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福嶋聡「本屋とコンピュータ」第220回掲載
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*57回までのコラムは当社刊『希望の書店論』に、2014年~2016年にかけての主なコラムは『書店と民主主義』に収録しています。

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)、難波店(店長)を経て、2022年4月より丸善ジュンク堂書店渉外顧問イベント担当 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店勤務。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)

 


○第221回(2022/5)再出発

最後の日

 2022年3月6日(日)。

 いつものように、朝の8時頃ジュンク堂書店難波店に着き、いつものように店のPCを立ち上げてメールチェックをして、いつものように店に置いてあるクロムブックを手にして隣のOCAT地下にあるイタリアントマトに向かった。コーヒーを飲みながら本を読んだり、本のノートを取ったり、原稿を書いたりする、早番で出勤する日に、長く続いている習慣である。

 その習慣が始まったのは、2000年に池袋本店勤務となって間もなくのことだった。池袋まで埼京線で15分くらいで行ける戸田市に居を定めたぼくは、ほどなく、埼京線の朝電車が殺人的に混むということ(口さがない関西の出版社営業マンは、ぼくが間違いなく痴漢と間違えられると「予言」した)と、そのためもあって、電車が遅延しがちであることを知った。出勤時間に合わせて電車に乗れば、遅刻となる可能性が強い。中途半端に早めの電車に乗っても安全ではなさそうだし、その混み具合では電車の中で本を読むこともままならないだろう。いっそ、1時間くらい余裕をもたせれば、混み具合も少しはマシだろうし、定刻に着けば、安いコーヒーを飲みながら、ゆっくり本を読める。大阪に異動したあともその習慣は続き、早や20年を超えた。
その日も、イタリアントマトOCAT店でクロムブックに読書ノートを書き付けたあと、定時に間に合うように再び店に向かった。地下から荷物用エレベータで3階へ。出勤するスタッフ2名と一緒になった。エレベータを降り、まだ薄暗い店内を通って事務所に向かった。難波店の背の高い書棚と書棚の間に、数名の人影があることに気付いた。その日は日曜日だったので、朝の入荷も無い。まだ照明もついていない店内で急いでしなくてはならない仕事も無いはずだ。実際、人影は仕事をしている風にも見えず、ただ時が来るのを待っている様子だった。

 休憩室に荷物を置き、事務所でタイムレコーダーに出勤を入力したころには、その謎は解けていた。休憩室にも、事務所にも、その朝出勤する予定ではないスタッフが、何人もいたからだ。

 ぼくは、いつものようにキャビネットから釣り銭準備金の袋と図書カード、クオカードのケースを取り出し、台車に積んでレジカウンターに向かった。

 釣り銭準備金とともにレジカウンターについて程なく、朝礼の時間になった。通常よりかなり多くの人たちがレジカウンターに集まってきた。半分くらいは、就業時につけるエプロンをしておらず、白シャツに黒ズボンというドレスコードにも適っていない。その日が遅番、または公休日のスタッフも来ていたのだ。更に、新しい店長や、まだ異動日が先である新任スタッフも……。その日、3月6日(日)は、ぼくが開店準備から12年半務めたジュンク堂書店難波店店長としての、最後の日だったのである。

店長から立場を変えて

 2月上旬のある日、難波店を管轄するエリアマネージャーが来店し、「こんな時に何ですが」と言いながら、3月1日付辞令でぼくのMARUZEN&ジュンク堂書店梅田店への異動が予定されていることを告げた。その時点ではまだ社長決済は降りていないらしく、社内でも㊙扱いとのこと、他に二名の難波店の社員の異動も同様であった。2月半ばで決済が降りたら社内での告知はOKとのことだったが、社長決済が降りたのが2月20日過ぎ、それまで、難波店のスタッフにも隠しておかなければならないのが、何より辛かった。しかも、社長決済が遅くなり、結局20日過ぎまで誰にも話せなかったのである。

 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店では、店長に着任するわけではなかった。どうやら、長年培ってきた人脈を駆使して、関西発のトークイベントを活性化せよというのが、未だ直接指示を受けたこともない東京の本部の意向とのこと。MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店への異動は、オンライン配信のための機材がそちらに設置され、実際にオンライン・トークの配信も始めていたからである。

 そうした仕事を与えられたのは、願ってもないことだ。トークイベントは、難波店時代、ぼくが最も力を注いだ仕事である。遡れば、2000年〜2007年の池袋本店時代も、そうだった。そこで著者と出会えること、熱心な読者と出会えること、著者の熱意を感じられること、読者の熱意を感じられることが、書店員としての何よりの喜びだった。

 とはいえ、長く続けてきた難波店の店頭での、半ばゲリラ的なトークにも未練がある。立地と「小屋」のあり方で、それぞれに相応しいイベントがある筈だ。ありがたいことに、MJ梅田店の店長からは、「自由に動いてもらって、いいですよ」と言われた。既に難波店での開催が決まっていた、難波での日本初の映画上映についてのトーク(3月20日)、同人誌『アレ』をきっかけとした藤原辰史さんとのトーク(4月8日)に登壇し、4月30日には井上理津子さんとのトーク、5月にも登壇が決まっている。もちろんMJ梅田店でも、4月10日に奈良で私設図書館を開いている青木真兵さん著『手づくりのアジールーー「土着の知」が生まれるところ』(晶文社、2021年)のトークを開催、4月15日には、横田増生さんと『「トランプ信者」潜入1年――私の目の前で民主主義が死んだ』(小学館、2022年)刊行記念トークを行った。前日14日には、横田さんと三宮店で登壇した。

 あくまで現住所はMJ梅田店で、まずはそこでのトークイベント、そしてMJ梅田店発のオンライン・トークが中心になるだろうが、店長職を外してくれた会社の期待(?)に応えて、これからも、そのイベントに相応しい「小屋」に、出没していこうと思っている。


これから

「おはようございます。3月6日、日曜日の朝礼をはじめます」

 すぐに「最後の挨拶」を促された。

 皆が集まってくれることも知らなかったのだから、挨拶の準備などしていなかった。しかし、去るに当たって難波店のスタッフに言いたいのはただ一つ、「ありがとう」という言葉だった。

「難波店での12年半、ぼくはとても楽しかった。トークイベントなど、好きなことをやらせてもらいました。それが出来たのは、みなさんのお陰です。本当に、ありがとう。皆さんもこれから、したいことをして、楽しく働いてください。店員が楽しくなければ、その店に来るお客様が楽しくなるわけがない。本を売るという仕事を、是非楽しんでください」

 大きな花束を渡された。

 レジカウンターの横で、集合写真を撮った。

 そして、いつものようにレジを立ち上げ、釣り銭を入れて、開店に備えた。

 早番の日、ぼくはたいてい朝一番のレジに入る。各担当者にはできるだけ早く新刊や補充品を棚に入れてほしかったのと、何よりぼくが、レジカウンターに入ることがとても好きだからである。出版社からの長旅を終え、場合によっては店頭で長い間待機していた本たちが、お客様に買われている瞬間を見るのが、何よりも好きだからだ。今どんな本が注目されているのかは、無味乾燥な売上データ表を見るよりも、レジカウンターで実際に本が売れていくさまを目の当たりにした方が、実感できるし記憶にも残る。そして、店を訪れ、利用してくださるお客様がどのような方なのか、何に興味をもっておられるのかをプロファイリングする密かな楽しみも、レジカウンターにいてこそなのである。

画像1

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第220回(2022/1)在りし日の京都、書店での生(なま)の経験

 

演劇の本質

 前回紹介した『表象15:配信の政治――ライヴとライフのメディア』(月曜社、2021年)所収の座談「オンライン演劇は可能か 実戦と理論から考えてみる」の総括にあたって、司会役の横山義志は、アンリ・グイエの『演劇の本質』からの引用を行っている。

“直接的に与えられるという現前のあり方はまた賜物でもある。彼がそこにいるからこそ、私はこの男について、いかなる文書も、いかなる記述もまたいかなる写真も教えてくれることのできないことを、知っている。距離を取っての認識のほうがより完全、より正確であることがしばしばある。(…)しかし、退いてみることは知識の役に立つのであって、(…)現前からは一片の知識さえ出てこない。それはむしろ(…)一種の共犯関係をつくりあげるものである。この男は私の世界の中におり、私は彼の世界の中にいる。(…)われわれは同じ世界の中にいる。(…)われわれは差し当たり今、同じ船に乗り合わせており、お互いに慎重に振る舞わなくてはならない。また、この親密さが、反省より正しいものではないにしても、より生き生きとした、より鋭い明敏さを培う。この明敏さがあれば、言葉を言い切ることもなく、言葉を口にすることがなくてさえも心を通じ、目の中に意を組み、口の嘘を、目に見えないほどの手の震えで正すことができるわけである”。(『演劇の本質』TBSブリタニカ P31-2 、『表象15』P47で引用)

 グイエの引用に続けて、横山は次のように言っている。

“この「正しい」わけではなくても「明敏な」経験、というものが、今失われてしまっているということを思い出しておきたいと思います。これをグイエは「現前の恵み」と言っているのですが、それをどこまでオンラインで共有できるようになるかがたのしみですね”。(『表象15』P47)

 『演劇の本質』というタイトルは、ぼくを40数年前の京都に、タイムスリップさせた。その頃ぼくは、祖父が住職を務める東福寺の塔頭の一つ、願成寺というお寺に住み、京都大学に通っていた。家賃がいらないというぼくの側のメリットと、前の年の初めに祖母が亡くなり、一人暮らしだった祖父の寂寥を慰める者が必要であろうという父や親族一同の思いが一致したためであった。(※1)

 その頃はまだ市電が走っていて、ぼくは市街地を一周する路面電車に、東大路の南端の東福寺のバス停から北端に近い東一条まで乗って通学していた。一応朝晩の祖父の食事を用意していたので(と言っても、もちろん大した料理はできず、市場でコロッケを買ってきたり、仕出し屋の焼き魚をおかずにする毎日だったが)、東大路をまっすぐに往復する毎日で、繁華街であり書店街でもあった四条河原町界隈に出向くことも余りなく、必要な本は生協書籍部や京大近くのナカニシヤ書店で買っていた。

 それでも、時たま河原町に出て「書店街」を訪れることのできる日もあり、丸善や駸々堂書店などを見て回ったが、中でも店内の佇まいと品揃えがとても気に入り訪れる回数が徐々に増えていったのが、四条河原町上ルの京都書院であった。そしてある日、京都書院の演劇書の棚で遭遇したのが、『演劇の本質』だったのだ。


