以外からの同種の輸入品に対しては高関税をかけるということである。こうして植民地から輸入した原料をもとに国内で生産した製品を諸国へ輸出することで利潤を得て国力を発展させるというのが、重商主義の基本的発想であり、この過程でイギリスは産業革命を可能とする資本蓄積をおこなった。

 ところが、植民地の経済政策と結びついた重商主義理論は、経済学者アダム・スミス(1723―1790)に徹底的に批判されることになる。スミスは『国富論』(大河内一男監訳、中公文庫、1978年[原著1776年])で貿易を独占あるいは制限する保護貿易を否定し、国家が経済政策に関与しない自由貿易こそが国力の発展につながるという論旨を展開する過程で、重商主義を支える奴隷による労働もまた非生産的だとして批判している。しかも、アメリカ独立戦争(1775―1783)はアダム・スミスの経済思想の有効性を裏付けるように作用する。イギリスは、アメリカ合衆国の独立を承認したパリ条約(1783 年)により13の植民地とともに多くの奴隷を失った反面、アメリカ合衆国とのあいだに定めた自由貿易は、重商主義以前よりも一層の貿易拡大をもたらした。イギリスはこのアメリカ独立を契機に植民地政策の重心をカリブ海地域からインドへ置くようになる。

 こうした経済的利害の変化を背景に、まず奴隷貿易が禁止された。19世紀には砂糖生産量は世界的に拡大し、ジャマイカやバルバドスといったイギリス領の島々よりも、大規模生産に適した広大な面積をもつキューバやブラジルが砂糖生産を上回った。国内の各産業界からも、イギリス領カリブ海地域への保護政策を批判する声があがり、同地域に対する関税の優遇措置もやがて撤廃された。

 奴隷制廃止の理由もまた、経済的自由主義に基づく資本主義経済を確立したイギリスにとって、奴隷制を維持することに利益が見出せなくなったことが大きい。奴隷制廃止運動は資本主義の展開との関係で生じてきたのであり、政府による奴隷制廃止の決定も、植民地保有と奴隷制に対する反省に立ってなされたわけ でなかったのである。

    

フランスの植民地政策と奴隷制

 以上がウィリアムズの『資本主義と奴隷制』のおおよその論旨だ。奴隷制の導入とその廃止を経済的観点から説明するウィリアムズの学説は、いま読んでも刺激に満ちている。

 大局的に見た場合、ウィリアムズの学説はフランス領の奴隷制の歴史を捉える場合にも有効だ。イギリスとフランスでは経済的展開が異なる以上、ウィリアムズ説を図式的に当てはめることはできないが、フランスにおいても奴隷制は、工業化にいたる本国の資本蓄積に漸次的に寄与してきたのは疑いえない事実だ。このことを念頭に置きつつ、以下ではマルティニックおよびグアドループの植民地化以降の「歴史」(つまりカリブ海のフランス植民地史)をたどりたい(注28)

 すでに触れたとおり、このふたつの島がフランス植民地になったのは1635年である。カリブ海地域での植民地獲得のきっかけを作ったのは、ノルマンディー地方出身の海賊ピエール・ベラン・デナンビュック(1585―1636)だ。すでにカリブ海を拠点に活動していたデナンビュックは、1626年、サ ン=クリストフ島(セントキッツ島)(注29)での植民活動の庇護を求めてパリに赴き、宰相リシュリュー(1585―1642)にその許可と資金を得て、特権貿易会社サン=クリストフ会社を設立した。さらに1635年、この会社を土台に植民地獲得による収益拡大を目指したアメリカ諸島会社が創設された。こうしてグアドループには1635年7月に、マルティニックには同年9月にフランス人が入植した。

 しかしながら、アメリカ諸島会社はサン=クリストフ会社と同じく事業的成功をおさめなかった。これらの島では小プランテーションに適したタバコの栽培がおこなわれたが、1630年代末にはすでにタバコの国際価格は低下しはじめていた。くわえて1635年から参戦した三十年戦争で経費がかさんだために、財源の乏しい特権会社に十分な資金提供がなされなかったのだった。

 フランス国家がカリブ海の植民地経営に本格的に乗り出すのは絶対王政期である。この時期の植民地経営は、ルイ14世(1638―1715)のもとで財務を担当した政治家コルベール(1619―1683)の貿易政策と切り離せない。ウィリアムズは、カリブ海の主要地域の包括的歴史書『コロンスブスからカストロまで』(川北稔訳、岩波書店、1978年[原著1970年])において、マザラン(1602―1661)に宛てたコルベールの書簡を紹介しているが、その文章はフランス重商主義の代名詞といえるコルベルティスムの特徴を端的に示していると思われるので引用しておきたい。

われわれはいまやあらゆる産業を再建ないし創建しなければなりません。その場合は、奢侈品産業といえども例外ではないのです。また保護関税を確立し、生産者と商人が協力しうる組織をつくらなければなりません。国民を害する公債を減らし、自国物産の輸送はフランス船だけで行えるようにもしなければならないでしょう。植民地を開発し、その貿易をフランスが握らねばなりません。フランスと非ヨーロッパ(インド)世界との間に介在するすべての仲継業者を追放し、商船隊を守る海軍の整備を図らねばなりません。コルベール「マゼランへ宛てた書簡」(『コロンブスからカストロまでⅠ』前掲、203―204頁)

 実際、フランス国内では主要な輸出品であった毛織物工業が深刻な危機に陥っていたという。このため国内対策として、コルベールは外国の工業製品、とりわけ毛織物に高額な関税をかけることで自国製品を守りつつ、国家の資金援助と独占付与によって特権企業を設立することで工業の育成をはかった(注30)

