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講演録「熊取六人組と批判的科学」小出裕章

熊取六人組と批判的科学

小出裕章

*2016年11月11日に行われた『脱原発の哲学』合評会(慶應義塾大学、書評者は西山雄二、渡名喜庸哲、岩田渉、応答者は佐藤嘉幸、田口卓臣)における小出裕章氏の講演を、以下に再録する。

(図版入りのPDFはこちらからご覧下さい→


『脱原発の哲学』という大変膨大な書籍を、佐藤嘉幸さんと田口卓臣さんが書いてくれました。この本は、単に哲学の問題というよりは、人間の歴史の中で今という時代がどういう時代であるか、そしてそれを超えることができるか、という大変根源的な問題を提起しています。今日はその議論をしてきたわけですが、その議論を続けようと思えば徹夜しても足りない、という大変重要な問題だと思います。

その問題に関連して、私に与えられたテーマは「熊取六人組と批判的科学」ですので、それに沿って聴いていただこうと思います。その話をする時に、私にとって一番重要だと思われるのは、「責任」です。人間としての責任、その取り方はどうあるべきなのか、ということです。それについて聴いていただくためには、特に日本というこの国では戦争責任をどう取ったのか、という問題に遡る必要があるだろう、と私は思います。


曖昧にされた戦争責任

先の戦争中、大日本帝国では、現人神の天皇がいるから戦争には必ず勝つのだ、だから一億総火の玉となって鬼畜米英を撃滅しよう、と教育されました。すべてのマスコミがそれに加担しました。個人の自由よりも国家の方が重要だと、徴兵を拒否するようなことがあれば即刑務所に行く、一族郎党はみな非国民のレッテルを貼られて、ごく普通の人々によって弾圧される、というよりは、自分が優秀な日本人であると思っている人々ほど弾圧に加わる、という時代があったわけです。

敗戦を受けて、今度は一転して米国型民主主義が賛美され、子どもたちに「お国のため、天皇陛下のために死んで来い」と教えていた教師たちは、一斉に教科書に墨塗りをして米国型民主主義を謳い、マスコミも一斉にそれに倣いました。

天皇は人間宣言をして生き残りましたが、戦争責任を問わることはありませんでした。天皇はいまだに敬うべき対象とされ、教育もそのように教え、マスコミも政府もそのように振舞っています。マスコミは皇室の発言を「お言葉」として、皇室は「誰々様」と報道します。

なぜそうなったかといえば、大日本帝国という強大な権力が犯した権力犯罪はより強大な権力によってしか処罰されないからです。そして、大日本帝国より強大だった米国は、戦後日本を支配するために、天皇を利用する道を選んだからです。だから天皇は処罰もされないし、いまだに日本国民は天皇が偉いと思っている、と私は思います。


巨大な権力組織が進めた原子力

それと全く同じことが、私が生きてきた原子力の場で起きてきました。日本では、国が「原子力平和利用」という言葉を作ってその夢をばらまき、原子力損害賠償法、電気事業法などのさまざまな法律を作って、とにかく原子力をやればもうかる、という法的な基盤を作って、電力会社を原子力発電に引き込みました。

その周囲には、三菱、日立、東芝など巨大原子力産業が利益を求めて群がり、さらにゼネコン、中小零細企業、労働組合、マスコミ、裁判所、学会など、すべてが一体となって巨大な権力組織を作り、原子力を推進しました。先の戦争の時と全く同じ構図を、原子力は作ってきたのだと思います。

そして残念ながら、2011年3月11日に、福島第一原子力発電所事故が起きてしまいました。しかし、その責任は全く曖昧にされたままで、彼らのうち誰一人として責任を取っていないし、取ろうともしないし、処罰もされていません。

なぜそれが許されるかといえば、これも先の戦争の時と同じように、権力犯罪は、より強大な権力によってしか処罰されないからです。そして、より強大な権力があるのかといえば、ありません。仮にあるとすれば米国ですが、米国は日本を原子力に引き込むことで金儲けをしようとしてきた国ですから、決して日本を処罰することはありません。ですから、誰も処罰されないまま生き延びる、という構造になっています。


科学の社会的な意味を問う責任

そんな時に、一体どんな責任が生じるのでしょうか。人類の歴史を考えてみると、戦争の歴史が長く続きました。昔の戦争では、刀や槍を使って一人ひとりが相手を殺していました。戦いに勝って相手を殺した側にも、心に大きな傷を受けました。