本との邂逅

 中学高校と演劇部に所属し、高校時代の放課後には「劇団神戸」という地元劇団にも参加していたぼくの目を、その本は射た。専攻していた哲学の本や、中高時代の生活の中心だった演劇の本を大事にしていることが肌で感じられたのが、とりわけ京都書院に足が向いた理由かもしれない(※2)。

 装幀も適度な豪華さで、欲しいと思った。だが、家賃が不要とはいえ、祖父との共同生活の中でアルバイトに時間を割くこともままならなかったぼくには、欲しいと思った本をすぐに買う経済的余裕はなかった。

 その本を買おうと決心して京都書院に向かうまで、何度通ったかは覚えていない。それは、ひょっとしたら2度めの訪店だったかもしれないし、何度か『演劇の本質』の前に立ったあとだったかもしれない。だが、豈はからんや、意を決して棚にの前に立ったとき、『演劇の本質』は並んでいなかった。ぼくは愕然とした。が、考えてみればあり得ることだった。その本は棚に一冊しか挿されていなかったのだから、誰かが買えば売り切れる。書店は、ぼくのためにだけあるのではない。演劇関係の本がこれだけ揃っているのだから、演劇関係者、演劇に興味を持つ人が多く通ってる店に違いない(京都書院は、階段に沿ってお芝居のチラシを多数置き、前売り券の販売をしていた。ぼくも、後に下鴨神社で行われた状況劇場赤テント公演のチケットを買っている)。ぼくがこれだけ欲しいと思ったのだから、同じように欲しいと思った人がいてもおかしくない。ぼくは、肩を落として、帰路についた。

 再び京都書院を訪れたのは、一週間後だったか、二週間後だったか。演劇コーナーに行くと、あった!『演劇の本質』が前に見たのと同じ場所に挿されていた。その一冊は、確かに光っていた。なぜか「信じられない!」と感じた。時間が逆流したのかと錯覚した。天の恵みとさえ、思った。もちろんぼくは、掠め去るようにその本を手にし、レジに向かった。

 今となっては、不思議でも何でもない。普通ぼくらは、棚差しの本が売れたら、補充注文を出す。自動発注システムができた後は、コンピュータがそれを代行してくれている。再び入荷した本は、前と同じところに挿す。書店員になってから、その作業を行いながら、時々その日の京都書院での出来事を思い出しては苦笑した。


小さな劇場としての書店

 その、大学時代の京都書院でのエピソードは、のちに、池袋本店勤務となり東京に移ったあと王様書房の柴崎社長に伺った次のエピソードと、微妙に重なる。

 ある時期、お使い帰りか塾の帰りか、一人の男の子が毎日のように店にやってきていた。その男の子は、他の本には見向きもせず、ある図鑑を手に取り、時間を惜しむように、その図鑑を眺めていた。ある日、珍しく母親来店し、母親に何か一冊買ってあげるから選ぶように言われた彼は、迷うことなくいつも見ていた本を書棚から抜き出した。そして、母親から「もっと他の、例えばこの本は?」と提案されても決して譲らず、その図鑑を買ってもらった。

 人と本との出会いは、時に極めてドラマティックである。そして書店は、そうしたドラマが生まれ、演じられる劇場なのだ。

 

 『演劇の本質』は、期待通りの本だった。演劇のさまざまな要素を挙げ、何が演劇を演劇たらしめる本質かを問うていく。実は薄っすらとした記憶なのだが、その結論は、登場人物の「行動」であったかと思う。(※3)その後ぼくは「劇団神戸」での演劇活動に本格的に参加していくのだが、『演劇の本質』がそのことにどれほど影響したのか、今は定かではない。

 前回のコラムを書いたあと、『表象』の発売元である月曜社の小林浩さんに、久しぶりにメールし、『表象』の座談会をコラムで使わせてもらったことを伝えた。すぐに返信があり、そこには、小林さんが、『表象』の特集とは無関係、今『演劇の本質』を枕元に置き、おりおりにひもといていると書かれてあった。そして、そのたびにぼくのことを思い出していた、と。

 それが何故なのか、是非訊いてみたい。

 

※1「親族一同」という大げさな表現には、理由があるが、それを語り出すと長くなるし、このコラムとは直接関係ないので略す。

※2 大学入学後、ぼくは当時既に盛んであった大学を拠点とした劇団に入ることなく、馬術部に入部した。それにはいくつかの理由と思惑があり、その思惑はある成果を得るのだが、それはまた別の話。

※3 その後ぼくは「劇団神戸」での演劇活動に本格的に参加していくのだが、『演劇の本質』がそのことにどれほど影響したのか、今は定かではない。

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noteにて、篠原雅武さんの特別寄稿「ティモシー・モートンの「ハイパーオブジェクト」に関する覚書」を公開しました。

https://note.com/jimbunshoin/n/n298f9eec68f1

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福嶋聡「本屋とコンピュータ」第219回掲載
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○第219回(2021/11)コロナ禍での「生(なま)」の経験とは?――本屋でのオンライントークと演劇

 

コロナと本屋でのトークイベント

 9月30日に、緊急事態宣言が解除された。コロナ禍終息への第一歩と寿ぎたい気持ちが今は強いが、第6波の予感もあり、今年はじめの感染爆発の契機ともなった「年末年始」へと向かう中で、楽観は許されないだろう。 もしも幸いにしてコロナ感染が落ち着いていったとしても、「アフター・コロナ」の世界は、「ビフォー・コロナ」とは大いに様相を変えるだろうという声は多い。「リモート・ワーク」の増加、定着もその一つである。デジタル回線の普及とIT機器の進化が相俟って、そしてそれらを更に伸長したい政府や関連企業の思惑もその背景にあったのだろう。多くの自宅が職場化した。そのことの是非、社員の家庭が職場化することによる労働者、管理職、経営陣それぞれにとっての是非は、とりあえず置こう。われわれ書店員をはじめ、来店客の応接が職務の大半を占める小売業の店売部門には、さしあたりその趨勢は当てはまっていない。だが、他と同様の変化が起こった部門は書店にもある。著者等によるトークイベントが、その一つである。

  2020年も2021年も、ジュンク堂書店難波店では緊急事態宣言の狭間に、数度に渡ってトークイベントを開催してきたが、宣言が度重なり、期間も長くまた延長も繰り返される中、さすがに企画することも難しくなってきた。ぼくが副店長を務めていたゼロ年代、最も過密な時期には2日に1回くらいの頻度でトークイベントを開催していた池袋本店では、昨年からオンライントークに切り替えている。ぼくもその仕組みに便乗させてもらい、齋藤幸平×生田武志、そして小笠原博毅×福嶋聡のオンライントークを実施した。

 オンライントークには、オンライントークのメリットがある。登壇者及び観客を、書店店頭などの会場に集める必要がない。語る側も聞く側も、「在宅」で参加できる。登壇者を呼び寄せる経費も、観客が会場まで行くための交通費も節約できる。お金だけでなく時間も節約できるから、参加者の枠を広げられることも確かだろう(会場のキャパシティを考える必要もない)。アーカイヴされれば、後日に見たり見直したりすることもできる。何より、感染対策が万全となる。

 

オンライン演劇は可能か?

 だが、何事も「いい事尽くし」というわけにはいかない。オンライントークには、リアルのトークイベントから漏れ落ちてしまうデメリットもある筈だ。そのデメリットを考えるために、ぼくは以前から気になっていたある座談会の記事を読んでみた。『表象15:配信の政治――ライヴとライフのメディア』(月曜社、2021年)に掲載された、「オンライン演劇は可能か 実戦と理論から考えてみる」である。演劇もまたリアルが基本で、コロナ禍によって、上演したものをネット配信で観客に届けるという方法を取らざるをえなかったイベントだからである。

  最初に、司会役の横山義志(SPAC-静岡県舞台芸術センター、東京芸術祭、学習院大学、西洋の演劇史)が、「今、オンラインで行われている演劇作品の意義とは何だろう、それから、では逆にこれまで時間と場所を共有することによって生まれていた意義は何だったんだろう」(P23)と、座談会のテーマを表明、自ら次のように敷衍する。

「今のいわゆるオンライン演劇というものは、その系譜*上で見れば「シアター」にはなりうる。「ホームシアター」も「シアター」とは言えるわけですね。ただその部分は、実は今は映画なりテレビなりに代替されている」(P24)

  *観客を舞台上から排除する第四の壁をつくり、絵画をモデルとして舞台をタブローにしていってそこに没入させるという演出。

「(第二次世界大戦?60年代)、商業的には映画やテレビの方が効率がよくなっていき、その分、「生(なま)」の舞台をやるには別の理由が必要になっていく。だから、ここ一世紀ほどの演劇作品は往々にして「目の前に生身のひとがいるということが大事なんだ」という価値観を前提にしてつくられているわけなので、そのままオンライン配信したらつまらないのは当たり前で、じゃあどうするのか、というのが今後の課題なのではないか」(P25)

 この問いに、演劇ジャーナリストを経て現在はベルギーのアントワープ大学で演劇、パフォーマンス学の専任講師を務める岩城京子が簡潔に答える。

「結論からいうと、スクリーンの向こうにいる観客との関係論を考えないで、視覚情報だけの配信芸術になってしまった時点で、演劇という芸術は、多分、敗北するのではないか」(P27)

  両者とも、映画やテレビドラマと同じやり方で演劇を配信しても勝ち目はない、と言っている。横山が「演劇作品は、目の前に生身のひとがいるということが大事なんだ」という価値観が前提」というのも、岩城が「スクリーンの向こうにいる観客との関係論を考えるべき」と言っているのも、同じ演劇の本質を語っていると思う。

  ベケットの研究・翻訳から、現場・実践に移った長島確も、「当たり前ですが、そもそも演劇は映画的なフレーミングやつなぎで成立していないわけです。劇場で、演劇の演出家や俳優たちが劇場空間というメディアに最適化して作っているものを、全然別のメディアであるカメラを通した中継にするのなら、それに合わせて別の演出をしないと、演劇としても映像としてもクオリティが下がるようにしか見えないでしょう」(P35)と、劇場空間というメディアとカメラというメディアが全く別物であることを指摘している

 

なにがオンラインを「生」にするのか

  カメラを媒介にした段階で、「生」ではなくなる。配信という作業が加わると、同時性も担保できなくなる。リアルタイムで見ても、アーカイヴで録画を見ても、見聞きするコンテンツは、ほぼ或いは全く同一だからである。そうなると演劇は、「生」であるという最大のアドバンテージを発揮できなくなるのだ。オンライン配信で、そのアドバンテージを取り戻す方法はあるのだろうか?

