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福嶋聡「本屋とコンピュータ」第183回掲載

福嶋聡「本屋とコンピュータ」第183回掲載

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*57回までのコラムは当社刊『希望の書店論』に、2014年~2016年にかけての主なコラムは『書店と民主主義』に収録しています。

福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)


○第183回(2017/12)

 マルクスによれば、資本の活動の目的、資本の存在理由、資本の本質は、自己増殖である。そして資本の自己増殖を実現するのは、労働者の剰余労働による剰余価値である。資本が剰余価値を生むのは、まず労働者が資本家に、労働力という特殊な商品を売るからである。

 では労働力を持つ労働者が自ら労働力を使い剰余価値を生み出し得るかというと、それは出来ない。資本家が労働力を買う時に支払う対価、即ち賃金は、労働力の再生産(=生きること)に必要な額に留まり、労働者は、労働力によって剰余価値を手に入れるのに必要な生産手段(原材料、生産機械など)を入手することは出来ないからだ。生産手段を有する資本のみが、剰余価値を手にすることができるのだ。

 初期の資本家たちが、より多くの剰余価値を獲得するために採用したのが、長時間労働である。生産手段のうち原材料の価値は生産物にそのまま転化されるだけだが、生産設備はそうではない。もちろん生産設備の価値も、減価償却という形で最終的には生産物に転化されるわけだが、より多くの生産物を生み出せば、一生産物あたりの償却金額は低くなり、資本家はより多くの利益を得られるか、市場競争力を増す。

 そして、連続的な稼働は、生産設備の効率的な利用にも繋がる。

 “その火を落とせば、再度の火入れと、必要な熱度を得るための時間の損失を生じ、また溶鉱炉自体も、温度の変化によって傷むであろう”。(『資本論』第8章 労働日 岩波文庫版P148 )

 “溶鉱炉、圧延工場等々、建物、機械装置、鉄、石炭等々は、鋼に転化されるよりも、より多くのことをなさねばならない。それらは、剰余労働を吸収するためにそこにあるのであり、そして、当然、24時間では、12時間よりも多くを吸収する”。(同P147−8)

 そこで、資本家は、購入した生産手段を最も有効に活用するために労働力を目一杯使い、連続的な生産によってより多くの剰余価値を得る。そのため、労働者は長時間労働を課される。あるいは昼夜交代制で生産ラインを止めないようにする(より低賃金の女性や子供も活用した)。

 それは、労働者にとっては大きな労苦だから、当然抵抗する。初期の労働運動は、労働時間をめぐって闘われた。マルクスは、かなりの紙幅をさいて、同時代イギリスの、労働時間をめぐる資本家と労働者の多くの闘争の事例を挙げている。(同 第8章 労働日 岩波文庫版P93−231)

 こうした状況は、19世紀の産業資本主義に特有のものに思われるかもしれない。植民地主義が進展し市場をどんどん広げていった時代には、産業資本の生産現場にできるだけ多くの労働者を集めて商品を増産することが、何より資本増殖の道だった。

 もとより、市場がほぼ開発し尽くされた今日、19世紀の資本の戦略が、同じように有効であるわけではない。また、労働法や児童福祉法が、かつてのような過酷な労働条件や児童の就労を許さない。まして小売業においては、マルクスが工場の生産現場に対して行った考察が当てはまるようには思えない。深夜に営業を続けても、昼間と同じように客が来て商品が売れるわけではなく、労働者が労働した分だけ剰余価値が発生するとは言えないからだ。ぼくは前回、書店も出版物生産プロセスの一部であると主張したが、マルクスが工場現場に対して行った考察を前にしたとき、それを撤回するように迫られるかもしれない。

 しかし、19世紀の工場主のDNAは、現在の流通業にも受け継がれてきている。店舗という「工場」をはじめ、販売を支える「生産」設備の減価償却は、使えば使うほど早いという面は共通している。家賃も設備代金も、稼働率、すなわち営業時間とは無関係だからだ。

 20世紀末以降、経営が厳しくなってくるにつれ、書店も営業時間が長くなってきた。定休日も減り、年中無休の店も珍しくなくなった。

 今日では労働法により休日数の下限は決まっており、残業時間も制限される。会社も、支給金額が上がる残業代は、できるだけ支払いたくない。そうなると、悪質なブラック企業でない限り、スタッフの必要数は増える。人件費を抑えたい企業は、勤務をシフト制とし、できるだけ効率のよい勤務時間を指定する。そのために便利な時給制のアルバイトの数が増え、正社員の率が低くなる。必ずしもアルバイトの能力が正社員より大きく劣るとは限らないが、協働することによって経験・知識・技能を伝達する時間が減るのは、間違いない。

 『飯場へ』(渡辺拓也著 洛北出版)では、大学院生である著者が、実際に飯場の労働者として働き、そこでの経験を仔細に記録したフィールドノートを元にまとめたもので、建設現場の労働者の姿が、いきいきと描かれている。建設現場には、労働現場には、寄せ場でその都度採用され一日毎に賃金精算がされる〈現金〉、飯場で生活する長期・短期の〈契約〉の労働者が集まってくる。さまざまな能力、経験の労働者が協働する。時に反目し合うこともあるが、〈現金〉〈契約〉にかかわらず、ベテランは新米を指導する。そうしないと、仕事が順調に進まないからだ。そうして、労働現場に共感や友情が、独特の文化が生まれる。

 同じ時間帯に協働することによって、そうした一種の師弟関係が生まれなければ、人を育てるのは容易ではない。それは、建設現場でも書店現場でも同じなのである。

 商品知識も接客技術も先輩から十分に伝達されていない書店員に接客された本好きの読者は満足できず、その書店から徐々に足が遠のいていく。顧客が減れば、売上が落ちる。ますます人件費を抑えなくてはならなくなる。