しかし、科学が発達し、今ではたった一発の爆弾で何万人、何十万人もの人を殺せます。また米国では、無人操縦の爆撃機、戦闘機で、まるでTVゲームでもするかのように、地球の裏側の人々を殺せます。

科学の進歩はそれだけではありません。科学は、産業革命以降の爆発的なエネルギー浪費を支えました。原子力もその一つです。しかし、それによって今や、地球上の生物がどんどん絶滅に追い込まれ、地球の生命環境自体が破壊の危機に瀕するようになりました。

科学というと、何かすばらしいもの、美しいもののように思われるかもしれません。確かに、科学は未知のことを知りたいという欲求に根ざしているわけですから、その欲求を抑えることは多分できないだろう、と私は思います。ただし、科学の発展の方向は往々にして権力によって決められてきました。例えば、戦争のために便利な技術を開発しろ、原子力の技術を開発しろ、そのためには金でもなんでもばらまく。そうやって、科学をある一定の方向に引っ張っていく、ということが長い間続いてきました。

そうであれば、科学に携わる者、私のように原子力に携わってきた者は、自らが関わる科学が持つ社会的な意味について、十分に考えて明らかにする責任があることを知らなければなりません。


“異端”の研究者たち——熊取六人組

そこで、熊取六人組の話をさせていただこうと思います。

この写真は、毎日放送という大阪ローカルのテレビ局が作った「映像’08——“異端”の研究者たち」という番組です。私たちのことを取り上げて、京大原子炉実験所「 “異端”の研究者たち」という番組を作ってくれたわけです。ここに写っている何人かがそうなのですが、海老沢徹さん、小林圭二さん、すでに亡くなってしまいましたが瀬尾健さん、川野眞治さん、今中哲二さん、そして私です。これは1970年代の後半の写真だと思いますが、いまから40年ほど前のもので、私自身もまだまだ若かった頃です。愛媛県の伊方というところに原子力発電所が建てられるという時に、国を相手に全面的な論争をしようということで始めた伊方原発訴訟の弁護士と学者グループの写真です。

そして、いま見てきた六人が「熊取六人組」というレッテルを貼られてきたわけですが、なぜそういうレッテルになったかというと、中国の文化大革命の「四人組」に由来しているのです。プロレタリア文化大革命、略称「文革」というものがありました。毛沢東が始めたもので、中華人民共和国で1966年から1976年まで続きましたが、中国共産党内部の中で大きな路線対立があり、殺し合いのようなものまで起きて、1977年に終結宣言がなされました。

文革が失敗して、結局、文革を進めた人間——もちろん毛沢東が主謀者だったわけですが——である、江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人が、「四人組」というレッテルを貼られて、極悪人として断罪されました。それを取って、私たちは「熊取六人組」というレッテルを貼られたわけです。「熊取」とは、私たちの職場、京都大学原子炉実験所のあった大阪府泉南郡熊取町のことで、その熊取に極悪人の六人がいる、ということで、この名前が付けられました。

その六人組の正式名称は「原子力安全研究グループ」です。原子力の安全を自分の問題として研究しようと思ってきた六人が集まってこのような名前が付いたのですが、皆さんは「熊取六人組」と呼んでいました。この六人の生まれた年を書くと、海老沢さんが1939年、小林さんも1939年、瀬尾さんが1940年、川野さんが1942年、私は1949年、今中さんが1950年です。川野さんと私の間に一本の線を引きました。上の四人と、私を含む下の二人は約10歳違っています。どうしてこの四人とこの二人が集まったのでしょうか。上の四人は大学時代に60年安保闘争を経験し、私と今中さんは大学時代に70年安保闘争と大学闘争を経験した、という人間がこうして集まったのです。学生時代という自由にものを考えることができる時代に、とても重要な社会的な問題に出会うことができた、そういう人間が集まったということです。