 コルベルティスムの一方の極が関税による国内市場の保護にあるとすれば、もうひとつの極は、この引用にあるとおり、積極的な植民地政策にある。再び『コロンブスからカストロまで』からその植民地政策の三つの基本原則を確認しておけば、(1)植民地はフランスの貿易網の不可欠な核になること、(2)植民地は本国が独占的な領有権を行使できる場であること、(3)植民地の利害は本国のそれに従属していることである。コルベールはこの原則を厳格に適用し、植民地と本国間の貿易から他国の商人(とくにオランダ商人)を排し、アメリカ諸島会社にかわって新設した西インド会社(1664年)、さらにこの会社の後継であるセネガル会社(1673年)に、カリブ海フランス領のすべての貿易を独占させた。

 この重商主義的独占貿易体制は、民間商人や現地の農園主からの反発をよそになかば強制的に敷かれ、植民地政策の基本となった。ここでもやはりイギリスと同様、植民地は本国の商品だけを輸入し、かつ、本国のために産品を輸出すべきだとされ、完成品(白糖)ではなく原料(粗糖)を生産することが求められた。

 このような植民地政策は、カリブ海フランス領での新たな変化と対応している。マルティニック、グアドループでは当初は白人の年季奉公人によってタバコの栽培が主におこなわれていた。もちろんサトウキビ自体はすでにフランス人の入植とともにこれらの島にも伝わっていたが、その栽培には技術と大量の労働力がいるため、実施が難しかった。しかしながら、17世紀中盤にユダヤ系オランダ人を介して精製技術が伝わり、風車も建設されてサトウキビ栽培の条件が整うようになると、今度は労働力の不足が問題となった。こうして砂糖プランテーション確立にともないフランス領でも黒人奴隷が導入されていった。

 農園主たちは当初はオランダから奴隷を買っていたが、やがてコルベールの政策のもと貿易特権会社(西インド会社、セネガル会社)がフランス領の奴隷貿易を独占するようになった。もちろん農園主は、奴隷だけでなく、ヨーロッパから運ばれるほとんどの物資を貿易特権会社から購入しなければならなかった。1684年には植民地で精製工場を開設することも禁じられ、植民地は本国に従属する商業地であるというコルベルティスムの基本理念が貫徹されたのだった(この独占貿易体制は18世紀に緩和される)。

 砂糖事業の拡大に応じて奴隷の数も増加した。一例をあげよう。マルティニックの農園主ジャン・ロイは、1660年、主要な領地に4人の奉公人、44人の奴隷(うち15人は未成年)、別の領地に5人の奴隷(うち2人は未成年)を抱えていた。これが1680年には、すべての領地の総計で、12人の白人(中間管理職、外科医、仕立屋など)、299人の黒人奴隷を所有することになる。1685年の段階でマルティニックでは4882人の白人に対して黒人は1万343人を数えた。

 このような急激な黒人奴隷の増加を背景にフランス領で制定されたのが、例の黒人法(1685年)である。これはカトリックの宗規に基づいて奴隷の身分を定めた法であり、日曜と祝日の労働禁止や食料提供の義務など、奴隷を消費材のように酷使する農園主に対する規制ともなる一方、奴隷が動産であること、奴隷の子供が農園主に帰属すること、奴隷による財産所有の禁止などを明文化している。黒人法には、正式な結婚の手続きを踏まないかぎり、農園主、あるいはそれ以外の白人男性が女奴隷とのあいだに子供を作ることを厳しく罰する条項があるが、この条項はそうしたことが1685年当時の段階ですでにおこなわれていたか、あるいは十分におこりうる可能性を示唆している。おそらくこの条項と関係して、黒人法には解放奴隷についての規定ももうけられている。奴隷主が特別に奴隷身分を解く場合としてもっとも考えられるのは、奴隷が自分の子供であった場合だろう。白人と黒人の混血を「ムラート」(注31)と呼ぶが、「ムラート」はやがて特別な階層を形成するようになる。

 フランス領カリブ海地域の植民地交易は18世紀に最盛期を迎える。カリブ海植民地のなかでもっとも利益をあげたのはサン=ドマングだ。これはスペインが支配していたエスパニョーラ島の西側3分の1の領土であり、現在のハイチにあたる。サン=ドマングへの植民は1670年頃からなされていたが、1689年から開始されたアウグスブルク同盟戦争(大同盟戦争)の終結にさいして1697年に結ばれた条約によって、フランスはスペインからサン=ドマングを正式に獲得した。サン=ドマングではその広大な面積を利用した大規模なプランテーションが営まれ、大量の黒人奴隷がこの地に供給された。

 こうしてサン=ドマングは18世紀に世界最大の砂糖生産地になった。1740年になると、サン=ドマングの砂糖生産量は英領カリブ海全体の生産量に比するほどになり(4万3000トン強)、1767年にはフランス領カリブ海地域の総生産量8万7000トンのうち、6万3000トンをサン=ドマングが占め、さらにフランス革命前夜にはサン=ドマングのみで8万6000トンの生産量を誇った。

 サン=ドマングにはおよばないが、マルティニックとグアドループも、フランスにとって経済上欠かせない植民地だった。実際、七年戦争期(1756―1763)にイギリスを相手におこなわれた植民地争奪戦で大敗北を喫したフランスが死守しようとしたのは、サン=ドマング、マルティニック、グアドループだった。マルティニックもグアドループもイギリス軍に占領されたが、戦争終結のためのパリ条約(1763年)でこのふたつの島はフランスに返還された。その代償としてフランスは植民地の大半(インドとカナダの植民地、セント=ルーシャ島、ドミニカ島)を失ったのだった。