 そうした悪循環から脱するべく、書店現場に導入されたのが、POSレジや検索機を核としたコンピュータ・システムである。先輩がどこに並べたかが数字入力されているから、知識の無い者がお客様の問い合わせを受けても、本を見つけることができる、また、追加補充で入荷した本を間違えずに品出しすることができる。コンピュータを介して師の知識が弟子に伝達されるというわけである。

 だが、介在するコンピュータは、かなり強いフィルターである。数値化された情報からは、現実に起きていることのかなりの部分が抜け落ちるし、そもそも拾える情報自体が限られたものでしかない。POSデータは何がいつ売れたかという情報はあまねく拾うが、それ以外の状況は捨てられるし、売り損じた本の情報は直接には入らない。接客現場で先輩がどのようにさまざまな問題を解決しているか、お客様の反応はどうか、自分たちの対応として、どのような選択肢があったかなど、本が売れる(あるいは売り損なう)その現場にあってこそ、見て学ぶ、聞いて学ぶ、そして動いて学ぶことは多いのである。

 ベテランにとっても、新人と共に働く機会が少なくなるのは不便である。

 『飯場へ』によると、飯場労働者や寄せ場で集められた労働者の仕事の多くは、「手元」と呼ばれる、職人や技術者の下働きである。だが渡辺は、実際に建設現場での労働経験を重ねるにつれて、「手元」の存在の重要さを認識していく。

 “屋根の板を打ち付けたり、ベニヤ板を二階にあげたりというように、一人ではできないことがある。そういう時に必要なのはもう一つの身体なのだ。機械や道具より少し融通の利く人間の身体。誰かいないとできないことをするために、素人でもいいから「手元」を雇う。”

書店現場でも、「ああ、誰でもいいからちょっと手伝ってくれたら、随分はかどるのに」と思う場面は多い。ベテランにとっても、「手元」を使うことは、自身の仕事内容を分析し効率化すること、そして指示することによって自らが成長するきっかけとなる。仕事を支持されて動くだけの「手元」もまた、作業の流れと進捗状況を見ながら動かなくてはならないから、新人にとっても一つ一つの作業が勉強になる。

 「人間より少し融通の利かない」コンピュータは、「手元」にはなれない。むしろ、人間の方がコンピュータの「手元」とされる場合が多い。さまざまなシステムの度重なるヴァージョンアップ、ウイルスバスターの更新や入れ換え等、コンピュータのために人間の手が取られることが、しばしばある。正確を期さねばならない作業だから、店長やベテランがそれに当たることも多い。

 産業革命後の工場と同様、機械(コンピュータ)の動きに合わせて人間が働くようになりつつあるから、コンピュータが重く(遅く)なったり、止まってしまっては、人間は為す術もなくなることが少なくない。職人や技術者、上司や先輩の的確な指示が与えられない時の、建設現場の「手元」と同様に。

 コンピュータの「手元」として、商品そのものの吟味(読書)はおろか、自らの本来のフィールドである書棚を見るための時間をも削がれると、ベテランの成長も阻害される。書店は、商品内容が、読者需要が目まぐるしく変わっていく現場であるから、それは致命的である。棚の「手当て」が疎かになり、店頭は荒れ、読者の期待との乖離が大きくなってしまう。

 コンピュータを、万能だと思ってはいけない。

 2017年末に翻訳が刊行された『官僚制のユートピア』(D・グレーバー著、酒井隆史訳 以文社)という大変面白く刺激的な本(ぼくの中では、文句なく年間ベスト1だ!)で、D・グレーバーは、現代が「全面的官僚制化」の時代だという。超官僚制国家であったソ連の崩壊後も、官僚制化の勢いは止まらない。官僚制化の流れは、社会主義国家の建設という壮大な実験の中に生まれたのではなく、むしろ1945年、アメリカがヘゲモニーを握ったときに本格化していった。官僚制の対極にあるかに思えた新自由主義は実は官僚制の揺籃器であり、20世紀後半の主役へと育っていったコンピュータやインターネットは、官僚制と強い親和性を持っていたのだ。コンピュータも官僚制も、夥しい規則と規制によって成立し、書類作成を主要な任務としている。両者が時代の駆動機として前面に出て来るに従って、犠牲にされたのは人間の想像力だとグレーバーは言う。その結果、半世紀前に想像された未来図が、全く実現していないのだ、と。インターネットがある?「世界のどこからでも超高速でアクセスできる図書館と郵便局とメールオーダーのカタログ」に過ぎないものを、どうしてそんなにありがたがるのか?空飛ぶ自動車が、まだどこにもないじゃないか!

 グレーバーにこう指摘されると、ある世代以上の人たちは、今から4,50年前の21世紀の予想図に描かれたものが、実は何も実現していないことを思い知るだろう。誰も今日の段階で、その全部とは言わないまでも、一切が存在していないとは、夢にも思っていなかった筈だ。

 規則と規制と書類作成(ペーパーワーク)によって、(文系・理系を問わず)科学者の創造力が育たず、蝕まれる。それ以外の人びとの想像力も破壊される。

  そうした世界では、誰も未来を夢見ない。今あるものの、今ある世界のマイクロチェンジで満足する。

 そのような世界では、革新、革命の可能性は無い。だから、生活意識調査に「今が幸せである」と答えるしか無い若者が増えているのだと、大澤真幸は嘆ずる(『可能なる革命』太田出版)。

 時代が動かなくては、書店員の成長もなく、時代を映す書店風景も変化しない。変化していかない書店に置かれた本たちが、時代を動かすことも、ない。

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