その六人組は京都大学原子炉実験所にいたわけですが、原子炉実験所は1960年12月に熊取町というところに作ることが決まりました。京都大学の施設ですから、京都の街中に作るのが本来なのですが、如何せん「原子炉実験所」という名前が示す通り、そこには原子炉がある。人の住んでいるところに原子炉など作ってはいけない、ということで、京都の街中に建てることはできませんでした。京都大学は、宇治に教養部があり、そこに広大な敷地を持っていたので、宇治に作ろうとしたのですが、そこも人が住んでいるから駄目と拒否されました。そこで、どこに作ろうかということで、関西一円を探し回りました。高槻、交野、四條畷などを狙っていくのですが、どこも人が住んでいるから駄目と断られ、流れ流れて、結局、大阪府泉南郡熊取町という、もうすぐ和歌山というところに作りました。それも、土地をだまし取るようにして、10万坪という広大な敷地を確保しました。地元と安全協定を結んで、公文書として判までついているのですが、その安全協定には「原子炉実験所からは放射能を空気中にも排水中にも一切流さない」と書いてあるのです。そんなことはできる道理がありませんので、私は土地をだまし取ったと常に発言しています。

1963年に原子炉実験所という組織が設立されました。海老沢さんと小林さんは、設立直後の1964年4月に入所し、彼らが職員組合を作りました。その年の6月にようやく原子炉が臨界に達します。その頃に、海老沢さん、小林さん、その他の、社会的な問題を考えようとする人たちがいて、原子炉実験所の中に組合と同時に「現代思想研究会」という研究会を作り、さまざまな社会的な問題を考えようという活動を開始されました。そして、1966年に瀬尾さんが入所する。そして、その年に東海原発が動き始め、原子力はこれからだという時代に彼らはぶち当たってしまった。その頃、学生闘争が始まり、私や今中さんはそれを学生として受け止めた。1969年には川野さんが入所します。これで、私より10歳年上のグループが集まったわけですが、1970年3月、11月には敦賀原発、美浜原発が動き始めます。

1973年8月に伊方原発訴訟を始めることになり、熊取六人組の年上の四人は、この段階から伊方原発訴訟に関わっています。

そして、私は翌年1974年に入所し、2年後の1976年に今中さんも入所して、これでいわゆる「熊取六人組」というグループが完成したわけです。伊方原発訴訟も続いているわけで、六人はそれぞれの専門性を活かしながらそれに関わって、ほとんど全員が証人になって出廷しています。自分で言うのもおかしいのですが、もちろん国側からも東大教授などのたくさんの専門家が出てきて、法廷を通して論争をするのですが、私たちの圧勝でした。完膚なきまでに私たちが勝利して、国の言っていることがいかにデタラメなのかということを立証した、と私は思っています。しかし、判決は敗訴でした。私はその段階で、日本という国には三権分立などない、ということを痛感しました。

その後、原子力という世界では、1979年3月に、米国のスリーマイル島原発で事故が起こりました。1986年4月には、旧ソ連のチェルノブイリ原発で事故が起こりました。さらに、1995年12月にはもんじゅ事故が起き、1999年9月には東海村の核燃料加工工場JCOで事故が起きる。そして、2011年3月には福島第一原子力発電所で事故が起きる、ということで、六人組が活動を始めてからは、どんどん事故が続発する、という時期に入ってきます。私たちが伊方原発訴訟で主張したことが一つひとつ順番に事実として起きてしまう、ということになってしまいました。大変辛い歴史でした。きちんと言った、きちんと立証したのに、また事故が起きる、ということを経験しなければならない日々が続いていました。


福島第一原発事故

そして、福島第一原子力発電所の事故ですが、『脱原発の哲学』の中で非常に詳細に書いてくれています。佐藤さん、田口さんは哲学の専門家であるのに、よくここまで自然科学のことを書いてくれたな、と思うほど、彼らが詳しく書いてくれています。膨大な量の放射性物質が既に放出されてしまったのです。IAEA(国際原子力機関)——つまり原子力を推進する国際的な親玉で、犯罪者集団のトップです——に対して日本国政府が出した報告書の中で、どんな放射能がどれだけばら撒かれたかを数字で示しています。その数字の中から、大気中に放出されたセシウム137の量を見ていただきたいと思います。