 ナント、ボルドー、ラ・ロッシェルといった海港都市についてもここで触れておくべきだろう。これらの都市は、三角貿易でイギリスの海港都市が繁栄したのと同じく、奴隷貿易およびカリブ海植民地との直接交易によって飛躍的発展を遂げた。奴隷貿易港としてもっとも栄えたのはナントである。貿易特権会社(西インド会社、ギニア会社、アシエント会社)による奴隷貿易の排他的独占は、1716年以降、大幅に緩和され、海港都市の商人、船主が奴隷貿易に参入できるようになった(注32)。ナント奴隷制廃止記念館の公式サイトによれば、17世紀中盤から19世紀中盤にかけてナントが奴隷船(団)を送った回数は1714を数え、フランスの奴隷貿易全体の43%におよぶ。これに対して奴隷貿易よりもカリブ海植民地との直接交易によって栄えたボルドーは、サン=ドマングの砂糖生産の急成長を背景に18世紀に発展した。ボルドーはカリブ海産の熱帯産品をイギリスよりも低価格でヨーロッパ諸国へ再輸出することで莫大な利益を得たのである。こうして18世紀の間に海港都市ボルドーの人口は2倍になり、植民地貿易額にいたってはフランス革命前夜に1億1000万リーヴルにまで達した。その貿易額は1730年のおよそ10倍である(注33)

 トリニダード出身の歴史家C・L・R・ジェイムズ(1901―1989)は、ハイチ革命の過程を描いた歴史書『ブラック・ジャコバン』(青木芳夫監訳、大村書店、1991年[原著1938年])で、これらの海港都市における資本蓄積が奴隷貿易と奴隷制によってもたらされたことを指摘している。いわく「18世紀にフランスで発達した工業のほとんどは、もともとギニア海岸向け、またはアメリカ向けの商品や日用品の製造であり、奴隷貿易からえた資本が工業を育てあげた」のである(『ブラック・ジャコバン』前掲、59頁)。

 ジェイムズによれば、「奴隷貿易と奴隷制がフランス革命の経済的基盤であった」(同書、58頁)。つまりフランス革命は、直接的であれ間接的であれ、奴隷貿易と奴隷制から財を築いた有産階層によって導かれたということである。そして奴隷制はフランス革命期に廃止される。奴隷制廃止は政体の変化によってすぐさま撤回されるものの、この制度を維持する国のなかではもっとも早い宣言だった。

 

〈革命〉と奴隷制廃止

 奴隷制廃止が宣言されたのは、フランス革命期の国民議会の場においてだった。1794年2月4日(革命暦2年雨月(プリュヴィオーズ)16日)に採択された奴隷制廃止宣言は、「人権宣言」を掲げるフランス共和国の革命理念を輝かしく映し出しているように見える。人間の平等性をその独立宣言に記したアメリカ合衆国が奴隷制を廃止するのが1865年であることを考えれば、なおさらである。

 実際、この決議に人権思想が果たした役割を指摘することはできる。奴隷制廃止にいたるおよそ半世紀前にモンテスキュー(1689―1755)は『法の精神』(野田良之ほか訳、岩波文庫、1989年[原著1748年])において奴隷制を原理的に批判している。生まれながらに平等であるはずの人間が、また別の人間の生命と財産の絶対的主人となることは理にかなっていないとする批判だ。モンテスキューは、黒人奴隷制に対しても一章を割き、反語法(アンチフラーズ)を用いて奴隷制擁護の論拠の愚かさを批判した。ヴォルテール(1694―1778)の小説『カンディード』は、しばしば引用される有名なくだりで奴隷制を風刺している(注34)

 奴隷制廃止運動は、啓蒙思想家たちのこうした批判精神を背景としながら、1788年に発足した「黒人友の会」によって担われた。中心メンバーにはジロンド派の指導者ブリソ(1754―1793)、数学者コンドルセ(1743―1794)、グレゴワール神父(1750―1831)がおり、人道主義の立場から奴隷制の廃止を強く訴えた。とくに「黒人友の会」の初代会長を務めたコンドルセが1781年に偽名で出版した『ニグロ奴隷制考』はフランスにおける奴隷制廃止論の最初の宣言文といわれている。

 「黒人友の会」の活動は一見すると奴隷制のもたらす経済的利益を度外視している。奴隷制擁護を唱える「マシャック・クラブ」と呼ばれるロビー団体がフランス人大農園主によって設立されるのは「黒人友の会」の活動を恐れてのことだった。ところが「黒人友の会」は経済観念において自由主義的だった。アダム・スミスは奴隷制の非効率性についてこう述べていた。

古今東西の経験に徴して、奴隷の仕事というものは、一見したところ、かれらの生活費だけ出せばよいように見えて、その実、結局もっとも高くつくことを明示していると思う。財産を取得できない人間は、できるだけたくさん食べ、できるだけ少ししか働かないことだけを考え、ほかにはなんの関心も示さないものである。奴隷の生活資料をまかなうのに十分な量を超えて、さらに仕事をさせるということは、ただ力ずくでのみできるのであって、奴隷がすすんで働くなどということはない。『国富論』(前掲、第3篇第2章)

 コンドルセが『ニグロ奴隷制考』において「解放されたニグロは食料の量も質も害することはなく、それとは逆に、質を改良しながら量を高めるのは確実である」と書くとき、念頭に置いているのは明らかにアダム・スミスの経済思想である(注35)。ブリソも同様に強制労働よりも自由労働の方が生産力が高まると主張していた(注36)

 このように「黒人友の会」の奴隷制廃止論は、同時代に展開された経済自由主義も論拠としている。ただし、この主張には植民地放棄という発想は見られない。植民地の保有によるフランスの経済的繁栄は疑われざる前提なのだ。