  そのためのヒントとして、岩城がコロナ禍中のある経験を提出している。岡田利規の、画面上の向う側にある机の上で能を上演するというオンライン配信作品『未練の幽霊と怪物』鑑賞時のことである。「机の向こうに借景として映る窓の外の人の流れとか、机上に浮かんでぷかぷかと動くモビールとか、観客に視覚の選択肢が明け渡されていること、つまり映像カメラは固定化されていながら、こちらに民主的な視座が受け渡されているという意味で、すごく演劇的な体験」(P36)だった、と言うのである。

   普通に考えれば、観客が意識を集中させるべきは、即ち岡田が見せたいのは「机の上の能の上演」であろう。だが、岩城は、それ以外のものが視覚に入ってくることを「民主的な座が明け渡されている」と感じ取り、それを「すごく演劇的な体験」と呼んでいるのである。

  ひょっとしたら岡田じしんも、そうした可能性に期待をかけていたかもしれない。しかし、少なくとも、それを岡田の意志で達成する、すなわち岡田の意志でその体験を観客に強いることは出来ない類の体験であった筈だ(そうでなければ「民主的な座が明け渡されている」とは感じないだろう)。上演にあたって、製作者、演出家、そして俳優も、それぞれのプランをもち、それを磨き、観客に伝えようとする。しかし、皮肉なことに、演劇を演劇たらしめるのは、それらのプランを逸れ、裏切る瞬間なのだ。

  それを偶然性の優位と呼ぶか、「一回きり」の絶対性と呼ぶか。いずれにせよ、つくる側の意図を逸脱した要素、あるいはその可能性を、見る側が発見あるいは予感できるときに、そのパフォーマンスは演劇性、「生」性を持つのである。

 

オンライントークイベントならではの工夫はできる

  同じことを、オンライントークイベントにも適用できるのではないか?

  ZoomやYoutubeの画面を介した時も、登壇者が今語っているという臨場感、緊迫感が伝わる方が、見ていてスリリングなのではないか? 相撲や野球の録画を見るとき、もしも勝負の結果を知らなくても(つまり放映を見る自身の前提と環境が同一と言えたとしても)、リアルタイムで見るときの緊迫感はどうしても持てないのではないだろうか?実際にリアルタイムであったとしても「録画だ」と告げられたり、思ったりした時もそうかもしれない。画面に映るものは、実況中継も録画も、実は同じだからである。

  だとすれば、今実際にリアルタイムで登壇者が語っているのだということを視聴者に知らせる仕掛けが、必要なのだ。そのためには、イベント自体が、イベント主催者の「意のままには進まない」必要がある。それには、岩城の「民主的な座」という表現が示唆しているように、イベント自体が視聴者に開かれていなければならない。

  岩城のオンライン演劇体験の例では、「開かれ」は視聴者が主催者の意図しない部分を見ることに留まっていたが、オンライントークでは、より能動的な視聴者の関与が可能である。演劇と違って、トークイベントでは、観客から質問したり、感想・意見を述べることが可能だ。リアルのトークでは、大抵一通り登壇者のお話が終ってから質問などが募られる。トークの最中に客席から口を挟むのは、主催者としてもやはり差し控えて欲しいが、オンライントーク中にチャットの書き込みをすることに、問題は全くない。オンラインにおけるいささかの距離感が、この場合プラスに働く。視聴者は、トークの最中でも、すなわち登壇者の話が終わったり司会者による募集がないときでも、その時々に心に浮かんだ疑問や意見を書き込む事ができるのだ。

  視聴者にとってのこのメリットを、主催者側も受け止めなくてはならない。書き込みの数によって取捨選択の必要が生じることはあるだろうが、少なくともその一部には、登壇者が対応するべきだろう。もちろん即答である必要はなく、最後にまとめてでもよいが、トークの流れの中での質問等であれば、その流れの方向が変わる前に取り上げる方がベターだ。登壇者が話しながら、あるいは対話をしながら常にチャット画面を注目するのは無理だから(というより、登壇者はいっさい見ない方がよい)、質問を拾い、選んでタイミングよく投げ込む役割の人が必要となる。それが自分の質問でなくても、同じ時に質問を投げた視聴者と登壇者の会話があれば、一気に「生」性を感じることができ、画面はスクリーンから劇場の「第四の壁」へと様変わりするのではないだろうか。

  それが登壇者がハッとするような質問・意見なら、なおいい。偶然性と緊張感は「生」性を高めるからだ。
 主催者側としては、難しい質問もなくスムーズに進行して無事終幕を迎えることこそ望むところかもしれないが、あまり予定調和的に進んでしまっては、面白くない。むしろ、時に食い違う意見がラインの端と端を行き来してこそ、トークイベントの醍醐味がある。主催者はその覚悟を持ち、肝のすわった姿勢で、「本番」に望む必要があるのだ。

  以上の工夫は、配信――つまり様々な器具と技術を使って遠くの観客に届けているにもかかわらず、目の前で行われているパフォーマンスであるかに思わせる工夫であったが、逆方向の工夫もありうるし、必要にもなってくる。すわなち、配信のために使われる道具を、効果的に使う工夫である。

 

さまざまなグラデーションのなかで、オンライントークを考える

  舞台芸術における映像全般に携わる須藤崇規は、コンテンツの配信そのものの困難について、率直に語る。

「非常に困難な点の一つに、生であることと配信であることを両立させようとしているということがあります。(…)演劇はやっぱり生に最適化されているもので、それを今まで、僕は記録映像というものを通して映像に最適化し直す作業をしていた(…)配信だとそれが非常にやりにくいんです。生であることと配信であることを同時に一か所でやろうとすると。(…)目の前にお客さんがいる限りは、生への最適化を捨てることは絶対にしないので、やっぱり配信が後からついて行くことしかできなくて、そうなると配信に最適化するという作業がめちゃくちゃ難しいです。具体的にいうと、カメラを置く場所に困るとか。」(P32)

  中継の難しさである。最適なカメラ位置は、最適な観客席でもあるから、「生への最適化を捨てることは絶対にしない」とすれば、「カメラを置く場所に困る」のも当然だろう。登壇者の立場でいえば、カメラを見るよりも、客席を見る。マイクに向かってではなく、客席に向けて語る。配信映像の質にこだわれば、おそらく実際の観客はいない方がいい。

  一方、およそ「語る」という行為は誰かに向かって語りかけることであり、言葉による「対話」でなくとも表情や目や体の動き(動かないこと含めて)によって、話者は聞き手の反応を感じ取る。その反応によって、どんどん語りを前進させたり、少し立ち止まって説明したり、話の方向を変えたりする。語りかける相手が眼前にいないとそのプロセスは不可能であり、対談の場合は対談相手に意識が集中しがちで、ラインの彼方の視聴者は置いてきぼりにされかねない。

  観客がいるメリットといないメリットはトレードオフであり、先に挙げたチャットの利用などの工夫で「生」性と映像効果は様々にグラデーションを描く。おそらくベストは無い。

  前述の長島確の「全然別のメディアであるカメラを通した中継にするのなら、それに合わせて別の演出をしないと、演劇としても映像としてもクオリティが下がるようにしか見えない」という言葉の「別の演出」も、俳優の演技の質や方法を変えることというより、カメラという「道具」の能力や特性を十分に発揮できるように使うこと、それによって客席に座って同時進行している舞台を観るのとはまったく別ものの作品を仕上げることであろう。カメラなら、客席からは決して見えないアングルやズームを使うこともできる。複数台のカメラでスイッチングを駆使すれば、同時進行的にかつさまざまな角度からトークを撮ることも可能だ。もはや「生」性=同時性が最大のアドバンテージではないから、時間的な枠組も大胆に変更できる。

  「落語の一席を撮るとしたら、自分ならまず落語家が楽屋入りするところから撮る」と元MBSアナウンサーで、退職後「自分史」「社史」「ファミリーヒストリー」などを映像化する会社アンテリジャンを立ち上げた子守康徳が言っていた。オンライントーク配信では、トークの言葉を流しながら、資料映像、関連映像を「共有」しても、まったく違和感はない。

  リアルトークに近い「生」性と映画に近い編集性の間のさまざまなグラデーションのどの辺りを目指すのかを明確に意識し、意図に合った道具の使い方、編集を工夫していくことに如何に自覚的であるか、オンライントークイベントの成否は、そこに掛かっていると思う。




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*57回までのコラムは当社刊『希望の書店論』に、2014年~2016年にかけての主なコラムは『書店と民主主義』に収録しています。

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第218回(2021/9)「関係人口」は演劇的(ドラマティック)だ

「関係人口」とはなにか――田中輝美『関係人口の社会学』

  「関係人口という概念を初めて知ったときの胸の高鳴りを、今でも鮮やかに思い出すことができる。」と「過疎の発生地」と呼ばれる島根で生まれ育った田中輝美は、「過疎の発祥地だからこそ、全国最先端で人口減少が進むからこそ、人々は悩み、もがき、工夫し続けてきたところに先進性が宿るのではないか」と、故郷の可能性を思いながら、関係人口を、社会人入学した大阪大学大学院人間科学研究科の修士論文のテーマに選ぶ。後期課程でも関係人口の研究を続け、2020年3月に提出した博士論文をベースに2021年4月、大阪大学出版会から上梓したのが、『関係人口の社会学』(大阪大学出版会)である。

 この本、博士論文をベースにしていながら、とても読みやすく、面白い。「第1部 関係人口とは何か」「第1章 誕生前史」「第2章 関係人口の概念規定」「第3章 関係人口の分析視角」には社会学の論文らしい硬さが感じられるが、「第2部 関係人口の群像」「第4章 廃校寸前から魅力ある高校へ――島根県海士町」「第5章 シャッター通り商店街が蘇った――島根県江津市」「第6章消滅する集落で安心して暮らす――香川県まんのう町」では、各章のタイトルのテイストが第1部とはすっかり変わっているように、本文も実に生き生きとしてきて、具体的で興味深い展開が続く、読み応えのあるルポルタージュとなっている。15年間山陰中央新報社に勤め、退職後も島根県に暮らしてフリーのローカルジャーナリストを続けながらの研究生活であることが生きていて、あくまで学術書でありながら、読んで面白い読み物ともなっているのである。

 

「関係人口」とはある日やってくる「よそ者」である

 「関係人口」とは、人口減少に悩む過疎地域において、「観光以上、定住未満」と、観光客よりも地域に関わるが、定住まではしない存在と位置づけられる。“総務省が2018年から「関係人口創出事業」をモデル的に始めたことで、関係人口は全国の自治体で知られるようになった”。