左の下に黄色い四角を書きました。これは、広島で原爆が炸裂した時に大気中にばら撒かれたセシウム137の量です。8.9×1013ベクレルという量です。では、福島第一原子力発電所の事故はどれだけのセシウムを放出したと日本国政府が言っているのかを見れば、このようになります。つまり、1号機だけで広島原爆6発分から7発分、2号機が一番悪くて、広島原爆157発分、そして3号機も広島原爆8発分ばら撒いた。2011年3月11日に運転中だった1号機、2号機、3号機を合わせると、全部で1.5×1016ベクレルのセシウムをばら撒いたと、日本国政府が言っているのです。私はこれは過小評価だと思っています。日本国政府は犯罪者なのであって、彼らが自分たちの罪をなんとか軽くしたいと考えて示したのがこの数字だと私は思いますので、多分これは過小評価です。国際的には、放出量はもっと多いと評価している研究機関もたくさんあります。この放射能量は、広島原爆に換算すれば168発分になるのです。広島原爆1発分の放射能だって猛烈に恐ろしいものです。それが、原子力発電所が事故を起こしたら、その168倍の放射能を放出してしまったと日本国政府が言っている。そして、今この瞬間も、海に向かって放射能がどんどん流れて行っているのです。広島原爆何百発分という放射能をもう既にばら撒いているし、それを制御することもできないままいまもばら撒いている、そういう状態が今も続いています。つまり、福島第一原子力発電所の事故は、広島原爆何百発分、場合によっては一千発分の放射能をばら撒き、今もばら撒き続けている、という事故なのです。

大変危機的な事故が進行している、と本当は思わなければいけない、と私は思うのですが、残念ながら日本では、そんなことはもう忘れ去られようとしています。でも残念ながら事故は起きたし、汚染もあるのです。どんな汚染があるかといえば、これも日本国政府が作った地図ですが——『脱原発の哲学』の中にちゃんと載っています——、ここに福島第一原子力発電所があって、北西の方向に赤、黄、緑の色が塗られたところがありますが、ここが猛烈な汚染地帯なのです。なぜこんなことになったかといえば、放射能の雲が流れてきた時に、この地域で雨と雪が降ったのです。皆さんは、『黒い雨』という井伏鱒二さんの小説をご存じだと思います。広島で原爆が炸裂して、キノコ雲から猛烈な雨が降ってきた。その雨が広島の街の白い土壁に降りかかったら、黒い筋になって残った。つまり、雨が死の灰、放射能を強く含んだ状態で降ってきて、それが黒い雨になった、そして人々が被曝をした、ということを扱った小説ですけれども、ここでそのことが起こりました。放射能の雲が雨と雪で洗い落とされて、地上が猛烈に汚れてしまった、というのがここなのです。

この猛烈な汚染地域から、10万人以上の人たちが強制避難させられました。もちろん住んではいけません。避難させなければいけないのです。しかし、避難というものを皆さん分かっていただけるだろうか。例えば、今日皆さんはこの場に来てくださって、この集まりが終わったら皆さん自宅に帰るつもりでいるはずです。明日はどんな仕事をしようか、来月はどんなことをしようか、来年にはこんなことをやってみたい、とみんなそれぞれ計画を持って、日常の生活がずっと続いていくものだと思ってきたはずだし、今皆さんもそう思っているでしょう。でも、汚染地域の人々は違うのです。ある日突然出て行けと言われたのです。家もなくなる、仕事もなくなる、子どもたちは学校もなくなる、友達もなくなる、地域のつながりも全部ズタズタにされて散り散りになって放り出されたのです。そして、既に事故から5年8ヶ月が過ぎていますが、それでも彼らは帰れないのです。それがここで起こった事態です。

そして、もちろん汚染はここだけでは済みませんでした。福島県を南北に青い帯が縦断していますが、ここは中通りと呼ばれるところで、ここも猛烈に汚染されています。栃木県北部、群馬県北部も青い色で塗られていますが、猛烈に汚染されています。茨城県北部・南部、千葉県北部、東京の下町も汚染されています。

