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福嶋聡「本屋とコンピュータ」第192回掲載

福嶋聡「本屋とコンピュータ」第192回掲載

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*57回までのコラムは当社刊『希望の書店論』に、2014年~2016年にかけての主なコラムは『書店と民主主義』に収録しています。

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)


○第192回(2018/9)

 「GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)」が世界を支配しているのは、彼らが膨大な「個人情報」を掌握しているためである。そのことへの対抗策として、EUが「GDPR」を制定したことを、前回見た。

 それでも、「GAFA」の強大な力を前に、そして日々データを収集される日常に既にぼくたちが(自ら進んで)取り込まれていることを思うと、大きな無力感を抱いてしまうのも事実だ。ぼくたちは、この「すばらしい新世界」(ハクスリー)から、脱出することなど出来るのだろうか?

 「GAFA」の最大の武器は、ネット販売で買ったもの、調べたもの、検索した情報によってプロファイリングされたわれわれ一人ひとりの「アイデンティティ」である。それによってなされる個々人への広告の有効性こそが、莫大な利益の源泉なのだ。時にはその「アイデンティティ」そのものを国や諜報機関に売ることも自身の存在を盤石なものにしているのかもしれない。

 ならば、その「アイデンティティ」の「真実性」「確からしさ」そのものを揺るがし、「アイデンティティ」そのものを無効化することこそ、最大の反抗ではないか?つまり、自分が「何者か?」を容易に判断できないように行動すること。プロファイリングの稼動そのものを不可能にしてしまうこと。

 そんなことが出来るのだろうか?

 そうした行動を、生業とする人たちがいる。役者である。舞台やスクリーンの上で彼らは様々な人間を生き、それぞれの人格に基づいて行動する。

 それは、演技しているだけではないか? 舞台やスクリーンを離れたとき、その役者の「真のアイデンティティ」があるのではないか?

 確かに、個々の役者に統一感のある自己意識は存在するだろう。だが、彼らが演技するとき、彼らは嘘をついているのではない、役に「なりすましている」のではない。彼らは、彼らの自己意識を維持しながら、役の状況を引き受けているのである。役の状況を完全に引き受けることのできる役者が、名優なのである。少なくとも観るわれわれにとって、彼らが演じる役以外に、ヘンリー・フォンダや大杉漣(※)が存在するだろうか?

 そして、誰にとっても「アイデンティティ」とは、自己意識ではなく、引き受けている状況なのである。日常生活の中で演じる役割こそ、個々の「アイデンティティ」と呼ばれるものなのだ。

 だが、役割から離れた「個性」というものが存在するのではないか? われわれは、われわれ自身無自覚なその「個性」を、無意識をもプロファイルされているのではないか?

 「個人情報」として収集され、プロファイルされるのは、個人をめぐる状況である。その「アイデンティティ」に固執することが、被支配に繋がっている。

 もっと言えば、選び取ったさまざまな役割とその状況を捨象したあとの「個性」というものは、無い。東洋思想的、禅的と言われるかもしれないが、生まれたときのことを考えればよい。すべての状況を捨象した「個性」とは、「無」のことなのである。

 では、人間とは状況によってすべてが規定される存在なのか? 畢竟、「状況の奴隷」なのか? 「自由意志」は幻想か?

 “リア王は愛する娘に欺かれる老父の悲哀と憎しみを、マクベスは野心家の不安と恐怖を、ハムレットは志を得ざる王子の憤りと狂気を演じたかったまでである”。

 福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』で、シェイクスピア劇を論じながら、このように言っている。人間には自らが演じる役割を選択する欲求がある。彼が論じる悲劇においてさえ、否悲劇においてこそ、主人公は破滅へと向かう自らの役割を選択する。偶然による必然に、自由意志によって身を委ねる。だからこそ、人々は悲劇を好んで鑑賞し、主人公に感情移入し、喝采を送るのだ。

 “私たちは、自分の生が必然のうちにあることを欲している。自分の必然性にそって行きたいと欲し、その鉱脈を掘りあてたいと願っている。劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の芸術作品に仕たてあげたいということにほかならぬ。この欲望がなければ、芸術などというものは存在しなかったであろう。役者ばかりではない。人間存在そのものが、すでに二重性をもっているのだ。人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。”