 都市農村間の「交流」は、1980年代半ば以降から盛んに行われるようになった。姉妹都市提携、サミット交流、農産物を媒介とする交流、特別村民制度、オーナー制度、イベント交流、農業体験、保養施設による交流、都市内拠点施設、市民農園交流、山村留学、リサイクル交流と、来訪者に迎合する傾向の強い観光ではない、来訪者と地元住民が対等、相互に信頼しある「交流」が提唱、実践されたのである。

 ところが、交流当初は取り組みに熱心に参加するも、2~3年後には「都市の者に頭を下げてサービスをして、地域に何が残ったのだろう」という「交流疲れ」が増していき、最終的には多くの活動が崩壊していった。

 そんな「交流人口」に替わって登場した「関係人口」を、田中は「特定の地域に継続的に関心を持ち、関わるよそ者」であると定義づける。定住人口でも交流人口・観光客でもなく、そして、企業でもボランティアでもない、新たな「地域外の主体」を表す概念である。この定義で目を引くのは、「よそ者」の一語であろう。田中は、「風の人」という表現も使う。

 平田オリザの豊岡市での演劇実践について書いてきたこのコラムの流れの中で『関係人口の社会学』を紹介しようと思ったのは、同じく山陰地方の地域活性化の試みであるからというよりも、この「よそ者」の一語によるところが、大きい。「よそ者」は、極めて演劇的(ドラマティック)な存在だからだ。平田オリザが作劇術や名作戯曲の解説で明かすように、ドラマは「事情を知らない者」の登場で始まり、いわば「土地の者」と「よそ者」の交流、軋轢、対立、協力によって進行していく。田中が『関係人口の社会学』「第2部 関係人口の群像」で最初に紹介する島根県海士町での事例「廃校寸前から魅力ある高校へ」の展開は、一人の「よそ者」を触媒に一幅のドラマとなった、好例である。

 

隠岐諸島の高校魅力化プロジェクト

 隠岐諸島に属する中ノ島の海士町は、承久の変に敗れた後鳥羽上皇が流罪となって亡くなるまでの20年間を生きた地である(ドラマの舞台に相応しい!)。安倍前首相が「地方創生」の代表例として所信表明演説で取り上げ、第一回「プラチナ大賞」(人口減少社会の課題を解決し、新たな可能性を想像する挑戦を奨励する賞)も受賞している。評価の最大の理由が、廃校寸前の島根県立隠岐島前高校を復活させた高校魅力化プロジェクトである。

 人口減少―地域外への進学―生徒数減少―配置教員の資源の減少という悪循環に陥り廃校の危機に直面していた島前地区唯一の高校である県立島前高校の存続・再生のために呼ばれた「よそ者」が、東京の企業で人材育成にあたっていた岩本悠氏である。岩本氏招請の最大の引き金となったのは、「島前高校を進学校にするのはどうか?」という問いかけに対する岩本氏の答えであった。

「東大へ進学するためにわざわざこの島に来る生徒はいないと思うけど、学力だけじゃなくて、地域も生かして人間力もつける新しい教育を展開すれば、東京からも学びに来るだろう。これだけの人がいて、地域があって、文化がある。やっぱり地域全体を学びの場にして、学力だけでなく、人間力も身につく教育をやって魅力的にする。長い目でみれば、ただ目先の進学実績を追いかけるより、地域リーダーも育つし、地域のためにもいいんじゃないかと。」

 会社員時代と比べて収入は半分以下、契約は三年、その後の保証は一切なかった。それでも縁もゆかりもない島に移住し、高校存続問題に関わることを決めた理由について、この島が日本の最前線であり、未來への最先端のように感じたと、岩本氏は言っている。「この島の課題に挑戦し、小さくても成功モデルをつくることは、この島だけでなく、他の地域や、日本、世界にもつながっていく」

 2006年末に、岩本氏は商品開発研修生として海士町に移住する。商品開発研修生とは、1998年頃から、地域資源を生かした商品開発に乗り出した海士町の商品開発研修制度に応募した「よそ者」である。この制度からは、町の食生活を生かし商品化した「ふくぎ茶」や「さざえカレー」というヒット商品が生み出されていた。

「外部の目によって、いままで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなる。住民ひとりひとりが島の魅力について考えるようになる。そういった意識の変化が、島の財産になるのだと思います」とは、発案者の、「半分よそ者」を自称する山内道雄町長。

 そうした制度があったからこそ岩本氏は海士町にやって来ることができたのであり、また海士町にヒット商品誕生という成功体験があったことも、高校魅力化プロジェクトの推進を後押ししたのだと思う。

 

「よそ者」のドラマ――ヒーローは静かに去っていく

 とはいえ、「よそ者」に対する風当たりは、厳しい。

「イワモトユウって何者だ」「よそからの若いもんに何ができった」「島をかき回して、すぐに帰るんだろう」 

 移住直後は特に、地域住民のそうした声に耐えなければならなかった。

 更に、商品開発研修生という立場が、岩本氏の働きを妨げた。

「権限も役割もないから、トップダウンはできない。学校の中の人間でもないからボトムアップもできない。なんか斜め下あたりから、やっていかなきゃいけない。」

 当初は「出たい、もう、出たいな、と何度も思った」という岩本氏は、それでも粘り強く地域に入り込んでいった。まず「自分から変わる」決心をし、もともと得意でない酒席や教員の喫煙休憩にも参加し、対話を繰り返した。そうした姿を見て、支援する仲間も現れる。そんな中、高校を卒業したあと故郷に戻らない「供出」構造を知った岩本氏は、構想を練り、チームを形成して島前高校魅力化プロジェクトを進めていく。その大きな柱が、全国から積極的に入学生を募る島留学制度であった。

 プロジェクトの成果は、『関係人口の社会学』で読んでいただきたい。ぼくが何よりも惹かれたのは、ことを成し遂げた岩本市が2015年3月、島を去り松江市に異動するときの言葉である。

「島前高校自体に流れができて、勧めていくメンバーや関係者ができている。今は僕がいないと進まないっていう状況じゃないからね。そういう意味では残ったものはあるかな」

 「よそ者」「風の人」の、この上なく「カッコいい」言葉である。

 こうしてヒーローが去っていくストーリーを、ぼくたちは数多く持っていなかっただろうか? 島前高校と岩本氏の物語を読んで、すぐに思い出したのが、エドワード・ドミトリク監督の『ワーロック』だ。地域の人リチャード・ウィドマークと「すわ、決闘か!?」と思わせた瞬間、素早く抜いた拳銃を捨てて町を去るヘンリー・フォンダ。彼は保安官として町の秩序を取り戻した立役者であった。『ワーロック』が少しマニアックなら、あの名作『シェーン』もそうではないか?

 何もハリウッドに渡らなくとも、日本が世界に誇るクロサワの『七人の侍』で、戦いを終えて立ち去る志村喬が加東大介に言う。「また、負け戦だったな」訝しげな加東大介に志村は、言う。「勝ったのはわしらではない。百姓たちだ」

 「用心棒」も、「椿三十郎」も、「風の人」だった。

 「関係人口」は、極めて演劇的(ドラマティック)なのである。

 

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1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第217回(2021/8)演劇的コミュニケーションと平田オリザの実践(3)

社会文化資本と教育の目 

 今年(2021年)4月1日、豊岡市に兵庫県立芸術文化観光専門職大学が開校した。平田オリザが、学長に就任した。

 これまでのこのコラムをまとめると、平田の問題意識は、大きく3つある

1.地域格差の削減=地域復興

2.教育への演劇の注入

3.21世紀の教育が持つべき目標

 1の問題意識は、見てきたように、平田の四国や豊岡での実践で取り組まれ、兵庫県立芸術文化観光専門職大学開学が現在の到達点と言える。

  2はそのための方法論であるが、従来の教育論では余り出てこない方向性だ。だが、四国での実践や豊岡での開学は、その方法論の有効性の証左となっている。 

 その有効性は、今日的状況が生み出したものでもある。即ち、計算力だとか記憶力だとかを「外部(コンピュータやインターネット)委託」できるようになった人間には、これまでとは違う能力が求められるようになったのだ。それが3であり、一言でいえば広い意味でのコミュニケーション能力である。正確な意味での対話の能力である。そうした要請が、教育への演劇の注入の有効性を生み出したのである。

 それは決して地域限定の要請ではない。桜美林大学や大阪大学大学院でも、演劇的実践が有効だったのである。つまり、平田の強みは、地域だからこそ発揮できる強味ではなく、全国的な、即ち、東京や大阪でも通用する強味なのである。

  だから、差し当たり中央―地域格差の緩和には大いに役立つ強みであると言える。どの地域も東京・大阪と同じ課題に立ち向かえるわけだから。だが、恐らく逆転には至らない。挑戦はできても、逆転勝ちに至れるかといえば、なかなか難しいのではないか。携わりうる人間の数、活動できる空間の数、歴史の厚みなどを考えた時に、東京以外の者たちが東京にいる者たちと対等にわたりあえるようになると言えるだろうか。

 平田自身も、3の具体面の一つである入試改革の目指す方向性について、次のように言っている。

“判断力、表現力、主体性、多様性理解、協働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。このような能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉に言い換えれば、「人と共に生きるためのセンス」である”。(『下り坂をそろそろと下りる』P106)
“文化資本の格差は発見されにくい。親が劇場や美術館やコンサートに行く習慣がなければ、子どもだけでそこに脚を運ぶことはあり得ない。そして、その格差は、社会で共有されにくい。

 地域間格差と経済格差。この二つの方向に引っ張られて、身体的文化資本の格差が加速度的に、社会全体に広がっていく。

 さらに、ここまで見てきたように、この文化資本の格差が、大学入学や就職に直結する時代がやってきている。放置しておけば、この格差は負の連鎖となって、日本の社会に大きな断絶をもたらすだろう”。(同P109)

“地域の自立再生には、一方的な保護政策に打ち勝つための「文化の自己決定能力」がどうしても必要だ。

 ではその能力(センス)は、どのようにして育つのだろう。それは畢竟、小さな頃から、本物の文化芸術に触れていくことからしか育たないと思う。もしそうだとするならば、東京の一人勝ち状態は、今後も半永久的に続くことになる。なぜなら首都圏のこどもたちには、それだけの機会がふんだんに保証されているのだから”。(同P159)

 

東京一極集中とヒエラルキーの解体

 平田自身によるこれらの見立ては、平田の問題意識の1.地域格差の削減=地域復興を、原理的に困難にする。その目標達成のための平田の方法こそ、2.教育への演劇の注入によって地方に住む人々、とりわけ若者たちの文化資本の醸成だからだ。平田の見立て=首都圏の子どもたちの文化資本獲得における絶対的優位は、これまでの平田の実践を虚しいものにしかねない。