これはどの程度の汚染だったのでしょうか。私は京都大学原子炉実験所で働いていました。原子炉を動かしたり放射能を扱ったりしながら仕事をする人間です。放射線業務従事者という法律的なレッテルを貼られて、給料をやるから、皆さんに比べて20倍の被曝までは我慢しろ、と言われてきた人間です。そういう人間は放射能を扱う仕事をするわけですが、放射能を取り扱う仕事は放射線管理区域という場所でしかできません。放射能を取り扱おうと思えば、日本国では放射線管理区域でしか取り扱ってはいけないという法律があって、その法律に従って、私は40数年間ずっと生きてきました。自分の被曝も少なくしよう、他人を被曝させないようにしよう、放射能を管理区域の外側に持ち出して汚染しないようにしよう、と細心の注意を払って生きてきた人間です。では、放射線管理区域からどれだけの汚染なら持ち出していいのか。1平方メートルあたり4万ベクレル以上汚れているものは絶対に持ち出すな、というのがこれまでの法律だったのです。しかし、この青い部分は1平方メートルあたり6万ベクレルを超えています。しかも、大地が汚れているのです。何かのゴミが放射能で汚れていた、私の衣服が汚れていた、というのではなく、大地全部が放射線管理区域の基準以上に汚れているのです。私には想像もできないことです。放射線管理区域に入ったら水を飲んでも、食べ物を食べてもいけない、寝てもいけないのです。管理区域の中にはトイレもないから、排泄もできない。でも、今はこうした本来であれば放射線管理区域にしなければいけない場所に、人々が捨てられているのです。赤ん坊も子どもも含めてそこで生きている。ご飯も食べるし、水も飲み、そこで寝る、ということを今現在も続けている、という状態になってしまっている。この状態をどう考えれば良いのか私にもわからない、というほどひどいことが今起きているのです。


原子力の夢に酔い続けた責任

原子力のありようは、かつての戦争とそっくりだと私は思います。巨大な権力組織が一体となって原子力を進め、国民には、教育現場、マスコミを通して、バラ色の夢しか与えませんでした。多分、皆さんもそのバラ色の夢をずっと聞かされ続けて、原子力について特段の不信を抱かないまま過ごされてきたのではないかと思います。2011年3月11日までは、です。

そして、福島第一原子力発電所の事故が起きたのですが、それにもかかわらず誰も処罰されていません。私が福島第一原子力発電所の事故から学んだ教訓は単純です。原子力発電所が事故を起こせば大変悲惨な事態になる、こんなものに手をつけてはいけない、即刻全部やめよう、というのが私が得た教訓でした。しかし、原子力を推進してきた人々が得た教訓は、まったく違ったものでした。彼らが得た教訓とは、どんな悲惨な事故を起こしても誰も処罰されない、ということです。東京電力の会長・社長以下、誰も処罰されない。歴代の自民党の首脳、原子力発電所に安全だと言ってお墨付きを与えた学者・政治家たちも処罰されない、官僚も処罰されない。何でもないのだ、という教訓を彼らは得たのです。そして彼らは、たくさんの人々を棄民したのです——どうしようもないので人々を被曝させてしまえ、ということです。そうした組織は「原子力ムラ」と呼ばれるようになりました。私も長い間そのように呼んできましたが、最近では別の呼び方をするようになりました。彼らは犯罪者集団なのだから、私は彼らを「原子力マフィア」と呼ぶようにしています。彼らの責任を明らかにし、徹底的に処罰しなければ、この歴史を乗り越えることはできないのだと思います。

しかし、やはりそれだけでは済みません。ほぼすべての日本人が、原子力の夢に酔って、原子力の暴走に加担したのであり、少なくとも原子力の暴走を放置しました。申し訳ないけれども、皆さんにもその責任はあるだろう、と私は思います。その責任を、かつての戦争の時と同じように、単に騙されたと総括してはなりません。自分の責任をどう考えるか、ということが大切だと私は思います。


原子力は何のために必要か

原子力は何のために必要だったのか、ということは、『脱原発の哲学』が詳しく書いてくれています。お読みでない方はぜひ読んでいただきたいと思いますが、例えば、世界では、未来の無限のエネルギー源である、安価な発電ができる——原子力は一番安い発電手段である——、厳重に審査するので安全である、と言われてきました。皆さんもほとんどの方がそれを信じてきたのだと思いますが、『脱原発の哲学』で詳しく書いてくれているように、これはみんな嘘だったわけです。

では、それでもなぜこの日本国が原子力を進めようとしてきたのか、というと、これも『脱原発の哲学』に書いてある通り、原子力と核は同じもので、原子力を推進すれば核兵器を製造する能力を持てる、ということです。原子力と核は一心同体のものだ、というわけです。