 必然と自由の二重性は、演劇の本質である。それは、そこで演じられる役にとってそうであるだけでなく、演劇というものを成立させる役者や観客の本質でもある。その二重性は、演劇における時間の二重性=「過去」や「未来」が「現在」に収斂することを結果する。

 “劇においては、つねに現在が躍動しながら、時間の進行にともない、過去と未来とを同時に明していく。現在のうちにすべてがある。いま起こりつつあるもののうちに、すでに行こったものと、これから起こるであろうものとが。この二重性が時間の法則である”。

 このことが可能になるために、役者にはある種アクロバティックな「演戯」が要請される。

 “役者は劇の幕切まで自分のものにしていながら、その過程の瞬間瞬間においては、そのつど未知の世界に面していなければならぬ”。

 役者は、劇の幕切れを予め知っている。そこに至るまでの自分の台詞、相手役の台詞もすべて頭に入っていなければ、演戯はできない。だが、舞台の上では、台詞を含めた出来事がすべて初めて出会ったもの、未知のものでなければならない。同じ劇を何度も観て、何度も感動する観客もまた、その点では役者と同様である。

 この役者の本質を、シェイクスピア劇では役そのものが体現している。その典型が、ハムレットである。ハムレットは、自らの運命を予知している。あるいは舞台上の物語が始まる前に、その運命は定められている。彼は、未来において得る筈だった王位を簒奪された「王子」なのである。それでも、彼はそのことに絶望して厭世的になったり、自殺したりはしない。他の登場人物と、多くの場合諧謔的に交わり、時には狂人のように振る舞う。彼は、「王位を簒奪された王子」という役を、主体的に演じようとしているのだ。まさに、役者である。福田が、シェイクスピア劇を「演劇の演劇」と呼ぶ所以である。

 例外は、有名ないくつもの独白のシーンだ。ハムレットが独りになったとき、かれはその諧謔性をかなぐり捨てる。極めて自省的となり、時に自己否定的・自己攻撃的であり、自己破壊的でさえある。舞台の上には、それを見る「観客」がいないからだ。それも、役者の本性である。多様な役をこなす役者の仕事とは、自己のアイデンティティを破壊し続けることだからである。

 多様で時に真逆である人物を演じる役者、多様な状況(役割)を引き受け続けながら、自己のアイデンティティを破壊し続ける役者のプロファイリングが、可能だろうか? コンピュータが、AIが論理的で緻密に計算しようとすればするほど、その結果は「解無し」か、「続行不能」に陥るのではないか?

 膨大な個人情報を一部企業に独占されたディストピアから脱出、或いはむしろその状況を生き抜くための手段が、「役者であること」と思う所以である。

 だが、皆が役者であるわけではない。役者とは特異な才能をもった、一握りの人間に過ぎないのではないか? その生き方を、他の殆どの人に提案、要求するのは無理ではないか?

 そうは思わない。なぜなら、同じ芝居を繰り返し観に行く観客がそうであったように、誰しも役者的な生き方をしている。敢えて言えば、人間は役者的にしか生きられない。何故なら、人間はいずれ死を迎え、そしてそのことを知っているからだ。死という終幕を予め知っていながら、なお「いま」を生き続けることができるのは、人間が本質的に「役者である」からではないか。

 このことは、AI(人工知能)と人間の決定的な違いである。羽生善治は、AIには「時間の概念がない」と言った。それは、AIには、死が、少なくとも死の自覚が無いからではないか、とぼくは書いた。死を自覚しない存在には、時間のを概念を持つことは出来ないのではないか、と(本コラム第175回)。

 人間は、死を自覚し、時間の観念、すなわち過去―現在―未来を持つからこそ、逆に過去と未来を現在に収斂させて生きていくのだ。終幕までの出来事と台詞をすべて知り尽くしている役者のように。

 『どうせ死ぬのになぜ生きるのか―晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義』(名越 康文著 PHP新書 2014年)がよく売れたのは、実に卓越したタイトルによると思う。それは、万人が抱かざるを得ない問いだからだ。そして、その問いの答は、人間が「役者的」であるから、だと思う。

 だから福田恆存は、『人間、この劇的なるもの』と言い切ったのである。

  (※)ジョン・ウエインや高倉健は、役者のイメージが役のキャラクターに勝ってしまい、演じる役がある範囲に限られる。ここでは、ヒーローから悪役まで幅広い役を演じた二人を選んだ。

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