 「黒人友の会」の活動は奴隷制廃止までにいたらず、後述の有色自由人(解放奴隷)の参政権獲得をもって1791年秋に解散する。奴隷制廃止が可決され、奴隷に「人権宣言」が適用されるのは「人権宣言」採択から遅れること5年後のことである。この遅れの理由は何か。このことに答えてくるのは浜忠雄のハイチ革命史研究だ。『ハイチ革命とフランス革命』(北海道大学図書刊行会、1998年)、『ハイチからの問い』(岩波書店、2003年)を手がかりに、奴隷制廃止にいたるやや複雑な経緯をたどろう。

 「人権宣言」の正式名称は、「人間の権利と市民の権利の宣言」である。「人間」が「白人男性」を指し、女性が排除されていたように、当初、有色自由人と黒人奴隷はこの宣言の対象としてはまったく想定されていなかった。しかし、国民議会内で植民地が問題となったとき、有色自由人の参政権をめぐる議論が浮上する。植民地からの代表を認め、植民地議会を認めた後での議論だ。こうして、まず1791年5月、有色自由人の法的平等、すなわち「人権宣言」の適用が認められるのである。

 さらにそこから遅れること3年後に奴隷制廃止が宣言される。その決議文にはこうある。

国民公会は、すべての植民地における黒人奴隷制が廃止されることを、宣言する。したがって国民公会は、植民地に居住する人はすべて、肌の色の区別なしに、フランスの市民であり、憲法が保障するすべての権利を享受するものであることを、宣言する。河野健二編『資料 フランス革命』(岩波書店、1989年、497頁)

 この決議文はその文面を読むかぎり、たいへん画期的である。「人権宣言」の適用が遅れたとはいえ、フランスの共和主義的理念はここに見事に反映されているではないか。やはりフランスは自由と平等の国であると言いたい気持ちにさせられる。

 しかし、この宣言が採択される直接の要因は、じつは人道主義にも共和主義にもない。そこにははっきりとしたフランス共和国の経済的、政治的利害があるのである。その引き金は、1791年8月22日にサン=ドマングで起こった。この日、後に「ハイチ革命」と名づけられる、大規模な黒人奴隷蜂起がはじまったのだ。

 この蜂起に恐れをなしたのは、サン=ドマングの白人農園主だった。かれらは自分たちの権益をいかに守るかを考えた。農園主のうち「旧体制」を支持していた人びとは革命後のフランスを危険視していた。フランスの急進的革命派は「旧体制」支持者や反対派を次々と弾圧していたからである。王制の廃止を告げるルイ16世紀の処刑(1793年1月)は決定的だった。そこでサン=ドマングの農園主は、フランスの革命波及を同じく恐れていたイギリスと結託することでこの難を逃れようとする。イギリスはすでにマルティニックに進攻していたが(1793年3月)、今度はサン=ドマングの白人農園主の手引きのもと同地の南西 部一帯を制圧した(1793年9月)。

 一方、フランスは、サン=ドマング喪失だけは是が非でも防がなくてはならなかった。政体が変わったとはいえ、フランスには植民地を放棄するという観念は一切なかった。しかもサン=ドマングは革命前夜において世界最大の砂糖生産を誇った土地であるからなおさらである。サン=ドマングを狙っていたのは、イギリスだけではない。スペインもそうだった。現地のフランス軍だけでは到底両軍の進攻を防ぐことはできなかった。このような情勢のなかで、サン=ドマングに派遣されていた革命政府の代表委員は、黒人奴隷に武器を与えて国民軍に編入する必要を迫られた。そのさい、黒人奴隷を自分たちの側に引き止めなければならない。でもどうやって? 有色自由人に法的平等を認めたように、黒人奴隷を「フランス市民」と認めることで、サン=ドマングを防衛するしかないではないか。

 こうして現地の革命政府代表委員の判断で、1793年8月に奴隷解放が宣言されたのである。ただし、この解放宣言には本国議会の承認が必要だ。そこで革命政府代表委員はサン=ドマング代表の代議員を選出し、本国に派遣したのである。一団が本国議会の会議場に入ったのは2月3日だった。翌日、奴隷制廃止が宣言されるにはこのような経緯があったのである。

 奴隷制廃止宣言はフランス領カリブ海の島々に何をもたらしたのだろうか。サン=ドマングでは実質上奴隷は解放されていた。マルティニックは1794年3月からイギリス軍の占領下にあり、奴隷制廃止の政令が届くことはなかった。白人支配層はマルティニックでも同様に現状維持を望んでいたことから、「旧体制」を維持するイギリス軍の占領をむしろ歓迎した。奴隷制廃止が宣言されたのはグアドループである。その任を託されたヴィクトル・ユーグ(1762―1826)は、イギリス軍の手中に落ちたばかりのグアドループを奪還し、1794年6月、奴隷制廃止を宣言した。1798年までの4年間、ユーグはグアドループに恐怖政治を敷き、白人農園主をはじめとする反革命分子を断頭台に送る一方、解放した奴隷をプランテーション労働に従事させた。革命と植民地経営は矛盾しないのである。

 1802年、奴隷制の復活が宣言される。奴隷制廃止を撤回したのは、霧月(ブリュメール)18日のクーデターによって事実上の国家元首となったナポレオンだった。このとき、サン=ドマングは後にハイチ革命の英雄と讃えられることになるトゥサン・ルーヴェルチュール(1743―1803)の実質上の統治下 にあった。トゥサンは、奴隷出身だが、きわめて特別な境遇にあった。かれは奴隷制廃止以前に農園主から解放されていただけでなく、フランス語の読み書きと高い教養を身につけていた。戦術と交渉能力に長けていたトゥサンは、ハイチ革命の動乱期を、欧米列強と巧みに駆け引きをしながら、フランス領サン=ドマングの支配者となった。

