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お知らせ(お知らせ)

hontoのブックツリー「哲学読書室」にて、『ラカン 真理のパトス』の著者、上尾真道さんの選書が公開されました。「心のケアを問う哲学。精神医療とフランス現代思想」というテーマのもと、自著を含めた五冊が紹介されています。

https://honto.jp/booktree/detail_00003595.html

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間もなく発売となる岡本健著『ゾンビ学』、書籍には収録しなかった付録「資料のえじき ゾンビな文献収集」を公開します。研究にあたっての資料の調べ方が丁寧に説明されています。レポートや卒論などの参考にしてください。書籍サイトからどうぞ。

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岡本健著『ゾンビ学』のはじめにと第1章を公開しました。書籍サイトからご覧ください。発売は4月20日頃からとなります。

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上尾真道著『ラカン 真理のパトス』の序文を公開しました。下記書籍サイトからご覧ください。

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3.11原発震災から6年が経過した。この日に福島第一原発で始まった過酷事故(それはまだ収束していない)を忘れないために、ティエリー・リボー「福島の惨事と国家原子力主義の7つの原則」(Thierry Ribault, « Le désastre de Fukushima et les sept principes du national-nucléarisme », in Raison Présente, numéro spécial « Le progrès, désirable ? », n°189, 2014)の翻訳を公開する。原文は以下で公開されている。

http://www.netoyens.info/public/BIBLIO/N-T_Ribault/RIBAULT2014_RP189.pdf

リボーが「国家原子力主義」と呼ぶものは、国家と科学の結合体であり、『脱原発の哲学』で私たちが「権力=知」と呼んだものに相当する。リボーが本稿で指摘する「国家原子力主義の7つの原則」は、福島第一原発事故後、今日に至るまで、国家と科学の結合体によって一貫して展開され続けている政策あるいはイデオロギーであり、それは科学とは何の関係もない。彼は、国家と科学の結合体が、国家科学として一貫して原発事故の健康影響を否認し(1、2、3)、放射能汚染地域で市民たちに被曝量を共同管理するよう促し(4)、その経験を通じて住民に原発事故のトラウマ、放射能汚染に由来するストレスを乗り越えさせる(レジリエンス=精神的な回復力)(6、7)、というシナリオを描いていることを明確に指摘している。しかし実際には、原発事故は精神的トラウマのみならず、被曝による過剰ガン発生などの健康影響をもたらしうる。国家と科学の結合体はそれを、レジリエンスによって乗り越え可能な単なるトラウマとストレスに矮小化しようとしているのである。

国家原子力主義の7つの原則:

1)あらゆるリスクを容認可能なものにすること

2)放射線の健康への影響を否定すること

3)科学を偽の良心に仕えさせること

4)全員を災害の共同管理者にし、自らの破壊の責任者にすること

5)原子力技術を自由の希求よりも大きな社会的力とすること

6)災害を治療薬にすり替える大いなる倒錯に傾注すること

7)人間としての人間を否定すること

ティエリー・リボーは、社会学者で、フランス国立科学研究センター(CNRS)、リール社会・経済学調査研究センター(CLERSE)研究員。福島第一原発事故後の福島の状況を、「市民放射能測定所」の活動を通じて描き出したLes sanctuaires de l’abîme. Chronique du désastre de Fukushimaの著者(ナディンヌ・リボーとの共著、Éditions de l’Encyclopédie des Nuisances, 2012)であり、それ以外にも、福島第一原発後の社会状況について多くの論考を発表している。

2017年3月11日 佐藤嘉幸

リボー「福島の惨事と国家原子力主義の7つの原則」PDF→

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渡辺洋平著『ドゥルーズと多様体の哲学』の「はじめに」と序章、約40頁をPDFで公開しました。下記書籍サイトからご覧ください。

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弊社刊行の震災・原発関連の書籍をご紹介します。

阪神・淡路大震災からは今年で22年、その後も東北、熊本と大きな震災がありました。

被災・被害に遭われた方々が、一日も早く安心して暮らせる日が来ることを願っております。

 

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竹内洋「加藤秀俊論」を(『大衆の幻像』中央公論新社、2014)より転載させていただきました。

ホームページ右側のバナーからご覧になれます。

http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/kato1.htm

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加藤秀俊論バナー

驚いたこと

 いまでは、加藤秀俊(一九三〇生)を戦後の生んだ代表的公共知識人とすることに誰しも異存はないだろう。「公共知識人」【パブリック・インテレクチュアル】は、政治・経済・社会・文化問題に対して、専門家に向けてではなく、知的公衆に意見を具申する知識人である。

 戦後の代表的公共知識人といえば、丸山眞男や清水幾太郎などをまず思い浮かべるだろう。加藤は『世界』への執筆こそ少ないが、『中央公論』や『思想の科学』『エコノミスト』『朝日ジャーナル』『Voice』などには話題論文を相当数執筆している。ところが『朝日新聞』論壇時評で言及された執筆者ランキングをみて驚いた。このランキングは辻村明「朝日新聞の仮面」に掲載されている。

 驚いたというのは、加藤は、一九五一年十月から一九八〇年十二月までの上位三一位に入っていないからである。ちなみに、第一位は中野好夫、第二位は小田実(一九三二~二〇〇七)、第三位は清水幾太郎で、丸山眞男は二三位である。加藤と世代的に近いところでは、松下圭一(一一位)、高坂正堯(一九三四~九六、一七位)、大江健三郎(一九三五生、一八位)、永井陽之助(一九二四~二〇〇八、二〇位)、高畠通敏(一九三三~二〇〇四、三一位)などがランクインしているのに、である。わたしは、『革新幻想の戦後史』執筆のためにこの辻村のデータをよりあたらしいところで集計したことがある。期間は一九八一年一月~二〇〇九年二月の『朝日新聞』論壇時評である。この新しいデータでも、なんと加藤は一回も言及されていないのである。上位を占めたのは田中直毅(一九四五生、一位)、立花隆(一九四〇生、二位)、船橋洋一(一九四四生、二位)、佐々木毅(一九四二生、一四位)、中西輝政(一九四七生、五位)である。

 たしかに、加藤の発表媒体は業界誌など、論壇時評の目配りの外にあった雑誌が多かったが、さきほど言及したように、『中央公論』などの執筆も少なくない。にもかかわらず、論壇時評で言及されることが少なかった。なぜだろうか。加藤が総合雑誌に執筆しても天下国家型の論説ではなく、文化を対象としたものであることから、天下国家型時論を取り上げる、巻頭論文主義の論壇時評でスクリーニングがかけられたからであろう。

 戦後を画するともいえる加藤の名論文「中間文化論」は、『中央公論』一九五七年三月号に掲載された。戦後は、新制中学校が義務化され、新制高等学校が大衆化することによってインテリを目ざす大衆がふえた。戦前はインテリの「教養」と大衆の「修養」が対比されたが、戦後は、新書ブームや人生論ブームなどでインテリの教養(主義)と大衆のミニ教養(主義)となった。こうしたミニ教養主義、つまりモダンで知的な大衆文化が輪郭をもち、それが一定の厚みに達した時に、加藤によって「中間文化」と命名された。加藤は、それを新書ブームや、ミュージカル、ムード・ミュージックなどの中間音楽、トリス・バーなどの出現にみている。

 これまでの日本の文化構造はエリートの高級文化とノン・エリートの低俗文化とに断層がある「ひょうたん」型だったが、低俗文化ではないが、高級文化でもない「中間文化」がふくれあがってきて、「ちょうちん」型になったとされた。中間文化はサラリーマンだけでなく、労働者・農民にも浸透した大衆文化となっていった。純文学と大衆小説の中間の中間小説や中間文学というジャンルが隆盛するにいたった。そしてそこにこそ戦後派の特色もあり、戦後日本の希望があるとしたのである(「戦後派の中間的性格」、『中央公論』一九五七年九月号)。

 ところがである。「中間文化論」が発表されたときの、『朝日新聞』論壇時評は、同号の『中央公論』の巻頭論文(加藤周一「近代日本の文明史的位置」と藤原弘達「石橋内閣論」) のみである。論壇時評の巻頭論文主義と政論主義が如実にあらわれている。