責任について

ここで責任について考えてみたいと思います。ドイツの例を挙げましょう。この写真はビルケナウ(アウシュビッツ第二)強制収容所です。そこには鉄道でたくさんの人が運び込まれ、選別をされて、そのままガス室で殺された人も、強制労働をさせられた人もおり、人々が次々と死んでいくことになりました。そのようなナチスの歴史を経て、ドイツ人は一体どうしたでしょうか。ヴァイツゼッカー大統領という人がいましたが、彼は「荒れ野の40年」という演説を行って、こう述べました。「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし、過去にも目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります」。ドイツという自分の国のナチスの歴史をきちんと直視しなければいけないし、それを清算することが大切なのだと彼は言いました。そして、ドイツは何とかそれをやろうとしながら今日まで来ているのです。

その時に、悪かったのはナチスだけではない、と気がついた人もいます。やはりナチスの強制収容所に収容されていた、ドイツ福音主義教会のマルチン・ニーメラー牧師です。彼は、第一次世界戦争の時にはドイツが誇る潜水艦Uボートの艦長をしていたという人ですが、戦争が終わってから牧師になりました。その後、マルチン・ニーメラー自身も捕らえられ、強制収容所に入れられた。彼は何とか生き延びて、解放されるのですが、彼は後からこう言いました。「ナチスがコミュニストを弾圧した時、私はとても不安だった。が、コミュニストではなかったから、何の行動も私は行わなかった。その次、ナチスはソシアリストを弾圧した。私はソシアリストではないので、何の抗議もしなかった。それから、ナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、その度に私の不安は増大した。が、それでも私は行動しなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。が、もうその時は、すべてがあまりにも遅すぎた」。

次に、田中正造さんの例を挙げましょう。田口さんは正造さんの研究家でもあるので、私が正造さんの話をするのは大変おこがましいと思っていますが、彼の言葉の中に次のようなものがあります。「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず。村を破らず、人を殺さざるべし」。山も、川も、人が住んでいる村も、そして人自身も、傷めたり、殺したりしてはいけないのだ、それが文明というものなのだ、と彼は言いました。彼は、足尾銅山の鉱毒で関東一円の人々が殺されていくことに抵抗して、そのことに自分の一生を捧げた人です。国会議員でもあって、国会の中で散々政府を追及しました。日清・日露の戦争よりも、自分の人民を殺すことの方がよほど問題だ、と言って国会の中で抵抗するのですが、当時の大日本帝国の国会は戦争へと突き進み、そのために足尾銅山の銅で外貨を稼ぐことが重要だとして、人々を棄民していったのです。

そして正造さんは、「亡国に至るを知らざれば、之れ即ち亡国の儀につき質問書」(1900年)という質問書を出して、国会議員の職を投げ打って、谷中村の汚染地に入っていく。その時に彼はこのように書いています。「民を殺すは国家を殺す也。法を蔑ろにするは国家を蔑ろにする也。皆自ら国を毀つ也。財用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、之を奈何」。

正造さんは何をやろうとしたのでしょうか。足尾鉱毒事件の後にも、公害は起こりました。その一つに水俣病がありますが、その水俣病に生涯をかけて取り組んだ人に、原田正純さんという医師がいます。原田さんももう亡くなってしまいましたが、彼が書いた本の中に、大佛次郎賞を受賞した『水俣が映す世界』があり、その中で彼は次のように書いています。「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したということは中なる原因であるが、大なる原因ではない。大なる原因は“人を人と思わない状況”、いいかえれば人間疎外、人間無視、差別といった言葉でいいあらわされる状況の存在である」。

正造さんが闘った足尾鉱毒から始まり、四大公害を経て、福島原発事故を貫いているものは、国を豊かにするという発想、その下で企業を保護し、住民は切り捨てるという構造です。この日本では、もう百年以上この構造が続いています。こんな国が豊かな国と言えるのか、それが今私たちに問われていることだと思います。

どう生きるのか、どんな抵抗が可能か

ではどう生きるのか、ということですが、これも正造さんが私に指針を与えてくれています。「対立、戦うべし。政府の存立する間は政府と戦うべし。敵国襲い来たらば戦うべし。人侵入さば戦うべし。その戦うに道あり。腕力殺戮をもってせると、天理によって広く教えて勝つものとの二の大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れてもやまざるは我が道なり」。武力に基づいて戦うのは駄目なんだ、天理に基づいて戦え、と言って、彼はその通りに戦って、のたれ死ぬようにして死んでいきました。