 ナポレオンは1801年、トゥサンが植民地議会でサン=ドマング憲法を可決させたことに激怒した。奴隷制廃止をうたっていることもあるが、ナポレオンにはなによりもこの憲法が事実上の独立宣言とうつったからだ。こうしてナポレオンはサン=ドマングに遠征軍を派遣し、トゥサン軍の解体と奴隷制復活をもくろむ(両者の戦いについては浜忠雄『ハイチからの問い』に詳しい)。トゥサンはナポレオンの奸計に陥り、フランスに移送され獄中死する。しかし、サン=ドマングの革命軍はナポレオン軍に完勝し、1804年、ハイチ共和国の独立を宣言した。国名にとられたハイチは、先住民アラワク族(タイノ族)のことばで「山がちの土地」を意味するという。

 一方、グアドループでは奴隷制再建に対して有色自由人の軍人ルイ・デルグレス(1766―1802)が蜂起するが、敗北に終わった。こうしてフランス領グアドループも、マルティニック同様、革命以前の体制に戻ったのである。

 

1848年

 奴隷制再建後のフランスでは、ナポレオンの帝政期(1804―1814)、二度の復古王政(1814―1830)、ルイ・フィリップの七月王政期(1830―1848)と政体がめまぐるしく変化するなかで、フランスの植民地貿易政策を決定づけてきた排他的独占が漸次的に廃止され、自由貿易へ移行してゆく。これには砂糖生産をめぐる変化がかかわっている(注37)。まず、サ ン=ドマング喪失を受けてフランス本国で甜菜砂糖の生産が試みられはじめたことがある。甜菜砂糖がサトウキビ砂糖と本格的に競合するのは1840年代以降のことだが、カリブ海の白人支配層にとっては当初からの脅威だった。かれらは重商主義政策によるサトウキビ砂糖の保護を求めたが、これが有効な要求でないことに気づくと一転自由貿易を主張し、外国市場を求めるようになる。さらに、1820年以降の砂糖の国際価格の低下を背景に、フランスの砂糖輸入業者、精糖業者が、保護貿易で守られた自国植民地の砂糖よりも、大量で安価なブラジル産、キューバ産の砂糖を求めるようになった。

 こうした自由貿易へ向けた流れにくわえて、奴隷制廃止運動の機運が七月王政期から再び高まる。その中心を担ったのは1834年に設立された「フランス奴隷制廃止協会」である。その前年にイギリスでは奴隷制の漸進的廃止が可決されたばかりだった。この会に名を連ねた人物には、ロマン派詩人ラマルティーヌ(1790―1862)、政治思想家トクヴィル(1805―1859)、経済学者イポリット・パスィ(1793―1880)がいる。筆者の推測では、多かれ少なかれかれらに共通するのは自由主義思想である。すなわち、社会的には個人の自立と平等を、経済的には自由貿易と自由労働を説くという立場だ。「奴隷制の維持は自由労働と解放でかかる経費よりも100倍は高くなるでしょう」とラマルティーヌは国民議会の演説で述べている(1836年5月25日)。

 フランス領の奴隷制が最終的に廃止されるのは1848年のことだ(奴隷貿易は1817年廃止)。この年の4月27日、二月革命によって樹立した第二共和政臨時政府のもと、奴隷制廃止が可決された。この決議はふたつの点で際立っている。ひとつは、イギリスのように段階的な移行期間をもうけずに即時撤廃を掲げたこと。もうひとつは、本国の国民議会に代表を送る権利を認めたことだ。これにより植民地で初めて国民議会選挙がおこなわれた(植民地の選挙は、1854年、ルイ=ナポレオンの第二帝政期(1852―1870)に廃止され、帝政崩壊とともに復活する)。

 しかし、奴隷制廃止宣言の通達が本国から届く前に、マルティニックでは奴隷たちによる即時解放の要求が高まった。ルイ・トマ・ユッソンという高官が奴隷制廃止の政令が準備されていることを奴隷たちに告げたからだった。近いうちにお前たちは解放されるが、法が施行されるまでのあいだは奴隷であり、それまではおとなしく待って解放後は勤勉に働くべし、という内容である。待ちきれない奴隷たちは解放を求めて5月22日にプレシュール(説教師)で蜂起を起こした。こうして5月23日、予定を前倒しにしてマルティニックの植民地総督が奴隷解放を宣言したのである。グアドループでは5月27日に奴隷制廃止が宣言された。

 1848年の奴隷制廃止にかんしては政治家ヴィクトル・シェルシェール(1804―1893)に触れないわけにはいかない。「フランス奴隷制廃止協会」の会員であり、奴隷の即時解放を主張した、奴隷制廃止の立役者である。廃止後は、マルティニックおよびグアドループの国民議会議員を務めるなど、フランス領カリブ海の島々に大きな足跡を残した。後年(奴隷制廃止100周年の翌年)、フランス国家に認められた人物のみが許される死後の殿堂、パンテオンに祀ら れている。

 シェルシェールといえば、奴隷制廃止に尽力した人道主義の政治家というイメージが一般的だ。しかし、平野千果子『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)、工藤庸子『ヨーロッパ文明批判序説』(東京大学出版会、2003年)が指摘するように、この人物はもう一方で植民地推進派だった(注38)。なぜ奴隷制廃止と植民地主義が両立するのか。平野の分析にしたがえば以下のように説明できるだろう(『フランス植民地主義の歴史』第1章参照)。

 鍵になるのは「文明化の使命」である。これはフランスによる他民族支配を正当化するために用いられた言葉だ。このスローガンに表わされる精神が発揮されるのは、七月王政期から始まるアルジェリア侵略である。先述のラマルティーヌはその典型だ。かれは奴隷制に対しては、奴隷に「文明」(「人間」としての諸権利)を与えるべきだとし、アルジェリア征服はフランスの「文明」を広める「使命」だと述べた。この論理を敷延すれば、「文明」を与える主体は「共和国」である。ここで奴隷制が「共和国」の名のもとに廃止されたことが重要な意味をもつ。「野蛮な」奴隷制を撤廃した「共和国」こそ「文明」を体現する政体だと帰結されるからだ。