 

「柔らかくて、伸びやか」と「固くて、真面目」

 加藤より三歳だけ年長だから、同世代といえる、丸山眞男の弟子藤田省三(一九二七~二〇〇三)は、「中間文化論」が発表されたあと、「(中間だけで)普遍への欲求がない」「がっかりしました」「知的貴族というものの意味がぜんぜん理解されないんです」(久野収・鶴見俊輔・藤田省三座談会「戦争体験から何を汲み取ったか」、『中央公論』一九五八年十二月号、久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』中央公論社、一九五九年所収)と酷評している。藤田の酷評は、新しい見解の登場につきものの引きおろしともいえるが、それだけではない。

 丸山眞男的戦後啓蒙思想の枠外にあった加藤にたいする根底的な違和感によるものであろう。その違和感は、まるで、農民がはじめて商人に出会ったときの身体的感覚から発する違和感とでもいうべきものである。座談会では、鶴見俊輔(一九二二生)はさすがに、とりなすようにこういっている。「(中間文化論は)われわれに対する批判としては、正しいものを含んでいるでしょう。それは認めなくちゃいけないですね」。

 といっても加藤は、身近な文化だけを論じてきたわけではない。のちの「無目標社会の論理」(『中央公論』一九六三年四月号)がそうであるように、文明史的ひろがりをもつものなのだが、いきなりの天下国家論ではない。加藤の迂回は、いきなり型の野暮な論壇的知とは距離があった。この齟齬こそ、加藤を公共知識人としての論壇の中心から離れさせ、そのことによりユニークな立ち位置とさせたものである。そう、わたしは思う。

 われわれが戦後の論壇知識人でおもい浮かべる人の多くは天下国家型公共知識人であったときに、加藤は町人型公共知識人とでもいう独自の位置から発信した。天下国家型論壇知識人と加藤では、文体からしてちがう。加藤の論文には難しい漢字も博覧強記をひけらかそうとする古典の引用もない。ひらがなが多く、卑近な事例を使っている。柔らかくて、伸びやかな文体からして町人型である。加藤を町人型とするならば、さきの藤田省三などは「固くて、真面目」な武士・農民型であろう。武士・農民型はいいが、「知的貴族」という段平をふりかざすあたりが、特権的というよりも田舎者臭く思えてしまう。

 

あるエッセイ

 加藤の知のスタイルが論壇的知と異なっていたことは、加藤の初期のエッセイ「車中の身分証明書」で明らかである。タイトルそれ自体がユニークである。タイトルは編集者がつけたものかもしれないが、文中の「身分証明証」ではなく「身分証明書」という用語に触発されて、使われたものだろう。「身分証明書」は、言葉の魔術師ともいうべき加藤ならではの用語である。このエッセイが書かれたのは、『京都大学新聞』の前身の『学園新聞』一九五五年十月三十一日号である。わたしは、まだ中学生、もちろん同時代で読むことはなかった。わたしがこのエッセイに出会ったのは、二〇〇二年ころだったとおもう。

 翌年刊行する『教養主義の没落変わりゆくエリート学生文化』(中公新書、二〇〇三年)のために、戦後の大学生の読書データを探していた。「学生は書物をどう読むか」のアンケート調査結果が掲載されていたことからの閲読である。そのときちょうど同じ面のコラムに加藤のエッセイが掲載されていたことによる。

 加藤が京都大学人文科学研究所助手になってから二年ほどたった二十五歳のときのエッセイである。さきにふれた加藤の名前を世に知らしめた「中間文化論」が『中央公論』に掲載され、単行本となる二年前であり、比較的初期のエッセイである。同じ面の読者調査による「あなたは継続的に読んでいる雑誌がありますか」という質問に京大生の四四・四パーセントが「ある」と答え、「ない」は五五.六パーセントである。雑誌の中では『世界』が群を抜いており、『文藝春秋』『中央公論』と続いている。回答者の半数近くが『世界』や『中央公論』などの総合雑誌を継続的に読んでいたということ自体が論壇的知の大学生への浸透ぶりがわかるというものである。おそらく加藤にはこのデータを示して寄稿が依頼されたのであろう。加藤はこう書いている。

 総合雑誌をつうじて日本のインテリが外国などのことについてよく知っているのは、慶賀すべきことだろうとまず認め、しかし、ややシニカルに言えば、日本のインテリの弱点もあらわれているとして、加藤流の診断がはじまる。

 総合雑誌は京都府の財政がどうなっているかよりも有名文化人の執筆になるフランス政府の運命や如何という地球規模の天下国家の話題が中心になる。わがくにのインテリはこの少数のインテリの天下国家論をそのまま再生産する権威主義的インテリである。『世界』を読むこともインテリのアクセサリーになっていないか。ちなみに、と加藤はいう。大学生のいく散髪屋にいってみなさい。そこでは、『世界』も『中央公論』もなく、『面白倶楽部』や漫画がおいてあるが、大学生はそれをニヤニヤしながら熱心に読んでいる。だから『世界』や『中央公論』が売れるから、車中で携帯されるからといって、それだけで、日本文化の将来を喜ぶことはできないとしている。

 いまこの加藤のエッセイを読めば、多くの人々はそうなんだ、と共感するほうが多いだろう。しかし、書かれたのはいまから半世紀も前。当時は大学キャンパスは教養主義が自明で、マルクス主義も学生文化のメインを占めていた。そんな時代をリードした『世界』をはじめとする総合雑誌に、権威主義であるとか、読むほうもアクセサリー(車中でのインテリの身分証明書)にしているといったことを、そもそもおもいつくのも大変だった。インテリ・アイデンティティーを揺るがせることになるからである。

 たとえそうおもっても活字にすることなどはばかられたであろう。そんな時代に、加藤であればこそ、ここまで言い切ることができたのである。加藤は、なにが書かれてあるかよりも、どう読まれているかに着目しているのである。物はなにを表現しているかよりも、どう使われているか。加藤の終始一貫した視点だった。

 

日本型カルチュラル・スタディーズ

 この点でわたしは、加藤を日本型カルチュラル・スタディーズの開拓者の一人とおもっている。カルチュラル・スタディーズの名称の本家は、イギリスで、スチュアート・ホール(一九三二~二○一四)などがバーミンガム大学の現代文化研究センター(Centre for Contemporary Cultural Studies)を中心に活動をはじめた一九七〇年代に由来するが、レイモンド・ウィリアムズ(一九二一~八八)の『文化と社会―――1780―1950』(若松繁信・長谷川光昭訳、ミネルヴァ書房、一九六八年)やリチャード・ホガート(一九一八~二〇一四)の『読み書き能力の効用』(香内三郎訳、晶文社、一九七四年)、E・P・トムスン(一九二四~九三)の『イングランド労働者階級の形成』(市橋秀夫.芳賀健一訳、青弓社、二〇〇三年)などにさかのぼれる。カルチュラル・スタディーズは、ニューレフトが労働者文化を掬い上げるということから生まれたものである。

 イギリス流カルチュラル・スタディーズでは、労働者文化を掬い上げ、ブルジョア文化への対抗ヘゲモニーを握ろうとする反権力という権力志向が明白であるが、加藤のカルチュラル・スタディーズには、権力性も左翼性もみられない。いってみれば労働者文化型ではなく、町人文化型カルチュラル・スタディーズである。

 加藤は「思想の科学」系であり、庶民目線という点では、イギリス流カルチュラル・スタディーズと似ているが、リベラル派といおうか、脱イデオロギーのぶん「思想の科学」系右派といってもよいから、イギリス流カルチュラル・スタディーズとはぴったりこない。

 そのせいだろう、カルチュラル・スタディーズの入門書(上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』ちくま新書、二〇〇〇年)には、日本におけるカルチュラル・スタディーズの先駆者として戸坂潤(一九〇〇~四五)や中井正一(一九〇〇~五二)、鶴見俊輔、花田清輝、小野二郎(一九二九~八二)までの名前を挙げながらも、加藤の名前は挙がっていない。逆にいえば、加藤のカルチュラル・スタディーズが借り物ではない、独自の視点だということになろう。