 そうした困難に、誰よりも気づいているのは、他ならぬ平田オリザ自身だと思う。だが、それでも彼は、兵庫県立芸術文化観光専門職大学学長就任というかたちで、今なお、その実践の可能性を模索し続けている。平田は、「全国から優秀な教員と熱意ある学生が集まり、早く授業を始めたくてわくわくしている」と期待。コロナ禍などで大学教育の意義が問われる中、「単に知識や情報を得るだけにとどまらない新しい学びの共同体を、職員や地域の方とつくりたい」と意気込みを語っている。(神戸新聞NEXT 2021/4/1)

 その意気込みが実現するためには、「文化資本における東京の子どもたちの絶対的優位」という見立てから離れなくてはならないのではないか、その見立てを棚上げする、一旦忘れる必要があるのではないか、と思った。文化資本において東京の子どもたちが圧倒的に有利だというobsession(強迫観念)こそが、志ある若者を東京へと向かわせているのではないか、と。そして、その見立ての保留は、決して不可能でも無意味でもないのではないか、と。

 更に言えば、「文化資本における優位」という発想ー優位があれば必ず劣位がありそこにはヒエラルキーがあるーという発想そのものからも、逃れた方がよいのではないかと思い始めた。文化にはヒエラルキーがあるというobsessionから抜け出せたとき、例えばまさに昨年の豊岡演劇祭が、コロナ感染者がほとんどいない状態が続いた地域であったこと、日本有数の城崎温泉を背後に持つことなど、さまざまなアドヴァンテージが重なって成功したという事実が、リアリティを持ち、他地域も参照できる戦略的武器になっていくのではないか、と思うのだ。また、第210回に紹介したように、人口が減り、産業も沈下して地価が下がったことが、神戸市が芸術家やその卵たちを呼び寄せやすくなったという逆転的発想を生み出すことに繋がっていくのではないか、と思うのだ。それらは、「東京の文化資本における優位」という見立てからは出てこない、「発見」であったのではないか?

 ヒエラルキーという面でいうと、大阪大学大学院入試の際の平田の次のアドヴァイスが、読んだ当初から引っかかっていた。

“作戦を遂行し、その責任をとるのは将軍ですが、参謀には別の快楽がある。もう大学院を卒業するみなさんは、そういった別のリーダーシップの在り方も、そろそろ身につけていった方がいい”。(『下り坂をそろそろと下りる』P93)

 確かに、そのとおりなのである。実際、ぼくも組織のトップであるよりは、参謀役の方が面白く、色々なことが出来ると思う。だが、将軍にしても、参謀にしても、集団の少数のトップグループである。彼ら彼女らの下で、地道に働く人々の方が、ずっと多い。そういう人たちにこそ、もっと光を当てるべきではないかと思うのだ。それは、演劇をつくる集団においても同じである。

 だから、平田に対してあまりに意地悪で、天の邪鬼に過ぎると謗られるかもしれないが、兵庫県立芸術文化環境専門大学に、「相当優秀な学生が揃いました」(内田樹『街場の芸術論』(青幻舎)「特別対談 内田樹×平田オリザ」 P237)と喜び誇ることにも、違和感がある。東京都と同じ面積の中にひとつの大学もなかった但馬地域に初めて大学をつくるにあたって、それでもそこに学生が集まるのかについては大いに存在した疑念を、志願倍率7.8倍という数字で跳ね返し、その倍率を通り抜けて選抜された学生たちを誇る気持ちは分かる。彼ら彼女らの意欲は、相当なものであろうとも想像する。それでも、学長である平田オリザに、「優秀」という言葉を使ってほしくはなかったのだ。

 

あらためて、地方から考える

 第214回に引用したが、「島の人々が瀬戸内海の各所から渡ってくる商人や船頭たちとコミュニケーションをとるための教養教育であったろう」と想像する、小豆島の300年の伝統を誇る農村歌舞伎(『下り坂をそろそろと下りる』P44)を論じる時、或いは、人数が少ないから、練習の局面に応じて流動的に、各自が複数のポジション、複数の役割をこなさなくてはならないことが部員個々人の主体性を育んでいる小豆島高校野球部の「強み」を語る時、おそらく平田は個々の参加者の優秀さには無関心であり、上下の命令系統などにも無頓着であったのではないかと思われるのだ。

“人口の少ない離島で町作りを進めようとすれば、人びとは複数の役割をこなさざるを得ない。しかしそのことが、かえって人々の自主性、主体性を強める。本来、人間はいろいろな役割を演じることによって社会性を獲得していく。村芝居への参加が、若者たちの教養教育の場として機能したのも、演劇が、いくつものポジションを同時にこなさなければならない、あるいは、その役割を流動的に変化させていかなければならない芸術だからだ”。(同P50)

 こう説明する平田の、オモテかウラかを問わず、芝居づくりに関わるすべての人を等しくまなざす眼に、ぼくは共感していたのだ。平田のこれまでの地方での精力的な実践、実績を心から尊敬した上で、やはり「リーダーシップの在り方」や「優秀」という言葉に違和感を抱いてしまうのは、おそらくそのためだと思う。

 それらの言葉とある意味パラレルである「東京の文化資本における優位」という見立ても、平田が東京出身で、演劇のキャリアも東京で積んだゆえの必然なのだろうか?

 そうではない、と思わせてくれる本に出会った。田中輝美著『関係人口の社会学』(大阪大学出版会)である。

 実は、平田オリザも“小豆島の観光文化政策で特徴的なのは、「観光から関係へ」をテーマに、観光による「交流人口」と」、Iターンなどの「定住人口」の間に、「関係人口」という新しい概念を設定した点にある”と、「関係人口」を紹介している。そして、自身が『新しい広場をつくる』で提唱した、利益共同体と地縁血縁型の共同体の中間に位置する「関心共同体」が「関係人口」に近いのではないかと言っている。

 『関係人口の社会学』で紹介されるやはり四国と山陰での地域復興の実践は、豊岡演劇祭や兵庫県立芸術文化観光専門職大学の創立に比べると地味だが、より「劇的」であるように思う。ぼくにそう言わしめるキーワードは、「風の人」である。

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1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第216回(2021/5)演劇的コミュニケーションと平田オリザの実践(2)

対話は相手を打ち負かさない

 平田オリザの演劇教育実践は、今日の教育課題と極めて強く共振している。

 「センター試験」に変わって今年からはじまった「共通テスト」に、当初文科省は、外部の業者テストの成績を反映させる、記述式解答の問題を入れるなどの「新機軸」を目論んでいた。それらの計画の多くは結局頓挫するが、改革志向自体は、平田の実践と重なる部分も大きい。

 もちろん、平田がそうした動向を察知して動いているわけではない。時代の方が平田に追いついてきたというべきだ。

 平田が大阪大学リーディング大学院での大学院生選抜試験で進めている仕事は、前回紹介した四国での演劇教育実践とは、いささか趣を異にする。後者は、地方の若者たち、子どもたちが、他の地方の人たち、とりわけ中央の人たちと共生(時に競争)するために必要なコミュニケーション能力を育むことを目標としているのに対し、前者は文字通りこの国のリーダーを育成すべく選別する場だからだ。だが、この一見条件も背景も違う場の両方に平田オリザが関わっていて、かつその際の方法論が基本的に同じであることに、注目すべきなのだ。

 大阪大学リーディング大学院の選抜試験の課題は、「臓器売買に関するステークホルダー(関係者)を洗い出してディスカッションドラマを創る」であり、四国学院大学の入学試験は、「本四架橋のうち二本を廃止し、一本だけを残さねばならないとしたら、どの橋を残すかを、関係各県の代表者が議論するディスカッションドラマを創りなさい」というものである。

 問題の基本構造はまったく同じと言っていい。四国ならではのローカル性はあるとはいえ、課題解決の困難さに、大きな差はない。

 また、どちらの場合も、ドラマ創作だからといって演技の優劣を競うものではもちろん無く、また、主張が相手を打ち負かし議論に勝利した者が有利なわけではない。平田は、それ ぞれの主張が明確であり、議論が活発であるようなディスカッションドラマを要求する。

 ドラマの創作であるから、受験生たちは協力し合う必要がある。ディスカッションドラマを創るためのディスカッションが必要となる。平田は完成したドラマよりも、その創作過程を見る。平田が注視するのは、そこに参加するために必要な対話の能力、そしてそもそも対話とは何かがわかっているか否か、なのである。

 対話とは、相手を打ち負かす技術ではない。全く違う背景や動機を持った二人(以上)が、語り合うことによって、一人ひとりが変わっていくことである。議論の参加者が予め用意した結論を通すことではない。何人もの参加者が、それぞれ違う主張をぶつけ合うことで、全員が納得する(言い換えれば、用意した議論に固執するならば全員が納得できないであろう)ゴールに至るプロセスなのである。だから、平田はディベートではなく対話劇の創作を要求するのだ。演劇とは、(通常)多くの登場人物の言動によって、誰もが予想していなかった終幕を迎える芸術だからである。

 そして、そうした性格の対話劇が成立するためには、全体を進行する役、時に決断する役、あるいは敢えて身を引く黒子役がバランスよく配備されることが必要であろう。それはドラマそのものについても言えるし、ドラマを創るためのディスカッションの場でもそうだ。対話劇を創るという作業は、そのように、二重の役割分担を必要としているのだ。

対話と民主主義――情報社会における問題解決の場としての大学

 大阪大学リーディング大学院選抜試験における実践の中で、平田は受験生に対して、次のようにアドヴァイスしている。

“作戦を遂行し、その責任をとるのは将軍ですが、参謀には別の快楽がある。もう大学院を卒業するみなさんは、そういった別のリーダーシップの在り方も、そろそろ身につけていった方がいい”(『下り坂をそろそろと下る』講談社現代新書、2016年、P93)。

 平田の言う理想的な対話劇は、民主主義の本来の姿と重なる。日本ほか多くの国が採用する議会制民主主義は選挙結果に大きく左右される制度であることから、どうしても票の取り合いが選挙民、被選挙者の関心の中心となり、議論もどれだけの賛同者を得るかという数の争いになりがちで、「あれか、これか」の多数決が民主主義と思われている節があるが、民主主義の要諦は、むしろ少数者の意見の尊重にある。少数者の尊重により、多数者の意見もより一般に適合するように調整されるプロセスを、民主主義というのである。多数者の意見が採用され、少数者の意見が無視されるのは、民主主義とは真逆の、全体主義と言うべきなのだ。民主主義的なプロセスは、全能の神ならぬ限定合理的な人間にとって、利害を異とする多くの人々の問題解決のためには、おそらく最上の政治制度と言えるであろう。歴史を振り返っても、全体主義や独裁主義よりは「ましな」方法であるという認識を、ぼくたちはチャーチルと共有しているだろう。