 共和主義者シェルシェールがフランス領カリブ社会で体現するのはまさしくこの論理である。マルティニック、グアドループには「シェルシェール主義」と呼ばれる政治思潮がやがて生まれるようになる。カリブ海で共和主義を信奉する思潮だが、その考えにしたがえば、奴隷制というのは王政時代や帝政時代というフランス「旧体制」の遺物であり、共和国フランスこそが自由と平等と同胞愛をうたう自分たちの「母なる祖国」だ、ということになる。

 1794年の奴隷制廃止が共和政下でおこなわれたことも、この論理を見事に後押ししている。すでに見たとおり、実際のところは植民地サン=ドマング喪失の危機が奴隷制廃止の直接的要因だったのだが、この点を顧みずにすますなら、共和主義のイデオロギーは十分担保されることになるだろう。

 それゆえシェルシェール主義者はフランス共和国への「同化」を求める。シェルシェール主義は、とくに1871年の国民議会選挙復活以降、フランス領カリブの政治の基本潮流を形成することになる。ようするに、フランス領カリブの同化主義の「起源」は、1848年の奴隷制廃止のうちにすでに書き込まれていたのである。

「第二章 政治の同化、文化の異化」へ




(注1)もちろんここでいうふたつの島とはマルティニックとグアドループである。群島の特徴を強調する場合を除いて、基本的にはグアドループを「島」と表記する。

(注2)ステファニー・ブラックのドキュメンタリー映画『ジャマイカ――楽園の真実』はキンケイドの『小さな場所』を下敷きにしてジャマイカを描いている。アメリカ合衆国で2001年に、日本では2005年に公開された(配給会社アップリンク)。原題は『生と負債』(Life and Debt)。

(注3)拙稿「ハチドリ通信 第1回グアドループ、マルティニック、レユニオンの社会運動」『リプレーザ』第2期1号を参照のこと。

(注4)「いまや同化は、政治、経済、社会の次元でほぼ完成し、フランスは、旧植民地を海外県化した世界でもまれな例を提供する国となった。生活水準や教育、社会保護において、仏領アンティルはカリブ地域のうちでも最も高い水準にあり、その点で近隣諸島の羨望の的となっている。ところが逆説的にも、近隣諸島とは異なって、仏領アンティル社会では存在論的居心地悪さがますます意識されるようになっている」(ジャッキー・ダオメ「アンティルのアイデンティティと〈クレオール性〉」元木淳子訳、複数文化研究会編『〈複数文化〉のために』人 文書院、1998年、163頁)。

(注5)通称「トビラ法」は、ギュイヤンヌ県選出の国民議会員クリスティアヌ・トビラが提出した法案である。この法案以降、奴隷制と奴隷貿易をめぐる記憶と歴史はフランスの公共の場で広く認知されるようになった。これについては本書後半で再び取りあげる。

(注6)この一文は、1976年のカリブ海芸術祭(通称カリフェスタ)用におそらく準備されたブラスウェイトの原稿「空間と時間のなかのカリブ海人」の巻頭に置かれた詩の1部である。Edward Kamau Brathwaite, “ Caribbean Man in Space and Time ”, John Hearne (ed.), Carifesta Forum: An Anthology of 20 Caribbean Voices, Kingston, Institue of Jamaica and Jamaica Journal, 1976, p.199.

(注7)Edouard Glissant, Le discours antillais, Paris, Seuil, 1981, p.134.

(注8)仏訳版の注釈によれば、クアリス島はコロンブスの航海日誌で言及したカリブ島が変形したものである。Christophe Colomb, La découverte de l’Amérique, tome 1, traduit de l’espagnol par Soledad Estorach et Michel Lequenne, Paris, La Découverte, 2002, p.312.

(注9)Christophe Colomb, La découverte de l’Amérique, tome 2, traduit de l’espagnol par Soledad Estorach et Michel Lequenne, Paris, La Découverte, 2002, pp.9-10.

(注10)食人の風習をもつカリブ族というイメージは、17世紀後半にフラン ス領カリブ海の島々(主にマルティニック島)に12年間暮らしたフランス人宣教師ジャン=バティスト・ラバ神父(1663―1738)の『仏領アンティル 諸島滞在記』(佐野泰雄訳、岩波書店、2003年[原著1722年])のなかでも触れられている。カリブ族と接触をもっていたラバ神父は、同書で食人の風 習に対する反証をおこなっている(同書、342―344頁)。日本語版『仏領アンティル諸島滞在記』は抄訳だが、黒人奴隷やカリブ族の生活などの大変貴重 な記述をふくんでいる。