 加藤は、「中間文化論」の発表の翌年、「"思想"と"実感"」というエッセイを『日本読書新聞』一九五八年三月二十四日号に発表し、これまた話題を呼ぶ。思想の人間的基礎が「実感」であるからして、実感をもとにして自分の思想形成をしていくことを戦後世代の特色として期待したエッセイである。このエッセイは、日本人の実感主義に棹さした加藤流日本型カルチュラル・スタディーズのキーワード解説というべきものだった。

 加藤の自伝『わが師 わが友―――ある同時代史』(中央公論社、一九八二年)にはこんなところがあった。加藤が参加した思想の科学研究会で独学の映画評論家佐藤忠男(一九三〇生)に出会った印象を書いているくだりである。佐藤は、自分の体験から、当時のインテリ、つまり論壇的労働疎外論や悲観的大衆社会論を全面的に否定して、工場労働者にすれば(インテリが疎外の元凶とする)ベルト・コンベアのほうがどれだけ便利かしれないと言っていたことに虚をつかれる。書斎の中で「疎外」を思索するのも結構だが、佐藤さんのように油にまみれて働いている人の「実感」のほうがずっと大事だとおもった、と書いている。加藤の「実感」論文は、この佐藤との出会いをきっかけにしているのかもしれない。

 それはともかく、この「実感」に立とう論文は、理論や抽象を尊ぶ知識人を逆撫でするに十分である。物議をかもし、「実感」論争(座談会「「実感」をどう発展させるか」、『中央公論』同年七月号)にいたる。座談会では、江藤淳(一九三二~九九)や大江健三郎は加藤流実感主義が文士的特権の相対化にみえたのか、散々文句をつけている。

 

「見えないカリキュラム」

 わたしは、ここまで加藤のことを町人型公共知識人といい、研究スタイルを町人型カルチュラル・スタディーズと呼んできた。いったい加藤における町人型はいかにして育まれてきたのか。

 一橋大学(加藤の進学当時は東京商科大学)で南博(一九一四~二〇〇一)ゼミに入ったこと、師の南をつうじて思想の科学研究会会員になったことが大きかったことは確かである。また自由闊達な京大人文研助手として、東京の論壇知識人とちがった雰囲気のなかで研鑽をつみ、多くのすぐれた人に出会ったことが大きいだろう。そのことは、加藤が『わが師 わが友』をはじめ、折々にふれているところである。

 わたしがここでとくに取り上げたいのは、加藤の卒業した一橋大学という「見えないカリキュラム」の影響である。もちろん、入学試験があるから、わたしをふくめて多くの人の大学進学は自発的選択というより、拘束のなかの選択にすぎない。あるとき、加藤にどうして東京商科大学に進学したかを聞いたときに、数学の配点が低かったからだという答えをもらったことがある。加藤は中学四年修了での大学入学で、いわゆる「四修」(五年卒業以前の入学だから秀才の代名詞)だから、なにがなんでも東京商科大学への進学を考えたわけではないだろう。配点などによる選択が働いていたのである。その経緯は『わが師 わが友』にも詳しく書かれている。

 加藤にとっては、一橋大学は南博教授に出会えたことがおおきなものだったが、加藤の思考と文筆スタイルを考えるときに一橋大学の「見えないカリキュラム」が重要であると思う。加藤自身も「如水会館とわたし」の中で、東大の卒業生を中心とした筋向いの学士会館と一橋の如水会館の雰囲気がまったく「異質」だといっている(『如水会報』一九九五年四月号)。卒業大学の影響は四年間で終わるわけではない。卒業後も他者や読者は、著者を卒業学歴でみる。そのぶん自己社会化は卒業後も続く。学歴をめぐって、先取的社会化(anticipatory socialization)ならぬ遅延的社会化(legged socialization)が作動するからである。東大卒の人はいつまで立っても東大卒らしい。いや東大卒らしく振る舞う。加藤にとっても一橋大学出身というのは、本人が意識する以上に大きなものがあるのではないか。いや意識されないからこそ大きいといえる。したがって、以下は加藤秀俊の非論壇的知の背後にある一橋的なるものをみていくことにしていきたい。

 

一橋的なるもの

 一橋大学の原型は、商法講習所(一八七五年)という「紳士」風商人学校である。官吏を製造する帝国大学の武士的官学臭とは異なった官立ハイカラ町人学校だった。その後、学校名は、東京商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校、東京商科大学、東京産業大学、東京商科大学、一橋大学(一九四九年)と改称される。

 一橋はすでに一九二〇年に大学(東京商科大学)に昇格しているが、旧制高校→帝国大学の正系学歴貴族からすれば、あくまで専門学校上がりの大学である。そのかぎり本流正系学歴からそれている。しかし、一橋(高商、予科)の入学試験の難しさは学歴貴族の入り口だった旧制高等学校と遜色ないものだった。東大からくらべると一橋の卒業生数は少ないからビジネス・エリートの実数では劣ったが、輩出率(卒業生数からみたエリート輩出の割合)では東大を上まわっていた。たとえば、一九六二年における大企業重役輩出率(一九二八年の卒業者数を分母に計算)では、断トツが一橋大学で、二位東大の一・五倍。三位慶應大の二・三倍、四位京大の二・五倍である(青沼吉松『日本の経営層――その出身と性格』日経新書、一九六五年)。傍流というにはメジャーに近い学校だった。

 こうした位置つまり正統にかぎりなく近い傍流にある学校には特有の「隠れたカリキュラム」が働きやすい。ここで「隠れたカリキュラム」というのは教壇からいわれるわけでも、教科書に書かれているわけでもなく、学校の歴史や雰囲気が伝達してしまう沈黙の教育作用である。

 一橋の「隠れたカリキュラム」はさきにみた正系にかぎりなく近い傍系という学校空間の特有の位置から生成してくる。正系から遠い傍流校であれば、正系をほとんど意識しない。しかし、正系に近い傍流であればあるほど正系を意識せざるを得ない。正系に近づこうとする「引力」と目と鼻の先にある正系に激しく反撥する「斥力」の両極端の力が働きやすい。こうして一橋には正系学歴貴族文化への強い「同調」か、強い「離反」の両極端の作用が働きやすくなる。

 一橋を帝国大学以上のフンボルト流アカデミズムの大学にしようとした福田徳三(経済学者、一九七四~一九三〇)などの営為は、強い「同調」の例である。上原専禄(一八九九~一九七五)に代表される教養主義も正系学歴貴族文化だった旧制高校的教養主義への強い「同調」とみることもできる。阿部謹也(元一橋大学学長、一九三五~二〇〇六)の教養論もまたそうした一橋的教養主義の系譜に位置づけることができるが、阿部のいう「教養」は、学問や知識というよりも知恵や身振りを含んだ人々の生きかたをいうのだから、帝大・旧制高校的教養主義の影響を受けながらも、一橋的なるもの(平民的・町人的)をくぐった教養論ではある。旧制高校的教養主義とは異なったものだから、官(漢!)学的「教養」というよりも平民的「きょうよう」といったほうがよいのではないか、とわたしはおもう。

 一橋のもうひとつの「隠れたカリキュラム」は、本郷(東大)圏の正系学歴貴族文化からの「離反」である。それが石原慎太郎に代表されるものである。石原が一橋の進歩的教授を『亀裂』などの小説であんなに罵倒し、忌み嫌ったのは、ブルジョア文化をもとに、学歴エリート文化の貧乏たらしさをあばくことで、一橋の進歩的教授の正系学歴エリート文化へのすりよりが我慢できなかった……。といっては、邪推がすぎようか。

 石原のスタイルは、知の中心(論壇的知)に対するマッチョ的離反であるときに、加藤の離反はあくまで紳士(旦那衆)的離反ではある。だから石原は「反」論壇的、「反」左翼であり、加藤は「非」論壇的、「非」左翼である(図1参照)。