 そして、問題解決の場である大学という研究機関を形成するにあたって、登場人物の誰もが自己の主張を存分に行なう対話劇という平田オリザの出題は、当を得たものと言える。大学をめぐる環境の変化、大学の存在理由の変化は、問題解決の場としての、大学の本来の使命が復活、あるいは改めて見直されているのだとも言える。

“いまや、どんな情報も知識も、インターネットで簡単に手に入れることができる。そのことを大前提にしつつ、それでも「ここで、共に、学ぶ」ことが重要な時代になってきたのだ。もはや、学校の、少なくとも大学以上の高等教育機関の存在価値は、新しい知識や情報を得る場所としてではなく、共に学び、議論し、共同作業を行うという点だけになった”(同P94-5)。

“現在、ハーバード大学、MIT、あるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは、MOOCと呼ばれ、多くの場合、インターネット上で誰もが無料で、その講義を受講することができる”(『22世紀を見る君たちへ』講談社現代新書、2020年、P68)。

“このようなネット時代を前提にして、しかしそれでも、ハーバードで一緒に議論をすることに異議がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。

 だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員も含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ”(同P70)。

 情報化社会の進展が人々の知へのアクセスを容易にし、大学のあり方、大学生のあり方、ひいては大学入試のあり様の変化を求めている。そのことは、大学という場への参加資格の変容を伴う。受験生の側から言えば、合格基準の変容である。すなわち、これまでは、同じ問題を解く能力によって序列が決められたのに対し、多様な役柄のそれぞれに相応しい能力を持った多様な人材が選抜されることになる。いわば、一つの主役の座を争って選ばれるオーディションではなく、一つの芝居を成立させる役それぞれに使う俳優を決定するキャスティングに近いものになる。

 演劇や映画のオーディションでは、選ばれる俳優は一つの役に対して一人だけだが、大学受験では、定員数だけ選ばれる。となると、キャスティング形式で、どの役を狙うかに頭を悩ませるよりも、定員数だけ選ばれるオーディション形式の方が、準備は楽であろう。平田らの実践は、試験する教員の方も大変だろうが、受験生にとってもとても悩ましいものではないか? 過去問を何回も解くというような、これまでの受験準備が、役に立たないからである。

最先端の入試で浮かび上がる身体的文化資本の差

 どの役を狙ったらよいか、という受験生の悩みについて、あるいは平田は、「どんな役をやっても、いい俳優はいい仕事をする」と答えるかもしれない。彼は次のようにも言っているからだ。

“私が何よりこの選抜試験U(大阪大学リーディング大学院選抜試験)で問いたかったのは、このように右脳と左脳をシャッフルするように使いながら、あるいは集団の作業と個人の作業を交互に挟みながら、それでも論理的な思考が保てるか、批評性が保てるかという点だった。単なるロジカルシンキング、クリティカルシンキングではなく、それがどのような局面においても「発揮できる」かを測る試験を作りたかった”(同P65-6)。

 欧米の有名大学では、すでに平田の構想する線での選抜試験がなされている。しかし、“「どのような局面においても能力が発揮できるか」を問う試験を行なっている大学は寡聞にして見つけることができなかった。私はどうせならオックスフォードやケンブリッジを超える最先端の入試を作りたいと考えた”(同P67)。

 そこで平田が行ったのは、共に学生を選抜する教員たちに『宇宙兄弟』(小山宙哉著、講談社)全巻を読ませることだった。“『宇宙兄弟』は、JAXA、NASAの宇宙飛行士を選抜し育成していく過程が描かれた漫画である”(同P67)。

“従来型の入学試験では、その時点での生徒。学生の持っている知識や情報の量を測って、たとえば上から20番までが合格、21番以下は不合格としてきた。しかし、JAXA、NASAの選抜試験はそれとは異なる。お互いの命を預け合えるクルー(=仲間)を集める試験である。

 そこでは当然、いろいろな能力が要求される。共同体がピンチの時にジョークを言って和ませられるか。明晰な判断力でピンチの本質を整理できるか、斬新な意見で共同体をピンチから救えるか。しかも、どんなにいい意見を言っても、日頃から地道な手作業などに加わっていないと信頼されない、などなど”(同P67)。

“おそらく、今後、日本の大学の入学者選抜もこのような、クルーを集めるタイプの試験に変わっていくだろう”(同P68)。

未来のあるべき大学のあり方についての平田の構想は、おそらく間違ってはいない。だが、一方でそれは、平田のライフワークともなっている、地方再生、地域間格差の是正に対しては、逆風となる。なぜなら、そうした「クルー」の資質は、本人の努力以前に、子どもたちが育つそれぞれの環境によって大きく影響されるからだ。

“しかしいま、文化の地域間格差と、経済格差の両方向に引っ張られて、子どもたち一人一人の「身体文化資本の格差」が急速に広がっている。しかも、それが大学進学や就職に直結する時代になっている”(同P95)。

”一生懸命努力する人も社会にいてくれないと困るが、コツコツと努力することは苦手だが発想の素晴らしい人や、何故か人を和ませられる人なども持続可能な社会には必要だからだ。しかし、そのために大学の選抜方法を改めようとすると、今度は、努力とは無関係の身体的文化資本を問うことになり、より格差が鮮明になってしまう”(同P97)。

 もちろん、その格差の頂点は、東京にある。

  

追記  平田オリザと「二人三脚」で豊岡市の演劇実践を推進してきた中貝宗春市長が、5期目を目指す選挙で敗れた。

「豊岡市長選、現職中貝氏が苦杯 コウノトリ野生復帰などに奔走、市民には届かず」(神戸新聞) 

 何より、「演劇のまちなんかいらない」と主張する対立候補に敗れたことがショックである。

「新豊岡市長に関貫氏「演劇のまちなんかいらない」現職を批判」(神戸新聞)

だが、平田オリザは、「自らが初代学長を務める芸術文化刊行専門職大学は県立なので影響はなく、江原河畔劇場も豊岡市からの援助は一切受けていないから支援カットの心配はない、新市長とはこれから直接お会いして、色々決まっていく」と狼狽えたり、困ったりしている様子はない。(「豊岡市に新市長誕生 平田オリザさん「これからまた直接お会いしていろいろ決まっていくと思います」(Yahooニュース/ラジトピ)) 

というわけで、コメントは、今後の展開を見てからにしたい。

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*57回までのコラムは当社刊『希望の書店論』に、2014年~2016年にかけての主なコラムは『書店と民主主義』に収録しています。

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第215回(2021/4)演劇的コミュニケーションと平田オリザの実践(1)

「対話」を必要とする地方

“まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている”。

  『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書、2016年)の冒頭、平田オリザは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をもじって、このように語り始める。日本はもはや、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞せられた経済大国ではない。明治の時代から、敗戦という挫折を経験しながらなお上り坂を駆け上がっていった国ではない。そして、かつてそうした国であったからこそ、今、下り坂を「そろそろと」降りる覚悟と知恵が必要なのだ、と平田は言うのだ。 

 そうしたテーマの表明で始まるこの本の各章は、平田の演劇教育の実践の記録である。そして、本書が描く平田の演劇教育の場は、小豆島を含む香川県や愛媛県のいくつかの自治体、兵庫県但馬市、震災からの復興を目指す宮城県女川町と福島県双葉郡。いずれも、(地理的にも心理的にも)中央からは離れた場所である。現状では明らかに東京一極集中と思われる演劇実践の必要を、平田はこうした地域にこそ感じているのだ。

 但し、平田自身も、最初からそうした使命を自覚して動いたわけではない。平田自身は四国に招かれて赴いたのであり、その結果平田はその思いを持つに至ったのである。すなわち、四国(とりわけ瀬戸内海側)こそ、日本の演劇教育/コミュニケーション教育の最前線たるべき場所だったのだ。なぜ、そうなのか?

 四国は、日本の「本土」を形成する四島の一つである。とはいえ、四島の中では最西端の辺境ともいえる。更に西に九州があるが、鉄道網や道路網を見ても、海によって隔てられた四国は、東京など日本の中心との距離感が九州よりも大きい。ところが、その四国で演劇教育/コミュニケーション教育が火急の課題となった原因は、皮肉にも、その距離が小さくなったことにあるのだ。本四架橋である。

 “橋で本州とつながってしまった四国という大きな島は、これまで余り必要とされてこなかった「他者とのコミュニケーション能力」、もう少し詳しく言うなら、異なる価値観や文化的な背景を持った人びとにきちんと自己主張し、また他者の多様性をも理解する能力(=対話力)を必要とするようになった”(『下り坂をそろそろと下る』P33)のである。

 交通の便がよくなると、地方に人が来るようになる以上に、地方から「中央」に人が流れ出す。多くの、特に若い人たちが、進学や就職で、四国から流出していく。

 「この子たちはいい子たちなんですけど、他県に行ってからコミュニケーションで苦労するんです」と“香川県の教育関係者たちは口を揃えて言う”という。(同P33)

 

演劇による教養教育

 演劇がいわばコミュニケーションの芸術だということは、コラム第212回以降書き続けてきたことである。ドラマはコミュニケーションの不在から成立、成功と失敗、破綻のダイナミックな組み合わせで成立する。だから、創る側にとってはもちろん、観る側にとっても演劇経験は、コミュニケーション能力の自省・鍛錬のまたとない場なのであった。だから、四国という「辺境」で、全国に先駆けるような形で演劇/コミュニケーション教育が要請されて成立したのは、不思議ではないのである。

 一方、本四架橋を待つまでもなく、以前から演劇/コミュニケーション教育の伝統が四国にはあった。前回も引用した、小豆島の農村歌舞伎である。

“今でこそ小豆島の人々もこれを「農村」歌舞伎と呼び、村落共同体の伝統行事と捉えているが、実際には、島の人々が瀬戸内海の各所から渡ってくる商人や船頭たちとコミュニケーションをとるための教養教育の場であったろうことは想像に難くない”(同P44)。

 小豆島を、本四架橋は通っていない。それは、橋がなくても、この四国地方最大の島は、古くからさまざまな人が行き来する島であったからだ(その歴史は、「意外な便利さ」を生み、今も四国や本州との行き来には不自由しないという)。小豆島には、昔からコミュニケーション教育の必要があった。それを担ったのが、農村歌舞伎だったのである。