(注11)Jean-Pierre Sainton (ed.), Histoire et civilisation de la Caraïbe, tome I : Le temps des Genèses, des origines à 1685, Paris, Maisonneuve & Larose, 2004, pp.65-66. 以下、参考までにこの話を引用する。「その昔、ひとりのアラワク族のインディアンが娘セセにこう忠告した。おなかに子を宿さないうち は川に水浴びに行ってはならないよ。ある日、セセは親の忠告を忘れ、月事のときに水浴びに行った。すると、川の水浴び場で暮らしていた「犬の顔をした」蛇が、娘をわっと捕まえて、身ごもらせてしまった。/ところが、毎晩、蛇は人間の男に変身し、日が暮れると、娘は親に気づかれないように川へ男に会いに行くようになった。セセは母の小屋で子を産み、やがて、毎晩、その子はセセの父と水浴びをして遊んだ。日が昇ると、全員が小屋(カルベ)に戻り、蛇はセセのおなかに隠れた。セセの弟はずっと以前から不思議がっていた。セセは刈取り用の鉈ももたずにいったいどうやってバラタ木の種を手に入れたのだろう。ある晩、弟は姉のあとをついていった。セセはバラタ木に向かい、木の根元で立ち止まった。すると蛇がかのじょの腹から出てきて、木に登ると、突然、男に変身して枝を揺らし、種を落とした。このことにすっかり腹を立てた若者は蛇を殺してしまおうと決め、翌日、蛇が再び木を登るときに殺すことにした。弟は蛇をばらばらに切り刻んだ。悲しみに暮れるセセは、蛇の亡骸を鱗ひとつ残らずかき集めた。亡骸を埋めて、葉でおおった。幾晩かの月夜の後、セセの弟がこのあたりで狩をしていると、突然巨大な音が近づいてくるのが聞こえ、やがて蛇が埋まった場所でぴたりと止まった。近づいてみると、インディアンでいっぱいの4つの小屋が見つかった。最初のカリブ族は、セセと蛇との息子たちだったわけだ。4つのうち、ひとつの小屋はアラワク族のおじに会うのを喜んだが、のこりの3つの小屋は、かれが蛇を殺したことに怒っていた。いずれにせよ長老たちはおじを殺してはならないと忠告した。/カリブ族とアラワク族は贈り物を交換し合い、友人として暮らした。ある日、悲しみに暮れたままの年老いたセセが、息子たちカリブ族に蛇の仇討ちでアラワク族の子どもを殺すように言うまでは。こうして事はなされた。だが今度はアラワク族がカリブ族の子どもを殺した。こういうわけでカリブ族とアラワク族のあいだの戦争は始まり、両者は今日まで敵対するようになったのだ」(ドゥラワルド神父が1938年ドミニカ島で再録した民話)。

(注12)以下が代表的な銘柄。「トロワ=リヴィエール」「ラ・モニー」「サ ン=ジェームス」「サン=テティエンヌ」「クレマン」(以上マルティニック)。「ダモワゾー」(グランド=テール島)、「モンテベッロ」「ボローニュ」 (バス=テール島)、「ビエル」「ペール・ラバ」(マリ・ガラント島)。

(注13)サトウキビの伝播については以下を参照。Sylvie Meslien, La canne à sucre et ses enjeux aux Antilles françaises : des origines au début du XXe siècle, Centre Régional de Documentation Pédagogique de la Martinique, 2009.

(注14)エリック・ウィリアムズ『コロンブスからカストロまでⅠ』川北稔訳、岩波現代選書、1978年、114頁以下。

(注15)日本では1985年に劇場公開された。原題はゾベルの小説と同じく『黒人小屋通り』(La rue Cases-Nègres)。

(注16)Joseph Zobel, La rue Cases-Nègres, Paris, Présence Africaine, 1974, p.17.

(注17)Gilberto Freye, Terres du sucre, traduit du portugais par Jean Orecchioni, Paris, 1956, p.143. 本書は『ノルデスチ』(1937年)のフランス語訳である。

(注18)Joseph Zobel, La rue Cases-Nègres, op.cit., p.64.

(注19)Richard Price et Sally Price, Les marrons, Paris, Vents d’ailleurs, 2005.

(注20)R.P. Du Tertre, Histoire générale des Antilles habitées par les François, Tome III, Paris, Chez Tomas Jolly, 1667, p.201. フランス国立図書館所蔵文献の電子版を利用。

(注21)Ô Fugitif : Anthologie autour de la figure du marron, une présentation de Jacqueline Picard avec la collaboration d’Armelle Détang et Claude Lucas, Le Gosier(Guadeloupe), Editions CARET, 1999, pp.17-18. 同書の解説を参照。以下デュ・テルトル神父の旅行記について本書の記述も同書を参照している。

(注22)1940年代生まれのマルティニック人フェルナン・フォルチュエとマリウス・ゴタン両氏から聞いた話によれば、逃亡奴隷は最初から民衆文化のなかの抵抗の象徴だったのではなく、住民に恐怖を与える山の異人のように表象されていた。

(注23)R.P. Du Tertre, Histoire générale des Antilles habitées par les François, Tome II, Paris, Chez Tomas Jolly, 1667, pp.534-537.同じくフランス国立図書館所蔵文献の電子版による。

(注24)Ô Fugitif, op. cit., pp.373-374. 同書の注によれば、デュ・テルトル神父の記述を出発点に逃亡奴隷を論じたイヴォン・デバシュの研究書『逃亡行為――アンティーユ奴隷の脱走についての試 論』(1962年)は歴史家のあいだで激しい論争の的となった。デバシュの論文が逃亡奴隷の植民地社会に対する対抗性を過小評価している、と一部の歴史家 が捉えたためである。逃亡奴隷を抵抗の象徴とする歴史家たちの見解はその政治的立場と一般に結びついている。

(注25)奴隷制に対する抵抗の形態は逃亡奴隷だけでない。プランテーション 内でも過酷な労働条件に対する叛乱や、毒薬による支配層の暗殺や、自殺などが試みられてきたことが知られている。だがそれだけでもない。黒人たちの娯楽と して捉えられてきたダンスが秘された抵抗運動であったことを、日本で長年暮らしたマルティニック人歴史家ガブリエル・アンチオープ(1947―2009) は『ニグロ、ダンス、抵抗』(石塚道子訳、人文書院、2001年)で明らかにしている。

(注26)イギリス産業革命における奴隷制の役割について日本である程度共通 了解が得られるのは、産業革命前史の専門家川北稔氏をはじめとする一部の歴史家の努力によるところが大きいだろう。筆者の理解は、川北氏の訳業(ウォー ラーステイン、ウィリアムズ、ミンツ)、池本幸三、布留川正博、下山晃『近代世界と奴隷制』人文書院、1995年に多くを負っている。