図1 戦後目本における「一橋的なるもの」

注:図の加藤秀俊の近傍に位置するのが、ベストセラー『なんとなく,クリスタル』の著者田中康夫(法学部卒)である。この点については竹内洋「現代思想としての一橋的なるもの」(『大衆モダニズムの夢の跡一彷復する「教養」と大学』新曜社,2001年所収)を参照されたい.。

 

知的メディアの中心に

 しかし、高度成長によって日本社会は大変貌をとげ、論壇的知そのものの底が抜ける。一九六〇年代は日本が農業社会から工業社会の最盛期に大きくうつりかわる時代だった。農林漁業人口は 一九三〇年、五〇パーセント、五五年、四一パーセントだった。ところが、六五年には、二五パーセントになる。ホワイトカラーと販売・サービス業の合計(四〇パーセント)が、農林漁業人口よりはるかに多くなる。

 論壇的知を支えた、都会と農村や知識人と大衆などの枠組みが崩壊する。朝日岩波的なるものや旧制高校・帝大的なるものは、大きく退潮した。農村社会の崩壊は山の手知識人への憧れをもたらす上昇インテリの生産構造を崩壊させた。インテリの変貌もおこり、それまでインテリといえば反体制インテリしか考えられなかったのが、ビジネス・インテリや実務インテリという言葉が擡頭し、反体制インテリは思想インテリや観念インテリといわれ、相対化される。

 こうした日本社会と知の変貌のなかで、中央公論社は、一九六二年十一月から中公新書の刊行をはじめる。この「中公新書刊行のことば」は、「真理は万人によって求められることを自ら欲し」ではじまる三木清の岩波文庫の「読書子に寄す」の向こうをはったものである。そこにはこうある。

 

……私たちは、知識として錯覚しているものによってしばしば動かされ、裏切られる。私たちは、作為によってあたえられた知識のうえに生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。

 

 これこそ、事実をみるよりも眼鏡磨き(イデオロギーや理論)が大事としたこれまでの論壇主流派とその影響下にあったインテリへの批判そのものである。

 この中公新書の刊行の言葉のこのくだりが印象に残っているのは、同年に、京都アメリカ研究夏季セミナーがあったときの逸話を参加者から聞いたからである。講師のひとりは社会学の泰斗ロバート・K・マートン(一九一〇~二〇〇三)だった。日本人参加者の質問は、機能主義理論についてなど理論的質問がほとんどだった。マートン教授は、「ところで」と、こんどは参加者のほうに質問した。「いま日本の農業人口はどのくらいで、ホワイトカラー率はどのくらいでしょうか」。参加者の日本の社会学者は、誰一人、この質問に答えられなかった。マートン教授は怪訝【けげん】な様子がありありだったという。社会学理論に興味があっても、お膝元の日本社会の基礎的データを知らない社会学者たちだったからである。論壇的知の歪みは弱小学問に、はっきりとあらわれていたのである。そういえば、加藤は、どこかで言っていた。日本の社会学は社会の学である「社会学」にあらず、欧米産の社会学(理論)の学なのだから、「社会学学」なのだと。
ところで、論壇的知を代表する一方の雄である中央公論社の新書刊行の言葉を書いたのは、誰あろう、加藤秀俊だった。加藤は知的メディアの中心に躍り出たのである。

 一九八〇年には、経済学者・村上泰亮によってエリートではないが、そうかといってエリートの下位者や追従者である大衆でもない「新中間大衆」の時代になったとされた(「新中間大衆政治の時代」、『中央公論』一九八〇年十二月号)。村上の命名した新中間大衆【ニュー・ミドル・マス】こそ、加藤がかつて着目した中間文化のひろがりと中間文化大衆の結晶化だった。この新中間大衆に「柔らかい個人主義」(自己表現としての消費)という成熟社会の兆しをみた者(山崎正和)もいる。加藤の着眼した中間文化は論壇主流知識人に継承されるにいたったのである。

 

下流大衆社会化

 しかし、そこから幾星霜。中間文化の可能性を描いた加藤でさえ、『常識人の作法』(講談社、二〇一〇年)においては、高学歴社会の大卒を「半端なエリート」の大群としてこういっている。ホンモノのエリートに対しては怨み、妬みなどのあまりいい感情をもっていないが、高卒や中卒に対してはいささかの優越感をもっているから「床屋政談」が得意で、週刊誌やテレビの解説の受け売りで意見をいう「めんどうな存在」としている。あの輝いた中間文化の担い手の息子や娘は大卒の学歴を手にすることで、いまやめんどうな「半端なエリート文化」になっているとされている。

 加藤が予測し、希望した高度大衆社会はたしかに一九八〇年代日本に結実したかにみえた。ところが、平成の御世からは、中間大衆社会どころか、下流大衆社会にむかっているのではないか……。

 わたしは、これを中間文化社会の反転としての下流大衆社会化と睨【にら】んでいる。日本社会では、そもそもが大衆と隔絶した知識人文化が脆弱なぶん、大衆の知識人の模倣と知識人への上昇が容易なように、大衆の、そして大衆インテリ(中間知識人)の知識人文化からの離脱と下降も容易である。大衆は知識人文化に対して憧れ(模倣)と憎しみ(引ぎ下げ)の両義的感情をもちやすい。知識人と大衆の切れ目のなさは「高度」大衆社会を生む契機ともなるが、「下流」大衆社会へと下降する契機にもなる。いまの日本社会におきているのは、第1章の「「国民のみなさま」とは誰か」でみた大衆御神輿ゲームと共振した後者の下降力ではないだろうか。

 ここまで書いてきてわたしはこう思うにいたった。加藤は、戦後日本の言論界において、意外にも坂口安吾(一九〇六~五五)や福田恆存に肩を並べる存在であったのではないか、と。加藤が着目し、掬い上げた「実感」は、坂口安吾の「堕落」や福田恆存の「エゴイズム」と並んで、戦後日本の言論界に風穴を開ける視点だったのだから。

[竹内洋『大衆の幻像』(中央公論新社、2014)所収]

 

竹内洋(たけうち・よう)1942年生まれ。関西大学名誉教授。京都大学名誉教授。

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近年、博士論文の書籍化の相談を頂くことが増えています。弊社のような小人数の会社では刊行できる点数が限られるのですが、若手による研究を世に出すことは学術出版社の重要な役割だと考えます。そこで、相談の窓口を設けることとしました。

博士論文の書籍化を希望される場合は、論文と略歴(メールアドレス明記)を弊社編集部宛に郵送でお送り下さい。博論ではなくとも、それに準ずる研究書の企画でも結構です。多くの場合、出版助成の活用が前提になりますが、刊行の可能性がある場合のみ、一か月以内にメールで連絡させて頂きます。お送り頂いた論文は返却できませんので、あらかじめご了承ください。頂いた情報は責任をもって処理します。(2016年11月)

送り先

〒612-8447 京都市伏見区竹田西内畑町9

人文書院編集部 企画デスク

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河西秀哉著『うたごえの戦後史』の序章を公開しました。書籍サイトからご覧下さい。

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堀田江理著『1941 決意なき開戦 現代日本の起源』が第28回アジア・太平洋賞特別賞を受賞しました。

http://mainichi.jp/articles/20161005/ddm/001/040/142000c

受賞者談話(毎日新聞2016年11月9日朝刊)

http://mainichi.jp/articles/20161109/ddm/010/040/029000c

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今まで大学図書館向けサービスでのみ展開していた『フロイト著作集 全11巻』電子版について、丸善雄松堂様の電子書籍サービス「ナレッジワーカー」で個人向け電子書籍販売を開始しました。

ナレッジワーカー
http://kw.maruzen.co.jp/ims/searchResultList.html?te-uniquekey=1576e7ea58b

現在品切れ中の巻もこちらでご購入可能です。

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2013年に社の倉庫から発見された、弊社の前身である日本心霊学会が発行していた機関紙「日本心霊」創刊号(大正4年2月7日)の高解像度画像を公開します。全4ページ。同紙は昭和14年まで発行されました。現在、大正14年12月のものまでデジタル画像を作成中です。