 そのような事情が要請する演劇教育に、平田オリザはうってつけであった。見てきたように平田演劇は、コミュニケーションの不在、齟齬から始まり、そのことによって逆に劇中の登場人物同士、劇を成立させる俳優と演出家、舞台と観客席と、多層のコミュニケーションを成立させていくことに極めて自覚的だからだ。

 平田が関わる香川県善通寺市の四国学院大学の演劇コースは、“そもそも学長が「これからはコミュニケーション教育が大事だ」と考え、ネットで検索をして、私が大阪大学で行っている授業に関心を持ち、わざわざ自ら見学に来たことから話が始まった”(同P79)という。

 大阪大学での教育実践も、平田の次のような認識から、行われている。

“アメリカの大学は、そのほとんどがリベラルアーツ(教養教育)を基軸としており、そこには必ずと言っていいほど演劇学科が設置されている。この演劇学科は、もちろん専攻生向けの授業も出すが、それ以外に、他学部他学科向けにコミュニケーションに関わるような授業も出している。副専攻で演劇をとっている学生も多くいて、医者や看護師やカウンセラーなど、対人の職業に就く者は、それを一つのキャリアとさえしている”(同P79)。

 平田は演劇教育を、俳優・演出家・劇作家等実際に舞台を作っていく人たちの養成・訓練に限っていはいない。アメリカの大学同様さまざまな職業に活かせるような演劇の訓練を実践し、その市民権構築を目指している。日本ではまだ、アメリカのリベラルアーツとしての演劇の役割が実際に、また教師にも学生にも自覚されているとは言えない。だが、平田は四国学院大学の演劇コースのスローガンを、「地域の文化活動を担える人材を育成する」とした。それは、10年前にスタートした桜美林大学の演劇コースも同様だったという。

“進学してくるのは、ほとんどが俳優志望(あるいは声優志望)の生徒たちだが、しかしみなが俳優になれるわけではない。俳優になれなかったとしても四年間、大学で演劇を学んだことが、その学生の人生を豊かにし、また実際の就職にも結びつくようなカリキュラムを組まなければならない。それが、リベラルアーツにおける演劇教育の主眼である”(同P81)

 

坂道をそろそろと下りるための文化資本

 平田の構想と実践には、二つの重要な課題がある。それらは一見別々の課題に見えながら、相似形を成し、相互に強く関係している。

 一つは、地域活性化である。平田の盟友であり、『里山資本主義』(KADOKAWA、2013年)の著者藻谷浩介が帯に寄せているように、「経済や人工に先立つのは、やはり文化」だという信念で、平田は四国という、中央から最も遠い地域で演劇教育の実践に励む。それは、文化、とりわけ演劇に明らかに存在する中央と地方の格差を縮め、若者の流出を防ぎ、人口減による地方の弱体化を少しでも食い止めようとするものだ。

 一方、地方の危機は、実は日本全体の危機でもある。世界をグローバル化へと導いた交通機関の進化、そしてとりわけインターネットによって世界と架橋された日本から今、スポーツ、学術、芸術の分野の多くの力ある若者が流出している。ノーベル賞受賞者の多くが、海外在住者または海外経験のある人達であることを見ても、そのことは明らかだ。日本の世界における地位は、間違いなく低下し続けてきた。

 本四架橋が四国を襲ったのと同じかたちの影響が、今日の日本を襲っている。それに対峙することが、平田の演劇実践が纏う、もう一つの課題である。

 文部科学省も、「ゆとり教育」「生きる力」などのキャッチフレーズののち、思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、協働性などをバランスよく養っていくことを重視するに至っている。平田によれば、それは社会学でいうところの「文化資本」であり、平易にいえば、「人と共に生きるためのセンス」だという。(同P106)

 その「文化資本」についてもまた、中央と地方では格差を生みやすい。しかも、「文化資本」は、経済格差のようにはっきりと数字として現れてこない上、各個人の中に長い年月を経て蓄積されていくものであるから、見えにくい。

 平田は言う。

“美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。 骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ”。(同P106)

 一朝一夕にそだつわけではないこの種の能力の熟成には、家庭環境も大きくものを言う。

“親が劇場や美術館やコンサートに行く習慣がなければ、子どもだけでそこに脚を運ぶことはあり得ない”。(同P109)

 「文化資本」を身につけるためのそうした経験へのアクセシビリティは、明らかに東京と地方では大きく違う。文科省の方針転換によって、たとえば大学入試においてもさらに中央と地方の条件格差が広がることが危惧される。平田の四国での演劇教育実践には、その格差拡大に少しでも抗おうという意図がある。

 地域活性化を図る平田の意図や実践は、同時に、日本人が「下り坂をそろそろと下る」のに必要な姿勢を手に入れるための意図や実践でもある。それは、ぼくが平田の演劇論に見出した、コミュニケーションとは何か、コミュニケーション成立のための条件とは何か、そしてこの時代に生きるために最も必要なものは何か、という問いに答えるための、大きなヒントなのである。

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


第214回(2021/3)演劇、対話、民主主義

演劇におけるコンテクストの擦り合わせ

 「コンテクスト」を、平田オリザは語る。通常「コンテクスト」とは、「文脈」のことであり、「その単語はどういうコンテクストで使われているの?」などが一般的な使用法である。だが、平田は、「コンテクスト」を「もう少し広い意味で使う」。「コンテクスト」を、「一人ひとりの言語の内容、一人ひとりが使う言語の範囲」という意味で使いたいというのだ。(『演劇入門』講談社現代新書、P150)

 通常ぼくたちは、誰かと言葉を交わす時、ある単語の意味=その単語が指し示す「モノ」が相手と一致していることを前提としている。しかし、他者と相対したとき、その前提がいかに頼りないものかということも、繰り返し経験している。例えば、少し脚の高いちゃぶ台を、「机」と呼ぶ人、「テーブル」と呼ぶ人、「箱」と呼ぶ人がいる。「コンテクストのずれ」の例として、平田は新婚夫婦の行き違いの場面を挙げ、「結婚したことのある人なら、新婚時代に一度ならず、このような経験をしているだろう」(同P151)と言う。関東人と関西人の結婚の際のさまざまな例が、落語の枕や漫才などで面白おかしく語られることが多いが、結婚とは、畢竟、長い時間をかけた「コンテクスト」の摺り合わせという作業と言っていいのであろう。

 演劇をつくる現場でも、その作業が連続的に発生する。

 俳優が演技するためには、戯曲(劇作家)の言葉と自分の言葉のコンテクストを摺り合わせなくてはならない。演出家がそれを助けてくれようが、そのためには演出家と俳優の間でもコンテクストの摺り合わせが重要である。そしてそのために演出家は、自身と戯曲のコンテクストの擦り合わせを、事前に済ませておかなくてはならない。

 この、コンテクストの摺り合わせの作業は、思われている以上に難しい。先に挙げた「ちゃぶ台」か「テーブル」かという、指示される対象があるケースなら、多少の時間がかかったとしても何とかゴールに到達できようが、具体的な対象物のない観念、たとえば「真」「善」「美」については、甚だしく困難であることは疑いない。その困難さが、憎しみと争いに満ちた人類史を形成してきた。だからこそ、コンテクストの摺り合わせは、人間にとって常に喫緊の、かつ永遠の課題と言えるのである。

 さて、ここまでのコンテクストの摺り合わせという議論においてまだ言及していない存在、しかし演劇にとって不可欠かつ最も重要なファクターは、もちろん観客である。戯曲-演出-演技がコンテクストを統一した上で、一つの演劇作品を観客の眼前で上演するとき、そのコンテクストを観客に共有してもらわなくてはならない。それまで長い時間をかけて芝居をつくってきた演出家、俳優の仕事の成否は、観客とのコンテクストの擦り合わせにかかってると言っていいのである。

 時には長期間にわたる稽古の繰り返しによって行われる劇作家-演出家-俳優のコンテクストの擦り合わせと違って、観客と演劇のコンテクストの摺り合わせは通常一回きりであり、そのための時間幅は、上演時間に等しい。それゆえ、観客が自らのコンテクストを演劇作品のコンテクストと一致させるために要する努力は、上演する側の努力と少なくとも同等、おそらく密度で言えばそれ以上である。即ち、演劇の成立には、観客の参加が不可欠なのである。裏返して言えば、時間と空間を共有する演劇なればこそ、そうした観客の参加が可能になる。

 

舞台と対話する観客たち

 ぼくが若い頃、劇団神戸という地方劇団で活動していた頃、劇団活動を離れることになった劇団員、劇団に残らず卒業していった研究生に対して、座長の夏目俊二は、いつも、「これからは、いいお客さんとして、演劇に関わっていってください」と語りかけていた。それはもちろん、劇団として観客を確保したいという思いから出たものでもあっただろうが、同時に、演劇を創る行程に携わったり学んだ人たちが観客として参加してくれることが、演劇の成功に必要な最後のピースであることを知り抜いていた人の言葉であった。

 平田は、観客がより能動的、積極的に演劇に参加してきた歴史を指摘する。

“古代ギリシャ、アテネで開かれていた演劇祭には、毎年数百二人のアテネ市民がコロスとして参加(アテネ市民の義務)。持ち回りで舞台に出演した市民は、翌年には観客として演劇祭に参加していたのだ”(『演劇入門』P196 )。

 日本においても、“歌舞伎を支えた江戸の庶民たちは、歌舞伎を観客としてただ漫然と見ていたわけではなく、日本舞踊や浄瑠璃の習得を通じて、確かにそこに参加していたのだ。本当の歌舞伎の舞台に上がることはなくとも、歌舞伎を支える諸要素については習熟し、そこに参加する者の視点で、彼らは客席に座っていた”(同P196-7)。芝居のクライマックスでの、「○○屋!」という掛け声は、そうした参加の意識ゆえに定着したものではないだろうか?