(注27)池本、布留川、下山『近代世界と奴隷制』前掲のうち主に288―292頁を参照。

(注28)主に以下を参照。Paul Butel, Histoire des Antilles françaises: XVIIe-XXe siècle, Paris, Perrin, coll.tempus, 2007 ; Pierre Pluchon (ed.), Histoire des Antilles et de la Guyane, Toulouse, Privat, 1982; Jean-Pierre Sainton (ed.), Histoire et civilisation de la Caraïbe, tome I, op. cit.. とくに最初の二著については、本章をつうじて参照する。このほかからの参照は本文あるいは注で適宜指示する。

(注29)サン=クリストフ島には数年前からイギリス人トーマス・ワーナー(1580?—1649)が入植しており、デナンビュックの入植以後、この島はイギリス領とフランス領に分割された。

(注30)服部春彦「アンシャン・レジームの経済と社会」柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編『フランス史2』山川出版社、1996年、42―45頁。

(注31)フランス語表記では「ミュラートル」となるが、ここでは歴史用語として定着しているスペイン語表記「ムラート」を用いる。

(注32)Gaston-Martin, Nantes au XVIIIe siècle : L’Ère des négriers(1714-1774), Paris, Librairie Félix Alcan, 1931, pp.13-15.

(注33)ポール・ビュテル『近代世界商業とフランス経済』深沢克己、藤井真理訳、同文館、1998年、77―79頁。

(注34)スリナムで出会った黒人は主人公にこう告げる。「おいらは着るもの といったら、年に二度布の下ばきをもらうだけなんで。砂糖工場で働いていて、臼に指をくわれたら手を切られる、逃げようとすりゃ脚を切られる、おいら、こ いつを両方ともやられたんだ。そのおかげで旦那方はヨーロッパで砂糖が食えるんですぜ」『カンディード』(吉村正一郎訳、岩波文庫、1956年[原著 1759年]、97頁)。

(注35)Condorcet, Réflexions sur l’esclavage des nègres, Flammarion, 2009, pp.77-78.

(注36)André G. Cabanis et Michel L. Martin, « La question économique et l’abolition de l’esclavage dans le discours révolutionnaire, 1791-1794 », Michel L. Martin et Alain Yacou (eds.), De la Révolution française aux révolutions créoles et nègres, Editions Caribéennes, 1989, p.78.

(注37)Alain-Philippe Blérald, Histoire économique de la Guadeloupe et de la Martinique : du XVIIe siècle à nos jours, Paris, Karthala, 1986, pp.38-41.

(注38)工藤庸子の『ヨーロッパ文明批判序説』では「資産家の文化人」とし てのシェルシェールの肖像が紹介されている。同書がある研究書から翻訳引用している箇所が興味深い。「じっさい有名な磁器製造業者の息子であるシェル シェールは、年金生活を送るブルジョワ、大金持ちで、いつも変わらぬ黒の長いフロックコートを着込み、外出するときには、かならず手袋をはめ、シルクハッ トをかぶり、希少な木材を使ったステッキをついていた。芸術の愛好家であり、堂々たる書物のコレクション(1万2000冊)の一部は豪華な特別製本をほど こされ、ほかにも芸術作品、家具、食器、手稿そして版画(9000人の異なる版画作家による9000点の版画作品!)などのコレクションをもっていた」 (同書、122―123頁)。シェルシェールは晩年にコレクションの1部をグアドループに寄贈し、1887年、シェルシェール美術館(ポワン=タ=ピトル 市)が開館した。この美術館は現在まで続いている。

目次

プロローグ
  • ゼネストという出来事
  • LKP
  • 「高度必需品宣言」
  • 本書の試み
第一章 植民地と海外県、その断絶と連続

1 「カリブ海のフランス」という問題
  • 小さな場所
  • カリブ海のフランス
  • 植民地としての海外県

2 風景と痕跡
  • 刻まれた岩
  • 食人種の住む島々
  • サトウキビ畑
  • 大邸宅と奴隷小屋
  • 逃亡奴隷の森

3 植民地と奴隷制
  • フランス史のなかの島々
  • 資本主義と奴隷制
  • フランスの植民地政策と奴隷制
  • 〈革命〉と奴隷制廃止
  • 1848年

第二章 政治の同化、文化の異化

1 同化主義の「起源」
  • 同化要求
  • 「普通選挙」
  • 移民と工業化
  • 砂糖危機、ベケ支配、保護主義
  • 労働条件への否
  • 移民と工業化
  • 社会主義から共産主義へ

2 セゼール、パリ、ネグリチュード
  • 模倣への違和感
  • パリ国際植民地博覧会とシュルレアリスト
  • 『正当防衛(レジティム・デファンス)』
  • 「帰郷ノート」

3 ヴィシー政権占領下から〈戦後〉へ
  • 「アン・タン・ロベ」
  • 『トロピック』とアンドレ・ブルトン
  • 反ヴィシーの戦い
  • 政治家セゼール

著者紹介

中村隆之
(なかむら たかゆき)/1975年生。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士課程修了。現在、明治学院大学非常勤講師。専攻はフランス語圏カリブ海文学・地域研究。
著書に『フランス語圏カリブ海文学小史』(風響社、2011年)、論文に「グリッサン、フォークナー、サン=ジョン・ペルス:ポストプランテーション文学論の試み」(『反響する文学』風媒社、2011年)、「ネグリチュード、民族主義、汎カリブ海性:フランス語圏カリブ海地域のディアスポラ知識人群像(1930~1970年代)」(『ブラック・ディアスポラ』明石書店、2011年)、「フランス海外県ゼネストの史的背景と「高度必需」の思想」(『思想』2010年9月号)、訳書に『ニグロとして生きる:エメ・セゼールとの対話』(共訳、法政大学出版局、2011年)など。
ブログ http://mangrove-manglier.blogspot.com/

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