1面 http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/shinrei00101.jpg

2面 http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/shinrei00102.jpg

3面 http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/shinrei00103.jpg

4面 http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/shinrei00104.jpg

参考:科研基盤研究(C)「デジタルアーカイブ構築による人文書院戦前期資料の多面的文化史研究」(2015年4月1日~2018年3月31日)/代表:一柳廣孝(横浜国立大学)

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15K02241/

2016年12月17日に京都大学人文科学研究所で開催された研究会「日本心霊学会から人文書院へ」が、中外日報(12月23日)の記事になりました。

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松村由利子著『少年少女のための文学全集があったころ』のポストカードが出来ました。本書のカバーに使用した朝倉めぐみ先生の作品をあしらっています。丸善京都本店地下二階で開催中の人文書院フェア棚に置いていますので、ご自由にお持ち帰りください。

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「日本の古本屋」サイトに、福嶋聡さんが自著『書店と民主主義』についてのエッセイ「書店は面倒くさい。民主主義は面倒くさい。されど、さればこそ」を寄稿しています。

https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=2845

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松村由利子著『少年少女のための文学全集があったころ』の冒頭を公開しました。書籍サイトからご覧下さい。発売は7月27日頃からとなります。

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小山友介著『日本デジタルゲーム産業史』第1章を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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田口卓臣さんの論文「「否認」に関する断片的考察 『脱原発の哲学』の余白に」(『宇都宮大学国際学部研究論集』41号、2016年2月)が大学リポジトリで公開されています。

https://uuair.lib.utsunomiya-u.ac.jp/dspace/handle/10241/10147

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クロード・ランズマン『パタゴニアの野兎 ランズマン回想録』上・下の内容を一部無料公開しました。

下記書籍サイトからご覧ください。

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死と行為と享楽

――『仙人と妄想デートする 看護の現象学と自由の哲学』自著紹介

 

人工妊娠中絶された赤ちゃんや植物状態の患者さんとコンタクトをとることはできるのか、精神科病院の極度の拘束のなかで人間の自由を確保することはできるのか、そのような困難な問いへの応答として生み出される「行為」を本書は論じています。

本書は看護実践をフィールドワークした人類学的な書物であるとともに、哲学書としても行為・共同体・享楽という三つのテーマが論じられます。一方で数名の看護師へのインタビューとフィールドノートの分析であり、他方ではメルロ=ポンティの制度化論とラカンの欲望・享楽概念の延長線上で、(死をめぐる)行為論と共同体論を構想した哲学書でもあります。

なぜ看護実践を研究することが哲学につながるのでしょうか。簡単に言うと、死、拘束、言語を失った人とのコミュニケーションといった極限の経験は、アガンベンが明らかにしたように人間の経験がもつ可能性に光を当ててくれるからです。一例を上げてみます。助産師の野田さんは人工妊娠中絶の死産についてつぎのように語りました。

野田さん あの、亡くなってゆく赤ちゃんでもあの、生まれていただかないといけないので、お腹のなかで亡くなっている赤ちゃんでも、ほんとに出産をやっぱり経験していただくんですが、やっぱりそのとき亡くなってるからといってやっぱりその、何も言わないっていうことはないですよね。やっぱり亡くなってても、こちらの方から「がんばって出ておいで」ってそういう気持ちでやっぱり声をかけたりとか、するんですけど赤ちゃんにもちろん声をかけたりお母さんにね、「がんばって産んであげようねって」声かけたりそういうことをするんですけど。(本書204頁)

このあと野田さんは死産のなかでも最もつらかった場面を思い出し、しかしそのなかで亡くなった赤ちゃんとのコンタクトを回復しようとします。

野田さん で、あの、産湯に浸って、ふわーって浮かんで、「ちょっと泳いでみようか」ってぴゅーってしてると、ほんとに赤ちゃんが穏やかな表情で、あのお地蔵さんみたいなかわいい表情になって、そういう表情を見てると私たちが、すごくなんか「うー」ってなってる気分が少し、気持ちが楽になるんですよね。で、みんな結構そうなんですよ。(本書215頁)

生まれることができなかった赤ちゃんに、野田さんは「生まれてきたぞ、そして亡くなったぞ」(本書215-216頁)声をかけながら、その短い一生の証人になります。死産の子どものケアについてのこのテキストは、私が今までに書くことができたもっとも強度の強い文章ではないかと思います。本書では他にも訪問看護師による在宅での看取りという対照的な「死」が取り上げられます。

そして医療現場は管理社会としての現代社会の縮図ともいえます。看護師は自分たちが巻き込まれている管理の組織の只中で、しかし人間的な関係を作りなおそうとする人たちです。ゴフマンのアサイラムを待つまでもなく、精神科病院はいまだにそのような管理的な力が否応なく働く場です。受け入れ手がないため何十年も入院している患者さんに享楽の共同体を生み出すこと、監獄のような拘束が行われる救急病棟の保護室でしかし患者のかすかな自由を生み出すこと、そして病院の外で重度の精神障がい者の自由と生活をサポートすること、という三つの極端な場面で、管理社会に抗う存在としての看護師を描き出しました。妄想のなかに入り込んで「デートする」看護師は、患者が地域で楽しく暮らすことを可能にします。息が詰まる私たちの社会のなかで生き残るための何かのヒントがそこにはあるのかもしれません。享楽の確保、これはラカンが倫理として考えたものにほかなりません。

死・衰弱と管理社会という二つのモティーフと対照されることで浮かび上がってくる本書の真のテーマは、生と自由です。西村ユミさんと川口有美子さんの植物状態患者の看護そしてALS患者の介護の議論は、まさに衰弱した体のケアが極限の間主観性でありかつ性の裸出を考える手がかりをくれました。もしかすると現象学にとって「生」とは、欲望と自由な行動そしてそれを可能にする共同性そのものかもしれません。少なくとも本書で描かれるそれぞれ極めて個性的な実践は、この点を共通の方向性として指し示しているように思えます。この方向性ゆえに、本書はさまざまな事例にもかかわらず一貫した流れと構成を持っています。このような実践をつくりだす基盤となるスタイルのことを本書では「ローカルでオルタナティブなプラットフォーム」と呼びました。メルロ=ポンティが構想した制度化概念を具体的に展開することを目論んだものでもあります。

無名の人々の真剣な営みのなかに哲学を発見すること、これが本書の野心です。とはいえ哲学史を無視しているわけではありません。本書の議論は現象学のさまざまな対人関係論の系譜を踏まえています。

自然科学が支配している私たちの社会では、あたかも統計を用いて得られたエビデンスだけが真理であるかのような錯覚が支配しています。個別の人間の経験を無に等しいものとして忘れ去ろうとするエビデンスの神話に対抗するために、たった一人の小さな経験のなかに意味を探す本書のような営みもまた意味を持つのではないかと願っています。研究にご協力いただいた皆さんに感謝するとともに、多くの方に手にとっていただけたら幸いです。

村上靖彦

2016年5月11日


*著者のブログには、別のコメントが掲載されています。

http://kusaiinu.exblog.jp/25598034/

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村上靖彦著『仙人と妄想デートする 看護の現象学と自由の哲学』の序論を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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『脱原発の哲学』と『怪物的思考』の刊行を記念し、2016年4月8日(金)に八重洲ブックセンターにて開催された、佐藤嘉幸×田口卓臣対談「科学批判から脱原発の哲学へ」の音声記録を公開します。下記からお聞きください。約90分、mp3形式、約33MB。リンク先でアプリケーションを選択→許諾でストリーミングが開始します。スマートフォンやタブレットの場合はダウンロード後の再生となります。

https://drive.google.com/open?id=0BycYdwbTmEozaWlHRk5MUzNsQVk

また、当日のレジュメと、イベントに合わせて同店にて開催された著者による選書フェアのコメント付きリストも公開します(それぞれPDFファイル)。

レジュメ1(佐藤)→

レジュメ2(田口)→

選書リスト→

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山田奨治著『日本の著作権はなぜもっと厳しくなるのか』の序章を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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『曝された生 チェルノブイリ後の生物学的市民』の訳者、森本麻衣子さんが「現代ビジネス」に寄稿されています。