 江戸や上方といった大都市だけではない。かつては、地方にも芝居に参加する伝統があった。平田は、小豆島に伝わる「農村歌舞伎」を取り上げ、瀬戸内海の小島ならではのその役割について語る。

“今でこそ小豆島の人々もこれを「農村」歌舞伎と呼び、村落共同体の伝統行事と捉えているが、実際には、島の人々が瀬戸内海の各所から渡ってくる商人や船頭たちとコミュニケーションをとるための教養教育の場であったろうことは想像に固くない”(『下り坂をそろそろと下る』講談社現代新書、P44)。 

 明治以降に出版物が、更に時代が下ればラジオやテレビが、「標準語」を全国に広めていったのとは状況が違い、江戸時代以前には、コミュニケーションのための共通の言語は無かった。使われる言葉は、「くに」によって違った。海によって他の地域から隔絶された島では、その傾向が顕著だっただろう。だが、島の人たちも、「よそ」から来る様々な人たちと接し、交流することなく生きていくことは出来ない。「農村歌舞伎」という「コミュニケーションをとるための教養教育の場」は、そのために不可欠だったのである。

 

演劇と民主主義

 一方、先程挙げた古代アテネについて、平田は次のように書いている。

“ギリシャの人々は、おそらく、対話の必要性を、直感的に感じたのではないだろうか。対話を通じて、コンテクストの擦り合わせ、その共有をはかっていくことのみが、この新しい社会制度を維持する方策だと思い至ったのではあるまいか。
 同時期に、プラトンを代表とする、対話を前提とした哲学を生み出す”(『演劇入門』P199)。

 言うまでもなく、古代ギリシャのアテネは、現代にまで連なる、演劇と哲学の両方の源泉である。その両者を生み出したのが、「対話の必要性」であり、その必要性を促したのが、「この新しい社会制度」、すなわち民主主義だったのである。

 民主主義が演劇と哲学を必要とした、そしてそれらが、言うまでもなくコミュニケーションと教育のための強力なツールであることを思うとき、2千数百年を隔てた古代ギリシャが、現代と直結することを感じる。

 前回言及した哲学者の山口裕之は、「民主主義とはすべての市民が賢くなければならないという、無茶苦茶を要求する制度」(『人をつなぐ対話の技術』日本実業出版社、P146)と言う。

 山口は、決して「民主主義」を貶めているわけでもなければ、実現不可能と投げ出しているのでもない。「民主主義」は、人間の生得的(ア・プリオリ)な能力で自然に成立する制度ではない、と言っているのだ。「民主主義」を成立させるために不可欠なのが、学生の「対話の技術」を磨くことであり、敢えて言えばそれが「教育」のすべてであり、そのための場こそ、大学という山口のホームグラウンドなのである。

 平田オリザも同じく、日本各地で教育実践に関わっていく。

 

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第213回(2021/2)なぜ「演劇は「対話」の、この上ないモデルである」のか?

戯曲を書く難しさ

 平田オリザは、『演劇入門』(講談社現代新書、1998年)で、まずなぜ戯曲を書くことが難しいのか、を説明する。それは戯曲という表現形式が、基本的に舞台での上演を前提していること、言い換えれば、舞台での上演がその最終的な完成態であることから来る。演劇の持つさまざまな制約が、戯曲を書く上での制約を生み、それが戯曲を書く難しさの原因となる。

 演劇とは、舞台に登場している人間が話す言葉によって、物語を進行させていく芸術である。そしてその言葉は、おおむね同じ舞台に登場している別の人物に向けて発せられる。だから、戯曲の言葉は、「会話」か「対話」である(『ハムレット』のように傍白が効いている名作戯曲もあるし、一人芝居というジャンルも勿論あるが、それらについては今は置く)。このことが、戯曲の第一の制約となる

 第二の制約は、演劇が舞台という固定された場で上演されることである。劇場という閉鎖空間の中で進行することである。このことは、観客席と舞台の連続性、一体感を醸成し、演劇のアドヴァンテージであるのだが、一方、戯曲中で起こる出来事の場を、1つの――舞台転換が可能とは言ってもせいぜい4、5箇所の――場所に限定しなくてはならないという制約となる。この制約は、自由に動かすことのできるカメラが捉える多くのシーンで、ストーリーを継時的に展開できる映画やテレビドラマには無い。

 そのことを踏まえて、平田は言う。

“小説や映画のように、だんだん状況が判っていくという形式、だんだん謎が解けていくという展開は、演劇にはあまり向いていないだろう。
 戯曲の場合には、その戯曲、その舞台作品が、「何についての」戯曲、「何についての」作品なのかということを、できるだけ早い時期に観客にうまく提示し、観客の想像力を方向づけていくことが重要になる”。(『演劇入門』P69)

 「ネタバレ」こそが、戯曲には不可欠だというのだ。このことは、小説や映画とは真逆である。小説の帯、映画のチラシには、「結末は誰にも話さないでください」と書いてある。なぜ、そうなるのか?

 それは、実際にはさまざまな場所で起こる多くの出来事を1箇所(あるいは、せいぜい数箇所)の出来事の中に塗り込めていかねばならない演劇において、劇作家は、ストーリーの中で、ある特定の象徴的なシーンだけを抜き出して舞台を構成し、その前後の時間については、観客の想像力に委ねなければならないからである。観客の想像力を喚起する台詞を書くことが、劇作家の技術なのである。(同P65)(注)

 空間的な制約だけではない。長い時間をかけて起こったことを、せいぜい2時間前後の出来事の中に集約していかなくてはならない。この制約については、長さが自在な小説はともかく、映画でも同様であるといえるかもしれない。だが、実際に舞台と客席に同じ時間が流れている演劇と比べ、映画は時間の使い方がより自由で、少なくとも撮影段階では観客との同時性を意識せずに済む(尺を決めるのに苦労するのは、編集段階)。 

 

演劇における「対話」の創出

 一方、劇作家に大きな制約を及ぼすこれら演劇の形式は、同時に演劇の武器でもある。“生身の観客がそこにいるということは、逆に観客の側から観れば、生身の俳優がそこにいるということだ。この生身の俳優が観る者の想像力を喚起する力は、映像の比ではない” (同P68)。

 「観る者の想像力を喚起する力」を持つのは、リアルな台詞である。直接耳に入ってくる台詞が不自然なものであれば、観客も想像力の羽をはばたかせることは出来ない。

 単にリアルであるだけではダメである。舞台上で発せられる台詞は、観客の想像力を劇作家の設定したプロットに沿ってはばたかせるものでなければならない。演劇的な制約によってすべてを直接表現することは出来ないが眼前で繰り広げられる劇の重要な背景や状況を想像させる台詞が、必要なのだ。即ちリアルにして必要十分な情報量を持つ台詞が、である。

“古今東西の名作と呼ばれる戯曲は、必ずその演劇の冒頭に、確実に内部の登場人物たちが抱える問題が、自然な形で提起されている”。(同P61)

 たとえば、

“『忠臣蔵』における最も重要な場面は、「松の廊下」から赤穂城明渡しをめぐる「大評定」までである。ここでの問題的の巧みさが、『忠臣蔵』を不朽の名作とした”。(同P71)

 平田は他に、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』で二人の若者がドラマの最初で恋に落ちる場面を挙げている。シェイクスピア『ハムレット』の冒頭、ハムレットが父王の亡霊と遭遇し、父が暗殺されたのではないかと疑い始める場面もそうだろう。

 しかし、冒頭からお芝居の骨格を観客に示すという作業を、リアルな台詞で行うことは、想像以上に、難しい。

 舞台に登場する人物のプロフィール(年齢、職業、関係など)が語られることは、リアルな日常会話ではほとんど無い。特に親密な関係にある当人同士の会話では、ありえないと言っていい。仮にそれを話題するとしたら、ふざけているのか、記憶喪失かと疑われるだろう。

 そこで劇作家が利用するのは、「会話」ならぬ「対話」である。

 前回引用した、平田による「会話」と「対話」の区別を再確認しよう。

 『演劇入門』では、次のように定義されている。

対話(dialogue);他人と交わす新たな情報交換や交流、他人といっても、初対面である必要はない。お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物という程度の意味
会話(conversation);すでに知り合っている者同士の楽しいお喋り(『演劇入門』P121)

 即ち、対話にまず必要なのは、〈他者〉なのである。但し、相手に何の関心もないような全くの「赤の他人」同士では、「対話」は始まらない。少なくともどちらか一方が、当初は相手のことをよく知らないが、知る必要がある、知りたいと思っているという状況が必要である。

 そのために、そのような〈他者〉が登場する〈場〉を、劇作家は設定する。平田は、その〈場〉として、プライベート(私的)な空間でもパブリック(公的)な空間でもない、半公的(セミパブリック)な場所を選ぶことが多いという。あるいは、プライベートもしくはパブリックな空間におけるセミパブリックな時間を。(同P54)

 平田自身の戯曲で言えば、前者の例としては、「大学の実験室の隣の、ロッカーなどが置いてある学生たちのたまり場」「温泉宿のロビー」「サナトリウムの面会室」が、後者の例として、「通夜の晩の旧家の茶の間」、「ヨーロッパが戦争状態になっていて、有名な絵画がどんどん日本に避難してきている、美術館のロビー」が挙げられる。

 劇作家は、いかに舞台の上で「他者」同士が出会い、言葉を交わす状況をつくるかに苦心し、工夫を重ねているのである。平田が「私がこれまで示してきた戯曲を創るための手続きは、突き詰めれば、「対話」を産み出すための手続き」(同P140)と総括する所以である。

 

登場人物と観客の視線が重なったとき、対話が始まる

 こうした苦心や工夫は、できるだけナチュラルな台詞で「現実」と思わせるリアリズム演劇のジャンルだから要求されるのか、というとそうではない。

 例えば、たいてい「不条理劇」の範疇に入れられる別役実作品には、親しげな二人が、当人たちにだけわかっているような(つまり、当初観客には何について話しているのかよくわからない)「会話」を交わしながら舞台上で何らかの行動をしているところに、もう一人の登場人物が現れ、二人の奇妙な「会話」と行動が気になり始めて声をかけるという場面を冒頭に持つものが多い。平田が明かす劇作法の「タネ」を、なんの虚飾もなく見せられるかのようである。

 40年以上前のことだが、千葉市で行われた高校演劇の全国大会に観客として参加した時、審査員を務めた別役実が、自身の作品を「抽象劇」と括られた際、憮然として、「私は、リアリズム劇を書いているつもりですが」と返したことが、ぼくにはとても印象的で、今でも鮮明に覚えている。

 三番めの登場人物が声を発する瞬間、自然と観客の目線は、彼/彼女のそれと重なる。観客は舞台の外にいながら、既にその意識は、舞台に乗っているのである。最初の二人のどちらかが答えた時、今度は「対話」が始まるのだ。

 その時同時に、観客席と舞台の対話が、観客と作品との対話が始まる。時折その対話が直接的なものとして現前するのが、例えばハムレットの傍白かもしれない。

 演劇は、ストーリーを展開させるために、「対話」を必要とする。そして、様々な制約を伴いながら発せられる「対話」が、作品と観客の「対話」を生み出す。ぼくが前回、「演劇は「対話」の、この上ないモデルである」と言ったのは、演劇のこの消息によるのである。

(注)この差異を逆手にとって、敢えて演劇的構造をテレビドラマに使って成功したのが、『刑事コロンボ』、『古畑任三郎』などの倒叙推理ものである。それらは、場面数も限定されていた。

 

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