「チェルノブイリ事故の「その後」から、いま私たちが学ぶべきこと」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48236

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内藤正典先生の新著『欧州・トルコ思索紀行』の「あとがきにかえて」を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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佐藤嘉幸・田口卓臣著『脱原発の哲学』の序論を公開しました。書籍サイトからご覧ください。2月24日からの順次発売となります。

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カンタン・メイヤスー『有限性の後で』、刊行直後から好評頂き、発売後即重版となりました。東京堂書店ベストセラー総合ランキング(1/26調べ)で3位、アマゾン「フランス・オランダの思想」部門で1位となっております。SNSでも反響多数頂き、ありがとうございます。

http://www.tokyodo-web.co.jp/blog/?p=10157

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品切れしていました、佐藤嘉幸著『新自由主義と権力 フーコーから現在性の哲学へ』(2009年)の重版が出来ました。公開中の論文「立憲デモクラシーの危機と例外状態――デリダ、アガンベン、ベンヤミン、シュミットと「亡霊の回帰」」、『権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』、および2月下旬刊行予定の『脱原発の哲学』(田口卓臣との共著)と合わせてお読み頂ければ幸いです。

「立憲デモクラシーの危機と例外状態」

http://www.jimbunshoin.co.jp/news/n13371.html

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カンタン・メイヤスー『有限性の後で』第一章冒頭を公開しました。下記書籍サイトからご覧ください。1月23日より順次発売となります。

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2015年10月24日に『アンチヘイト・ダイアローグ』刊行記念として東京堂書店で開催された、中沢けい×中野晃一対談「ヘイトスピーチと政治の右傾化」の記録動画が公開されました。1時間24分。

http://www.bungeika.or.jp/event.htm

https://www.youtube.com/watch?v=EB8CIpiICJk

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2016年度図書目録ができました。
ご希望の方には送料無料でお届けしておりますので、お問い合わせください。

電話の場合→TEL 075-603-1344(代) お名前とお届け先をお伝えください。

メールの場合→弊社ホームページの右上にある「お問い合わせ」(検索ボタンの下)を選び、お名前とお届け先、メールアドレスを記入、要件に「図書目録希望」と書いてお送りください。

FAXの場合075-603-1814 営業部FAXまでお名前とお届け先を記入して、図書目録希望と書いてお送りください。

ハガキの場合〒612-8447京都市伏見区竹田西内畑町9 人文書院 お名前とお届け先、図書目録希望と書いてお送りください。切手代はご返却いたします。

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弊社営業部のツイッターアカウントが出来ました。よろしくお願いします。

https://twitter.com/jimbunshoin_s

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マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学 集合体、潜在性、創発』(篠原雅武訳)の序文を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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著者からのメッセージ

「立憲デモクラシーの危機と例外状態――デリダ、アガンベン、ベンヤミン、シュミットと「亡霊の回帰」」をここに公開する。本論文は、『思想』2014年12月号、特集「10年後のジャック・デリダ」に掲載されたものである。

本論文をいま公開することには理由がある。それは本論文が、安倍政権による集団的自衛権をめぐる解釈改憲と、その延長線上で日程の上る可能性のある憲法改定、とりわけ憲法への非常事態条項の付加の問題を扱っているからである。

安倍政権は2015年9月、集団的自衛権の行使を可能にする安保法を、半数以上の国民の反対を無視して成立させたが、この動きは、憲法が禁じている集団的自衛権を行使可能にすることで、憲法の平和主義の精神を骨抜きにするものであり、同時に、一内閣が憲法解釈によって実質的に憲法を変更すること(解釈改憲)で、近代的統治の最重要原則である立憲主義、あるいは法の支配の原理を無化するものである。

しかも、安倍政権は次の政治課題として、解釈改憲にとどまらず、憲法そのものの改定を狙っており、それは最初に、憲法への非常事態条項の付加として提起される可能性が高い(自民党が2016年に予定される参議院選挙で勝てば、まちがいなく憲法改定が政治日程に上がってくるだろう)。そのような条項が憲法に付加されれば、災害、戦争といった「非常事態」を名目として、表現の自由のような基本的人権が制限される可能性が極めて高い。

そもそも非常事態条項とは、戦間期ドイツのワイマール憲政下でファシズムの合法的な成立を可能にした悪名高い条項であり、そのような条項が現憲法に付加されれば、現憲法をまるごと無化できる体制が整うことになる。私たちはそのような事態が実現されかねない「立憲デモクラシーの危機」の現状に大きな危機感を持っている。本論文が、現在の政治がかかえる立憲主義の危機という大きな問題について考える一助になれば、幸いである。

佐藤嘉幸(筑波大学人文社会系准教授)

PDF→

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山田奨治著『東京ブギウギと鈴木大拙』が、第31回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞(主催:上智大学ロゲンドルフ基金運用委員会)を受賞しました。12月11日に授賞式が行われます。

過去の受賞先はこちら。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E8%B3%9E

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ブックガイドシリーズ基本の30冊『日本史学』(保立道久著)の序文を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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ブルース・フィンク『「エクリ」を読む』の序文を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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関西学院大学災害復興制度研究所・東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)・福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク(SAFLAN)編の新刊(9月1日発売)、『原発避難白書』まえがきを公開しました。

下記書籍サイトからご覧下さい。

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 戦後70年関連書籍 - 2015.06.17

戦後70年を考える手がかりとして、弊社より刊行された書籍を集めました。

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近年、弊社の書籍などの海賊版PDF販売を騙るフィッシングサイトが出現しています。弊社は書籍のPDF販売は許可しておりません。危険ですので、ご注意ください。

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檜垣立哉『日本哲学原論序説 拡散する京都学派』の第一章冒頭を公開しました。

下記書籍サイトからご覧下さい。

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リチャード・ホルブルック(米国の元外交官。ボスニア紛争において和平合意を導いたことで知られる)による序文を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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横浜国立大学の一柳廣孝先生らによる、戦前期における弊社と、その前身である日本心霊学会についての研究が科学研究費基盤研究(C)に採択されました。詳しくは以下をご覧ください。

https://kaken.nii.ac.jp/d/p/15K02241.ja.html

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ブックガイドシリーズ基本の30冊『宗教学』(大田俊寛著)の序文を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。宗教とは何かを根本的に論じた16頁に及ぶ長いものです。発売は4月20日頃の予定です。

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 『戦艦大和講義』(一ノ瀬俊也著)第一講 ガイダンスを公開しました。下記書籍サイト「内容説明」からご覧下さい。

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『東京ブギウギと鈴木大拙』(山田奨治著)の序章を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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J-P・サルトル著 鈴木道彦/海老坂武監訳 黒川学/坂井由加里/澤田直訳

『家の馬鹿息子4―ギュスターヴ・フローベール論(1821年より1857年まで)』が刊行になりました。

全5巻予定で現在4巻まで刊行しております。

bakamusuko4

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読書および書店の棚作りの参考としてお使い下さい。PDF版はこちら→

* * *

『思想としてのミュージアム――ものと空間のメディア論』関連ブックリスト

ミュージアムについて考えるための、オススメの10冊(+番外編)

選書&コメント:村田麻里子(関西大学社会学部准教授)

(※「読みもの」として楽しめるもので、日本語で比較的簡単にアクセスできるものを選んだつもりだが、中には古本やKindleでの入手になるものもある。なお、リストは、アプローチしやすいものから、専門書的なものへとおおよそ並んでいる。翻訳本は後半にまとめた。)

1.小宮正安『愉悦の蒐集――ヴンダーカマーの謎』集英社新書ヴィジュアル版、2007年

 ミュージアムの前身ヴンダーカマー(=驚異の部屋)のうち現存するものをひとつずつ訪ね歩き、所有者たちの思考と嗜好をたどる旅。カラー写真や図版多数掲載の視覚的にも楽しい新書。

2.関秀夫『博物館の誕生』岩波新書、2005年

 明治維新期の日本に博物館が誕生するまでを、創設に向けて尽力した町田久成を主人公として物語風に描き出す。史実を丹念に追いながらも、読みやすさを意識した柔らかい文体の新書。

3.金子淳『博物館の政治学』青弓社ライブラリー、2001年

 日本の博物館というメディアがもつ「政治性」に切り込んだ1冊。戦時下計画された「国史館」と「大東亜博物館」という幻の国家プロジェクトの考察を軸に、博物館そのものが国家や社会のイデオロギーを媒介する装置であることを明らかにする。手に取りやすい青弓社ライブラリーシリーズ。

4.辻秀人(編)『博物館危機の時代』雄山閣、2013年

 博物館がどんな課題に直面しているかをもっと一般の人に知ってもらいたい、という趣旨で書かれた論集。メディアでも取り上げられた問題をはじめ、博物館の抱える困難を学芸員らが解説する。業界人でないと理解しづらい部分もあるが、普段博物館が外に向けて語りたがらない問題系を積極的に語り、共有しようとする本書の姿勢は重要。

5.吉田憲司『文化の「発見」――驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで』岩波書店、1999年(新装版2014年)

 博物館人類学という分野の存在が日本で広く知られるのに大きな役割を果たした1冊。異文化、あるいは「他者の文化」をミュージアムが扱う意味と、一連の行為や投げかけられるまなざしが必然的に生み出す非対称性について、包括的かつわかりやすく概説する。この「続編」ともいえる『文化の「肖像」』(岩波書店)が2013年に出ており、より開かれたミュージアムの模索という次のステージが示される。

6. 松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、2003年(新装版2009年)

 ミュージアムの核を為す西欧近代という思想の「暴力性」と「危険性」について、コレクションの制度化をめぐる歴史的考察を通じて精緻に検証する。ミュージアムの思想がきわめて透明なシステム、あるいは制度として全世界を一元化しうるものであることを読者に強調する、執念と迫力の1冊。

7.キャロル・ダンカン(著)川口幸也(訳)『美術館という幻想――儀礼と権力』水声社、2011年

 美術館という空間の権力作用を「儀礼」という概念から繙く。80年代以降、美術史という分野が、美術品やコレクションのみならず、それを収める箱そのものについて考える視点を獲得しはじめる。本書は一連の系譜に属する本の中でもっとも読まれているもののひとつであり、重要な邦訳本。原著は1995年。

8.ジェイムズ・クリフォード(著)太田好信ほか(訳)『文化の窮状――二十世紀の民族誌、文学、芸術』人文書院、2003年

 ミュージアムの設立と蒐集とは切っても切れない民族誌という近代的実践のポリティクスをあざやかに描き出す、批判的人類学・博物館人類学の金字塔。そのあまりの迫力と影響力の大きさから、クリフォードの議論には常に関係者の反論や批判が絶えない。原著は1988年。

9.スーザン・クレイン(編)伊藤博明(監訳)『ミュージアムと記憶――知識の集積/展示の構造学』ありな書房、2009年

 国家やコミュニティ、あるいは個人の記憶装置として、ミュージアムがいかに機能しているのかを検証する。記憶のメカニズムとミュージアムの関係は、最近話題の「負の遺産」や、アーカイブの問題を考える際にも避けて通れない。論文集ゆえの一貫性の弱さは否めないが、邦訳された類書が未だ存在しない中での貴重な1冊。原著は2000年。

10.ピエール・ブルデュー(著)山下雅之(訳)『美術愛好――ヨーロッパの美術館と観衆』木鐸社、1994年

 大規模な調査を元に、美術館に足を運ぶ人と運ばない人、楽しめる人と楽しめない人を文化資本の有無という観点から分析するブルデューの理論は、その後も来館者について論じる際に度々言及されてきた。文化的多様性が重視される現在、ミュージアムは彼の枠組みを更新できるのか。原作は1966年なので入手は難しいかもしれないが、重要な「古典」として最後に挙げておきたい。

――――――――――

番外編「マンガでミュージアム!」
ミュージアムを扱うマンガをふたつ紹介する。

・カレー沢薫『ニァイズ 東京都写真美術館ニュース別冊~『クレムリン』出張版』講談社、2014年

 東京都写真美術館の広報誌に連載された異色のミュージアムマンガ。画期的な試み。

・黒田いずま『美術館のなかのひとたち(1)』竹書房、2014年

 ミュージアム内での仕事やそこで働く人の考え方をおもしろく切り取った4コママンガ集。親近感が湧く。

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2015年1月10日、東京大学大学院情報学環にて催された研究会「メディア理論の最前線」で、北野が提示した資料の一部を、参加者や参加できなかった人から共有したいという要望があったので、一部修正のうえ、ここに公開します。なお、この資料は、2014年9月11日新潟大学「メディア公共圏研究会」、同年10月11日「DMN(デジタルメディア時代の政治的公共性とナショナリズム)研究会」での合評会、および同年12月8日名古屋大学「アジアの中の日本文化研究センター」、同年12月13日多摩美術大学「21世紀文化論」での講演などの場で提示された資料にも関連するものです。(北野圭介・立命館大学映像学部教授)

クリックすると拡大されます。

北野ゼミ https://ja-jp.facebook.com/ritseizo.kitano

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村田麻里子著『思想としてのミュージアム』の序文を公開しました。

下記書籍サイトからご覧ください。

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大野光明著『沖縄闘争の時代1960/70』、小林芳樹編訳『ラカン 患者との対話』の序章(PDF)を公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。10月10日頃からの発売となります。

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公益財団法人高知市文化振興事業団発行「文化高知」(179号・2014年5月)に、第24回高知学術出版賞を受賞した『「坂本龍馬」の誕生』への、高知大学名誉教授・中内光昭先生による選評が掲載されました。

http://www.kfca.jp/

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新刊、北野圭介『制御と社会 欲望と権力のテクノロジー』の序章を公開しました。

下記書籍サイトからご覧いただけます。

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知野文哉著『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』が、第24回高知出版学術賞(公益財団法人高知市文化振興事業団主催)を受賞し、3月26日に高知市内にて授賞式が行われました。

公益財団法人高知市文化振興事業団 http://www.kfca.jp/

高知新聞 http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=317739&nwIW=1&nwVt=knd

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『「朦朧」の時代 大観、春草らと近代日本画の成立』の著者、佐藤志乃さんが文化庁平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞されました。

http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/geijutsusensho_140313.pdf

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武田宙也『フーコーの美学 生と芸術のあいだで』の序論をPDFで公開しました。下記書籍サイトからご覧下さい。

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2014年は、第一次世界大戦開戦から100年にあたる年です。

弊社から京都大学人文科学研究所の研究成果による「レクチャー 第一次世界大戦を考える」シリーズを刊行しています。 

※各書影はクリックすると拡大します。


「レクチャー 第一次世界大戦を考える」の刊行にあたって

 京都大学人文科学研究所の共同研究班「第一次世界大戦の総合的研究に向けて」は、2007年4月にスタートした。以降、開戦100周年にあたる2014年に最終的な成果を世に問うことを目標として、毎年20回前後のペースで研究会を積み重ねてきた(2010年4月には共同研究班の名称を「第一次世界大戦の総合的研究」へと改めた)。本シリーズは、広く一般の読者に対し、第一次世界大戦をめぐって問題化されるさまざまなテーマを平易に概説することを趣旨とするが、同時に、これまでの研究活動の中間的な成果報告としての性格を併せもつ。

 本シリーズの執筆者はいずれも共同研究班の班員であり、また、その多くは京都大学の全学共通科目「第一次世界大戦と現代社会」が開講された際の講師である。「レクチャー」ということばを冠するのは、こうした経緯による。本シリーズが広く授業や演習に活用されることを、執筆者一同は期待している。

 第一次世界大戦こそ私たちが生活している「現代世界」の基本的な枠組みをつくりだした出来事だったのではないか――――共同研究班において最も中心的な検討の対象となってきた仮説はこれである。本シリーズの各巻はいずれも、この仮説の当否を問うための材料を各々の切り口から提示するものである。

周知の通り、日本における第一次世界大戦研究の蓄積は乏しく、その世界史的なインパクトが充分に認識されているとはいいがたい。「第一次世界大戦を考える」ことを促すうえで有効な一助となることを願いつつ、ささやかな成果とはいえ、本シリーズを送り出したい。

 


小関隆『徴兵制と良心的兵役拒否―イギリスの第一次世界大戦経験

兵役拒否者は、独善的な臆病者なのか?

未曾有の総力戦を背景に、史上初の徴兵制実施に踏み切ったイギリス。
その導入と運用の経緯をたどりながら、良心的兵役拒否者たちの葛藤を描き出す。


岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?―音楽史における第一次世界大戦の前後』

芸術表現につきつけられたアポリア

落日しつつある西洋社会の閉塞感のなかに胚胎し、続く大戦経験がもたらした表現とは? 
前衛芸術、録音メディアの登場、ジャズの熱狂、音楽の国有化――音楽史の切断面への試論。


藤原辰史『カブラの冬―第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』

ナチスを生んだ飢餓の記憶

第一次世界大戦期ドイツ。イギリスの経済封鎖は、女性と子どもを中心とする76万人の餓死者を生んだ。そして、二度と飢えたくないという民衆の記憶は、やがてナチスの社会政策や農業政策にも巧みに取り込まれていく。食糧戦争としての大戦を描く。


山室信一『複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦』

遠き戦火、認識の空白をいま解き明かす

青島で太平洋で地中海で戦い、さらには氷雪のシベリア、樺太へ。
中国問題を軸として展開する熾烈なる三つの外交戦。
これら五つの複合戦争の実相とそこに萌した次なる戦争の意義を問う!


河本真理『葛藤する形態―第一次世界大戦と美術』

〈現代〉戦争はどのように表象されるのか?

モダニズム、世界の浄化を求め戦争を讃美した未来派、過酷な戦場体験から、ダダ、秩序への回帰、抽象美術の誕生へ。断片化と綜合の間を揺れ動く、葛藤する美術の動向から、第一次世界大戦前後を含めて、戦争が美術に対して持ち得た意味を探る。


久保昭博『表象の傷―第一次世界大戦からみるフランス文学史』

「戦争文化」は文学に何をもたらしたのか?

ベル・エポックから狂乱の時代へ。豊穣な文学の開花とそれを突然断ち切った大戦。大戦前後に起こった芸術上の転回とはいかなるものだったのか?戦時中の文学状況を「戦争文化」という概念を手がかりに考察する。


早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ―東南アジア史のなかの第一世界大戦』

東南アジアから見た大戦の世界性

ヨーロッパ列強が壊滅的な戦争をはじめたとき、東南アジアは、具体的にそれにどうかかわり変容を迫られたのか。
大戦前後の周辺諸国・地域、世界とのかかわりに注目しながら、国民国家形成への道程を描き、今日さらに未来を展望する。

大津留厚『捕虜が働くとき―第一世界大戦・総力戦の狭間で』

敵国のために働くとは?

膠着した戦いは、多くの捕虜を生み出し、戦争を続けるには、彼らの労働力もカウントされねばならなかった。捕虜たちは、何を感じ、何を食べ、どう働いたのか?それぞれの体験を通してみえてくるものを考える。


林田敏子『戦う女、戦えない女―第一世界大戦期のジェンダーとセクシュアリティ』

愛国熱と制服フィーバーの時代

総力戦は同時に女性の社会進出もおしひろげた。戦えない性である女性は、愛国心をどう示したのか。カーキ・フィーバー、社会進出の象徴でもある制服への熱狂。大戦は女性をどう変えたのか、戦いのなかの女性を描き出す。


中野耕太郎『戦争のるつぼ―第一世界大戦とアメリカニズム』

理念の戦争の劫火が鋳出した「アメリカ」とは何か?

「民主主義の戦争」はアメリカと世界をどう変えたのか。戦時下における、人種・エスニック問題の変容ほか戦争と国民形成にまつわる問題群を明らかにし、現在に続くアメリカの「正義の戦争」の論理と実像に迫る。


野村真理『隣人が敵国人になる日―第一世界大戦と東中欧の諸民族』

忘れられた東部戦線

言語や宗教の異なる諸民族が複雑に入り組む東中欧。いまだ国民国家を想像できない民衆の戦争経験とは。さらなる大戦後の帝国崩壊は、民族に何をもたらしたか。東中欧の「未完の戦争」の行方を追う。

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『シベリア抑留者たちの戦後―冷戦下の世論と運動 1945‐56年』の「はじめに」を公開しました。

Siberia.pdf←クリックで「はじめに」が読めます(pdf、332KB)

 

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『いくつもの声 ガヤトリ・C・スピヴァク日本講演集』の篠原雅武さんによる解説を公開しました。

下記書籍サイトからご覧下さい。

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中村隆之『カリブ‐世界論』のプロローグをPDFで公開しました。

下記の書籍サイトからどうぞ。

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山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学 超越論的経験論の生成と構造』の「はじめに」を公開しました。

リンク先の★マークからどうぞ。

http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b110260.html

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『イメージの進行形』の刊行を記念し、4月3日に神保町の東京堂書店で開催された、渡邉大輔さんと佐々木敦さんの対談「〝映像圏〟から〝批評時空間〟へ テン年代の映画批評に向けて」の記録(全3回)がe-honサイトにて公開されました。主催の図書新聞さんをはじめ、ご協力頂いた皆様に感謝いたします。

第1回

http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_2013_syohyou_0403_1-1.html

第2回

http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_2013_syohyou_0403_2-1.html

第3回

http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_2013_syohyou_0403_3-1.html

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難波功士『社会学ウシジマくん』の序文と序章を公開しました。

2月21日頃から店頭に並びます。

↓下記の書籍案内ページの★マークからどうぞ。

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知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』の序文と第1章冒頭をPDFで公開しました。

↓下記の書籍案内ページの★マークからどうぞ。

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新刊『イメージの進行形』(渡邉大輔著)の「はじめに」(PDFファイル)を公開しました。下記書籍ページの「内容説明」中の★印からご覧下さい。

http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b103747.html

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新刊、澤田哲生『メルロ=ポンティと病理の現象学』の序論をPDFにて公開しました。下記ページの★マークからどうぞ。書店には9月25日頃から並びます。

http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b102624.html

ウラゲツ☆ブログでも詳しく紹介されました。ぜひご覧ください。

http://urag.exblog.jp/16221973/

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新刊『核エネルギー言説の戦後史1945-1960 「被爆の記憶」と「原子力の夢」』(山本昭宏著)の序章(PDF)を公開しました。下記書籍サイトの★印からご覧下さい。

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4月中旬配本となる、ジャック・ドンズロ『都市が壊れるとき』の「まえがき」を公開しました。

http://www.jimbunshoin.co.jp/files/Donzelot%20introduction.pdf

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『フリーダム・ドリームス』の序文・序章をPDFで公開しています。

http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b93710.html

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10月14日発売の新刊、梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』の第1章をPDFにて公開します。

どうぞご覧ください。

http://www.jimbunshoin.co.jp/files/China1.pdf

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伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか――グローバルな正義とコスモポリタニズム』が、このたび日本公共政策学会学会賞(著作賞)を受賞しました。

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京都大学人文科学研究所「第一次世界大戦の総合的研究」班主催により、京都大学人文科学研究所にて弊社刊行「レクチャー第一次世界大戦を考える」(第一期全6巻)の連続合評会が開かれます。

4月23日(土)『カブラの冬』 藤原辰史×服部伸

5月30日(月)『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』 岡田暁生×片山杜秀

6月11日(土)『複合戦争と総力戦の断層』 山室信一×小島亮×小野寺史郎

9月24日(土)『葛藤する形態』 河本真理×高階絵里加

10月8日(土)『表象の傷』 久保昭博×塚原史

11月12日(土)『徴兵制と良心的兵役拒否』 小関隆×草光俊雄×後藤春美

詳しくは京都大学人文科学研究所のホームページにてご確認ください。

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/

 

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