では、私というこの人間がどのように生きるべきなのか、ということですが、今聴いていただいたように、戦争の時代から公害の時代、そして福島の事故が起きた今の時代を私は生きてきたわけです。私は1949年生まれですので、かつての戦争が終わった直後に生まれて、自分のことを「戦後世代」と呼んできました。しかし、それが間違いだったかもしれない、と今私は思うようになっています。今、日本というこの国は、戦争に向かって転げ落ちて行くという時代に差しかかっています。特定秘密保護法も作られてしまった。武器輸出はしないと言っていた国なのに、武器輸出三原則も撤廃されてしまって、どんどん武器を海外に売りつけて金儲けをする、という国になっている。戦争法案も既に可決されて、集団的自衛権も認めて、自衛隊が同盟国と一緒に海外で戦争をしてもいい、ということまで認められてしまった。そして今や、衆参両院で三分の二の議席を自民、公明などの改憲勢力が握っていて、憲法の改悪が発議できる状態にまでなっており、安倍さん自身は自分の任期中に憲法を変えると公言しています。あまり遠くない将来に、個人の自由が制限される時代が来るかもしれません。

ニーメラもそうだったように、だんだん悪化する事態に飲み込まれていく。今、この日本も大変危うい事態だと私は思っています。権力によって拘束され、爪一枚一枚剥がされる拷問の時代、家族にも親族にも危害が及ぶ時代、挙げ句の果てには虐殺されてしまう時代が、つい数十年前に日本にあったのです。そんな時代になった時に、私自身にどんな抵抗ができるか、正直に言ってわかりません。指一本ずつ潰されながら、それでも国に抵抗できるか、原子力はやめるべきだなどということを言えるか、自分の子どもたちが殺されると脅される時に、抵抗を続けられるか、と言われると正直に言ってわからない。そんな時代になる前に手を打たなければどうにもならなくなる、という時代が目前に迫ってきていると思います。

しかし少なくとも、私は完全に自由な人間としてここに立っています。権力によって拘束もされていないし、もちろん殺されてもいない。好き放題発言できます。天皇に戦争責任があると言いましたが、そんなことを言えば、かつての長崎市長は拳銃で撃たれたわけです。しかし、私はここに生きて発言もできている。まったく自由な人間として生きている限りは、自分の発言に関して責任を取るべきだと私は思っていますし、福島の事故を起こした人々にも必ず責任を取らせたいと思っています。そして、私は権力から何の弾圧も受けなかったし、カネ、出世、名誉などというつまらないもののために自分の人生を生きるつもりもさらさらありません。私は誰よりも、私という一人の人間として、私らしく生きたいと思ってきましたし、いま生きている一人の人間として、自分の生きていることに責任を負う、ということだけは必ずやりたいと思ってきました。そのために、熊取六人組という仲間とともに生きてきたのであり、「批判的科学」という形で国家に抵抗してきたつもりです。そうしたことを佐藤さん、田口さんが『脱原発の哲学』の中できちんととまとめてくださったことに、感謝したいと思います。ありがとうございました。これで終わりにしたいと思います。


質疑応答

佐藤:今日、小出先生にご講演いただいたのは、『脱原発の哲学』の中で、熊取六人組のお仕事を大変重要な参照項として参照させていただいているからですが、それに加えて、科学者自身が原子力のような科学技術をどのように批判し、それとは別のあり方を模索していけるか、ということを熊取六人組の方々が非常に自覚的に実践してこられたからでもあります。また、私たちが福島原発事故後に、多くの科学者に違和感を持ったことも理由の一つで、彼らは、科学とは「価値中立的」であって、自分の科学的知識に照らせば、福島原発事故の影響は極めて少ないのである、と主張したわけです。それに対して、熊取六人組の方々は活動の初期から、社会科学的視点、あるいは差別といった、科学外の視点も踏まえながら、科学のあり方を批判してこられたと思います。その点についてはいかがお考えでしょうか。

小出:科学が価値中立だ、という言葉をいま佐藤さんが使われたわけですが、科学が価値中立だなどということは絶対にありません。科学は、未知のものを知りたいということで研究をするわけですが、先ほど聴いていただいたように、どれを知るのかという時に、そこには判断が介入しているので、どれを知るのか、ということは往々にして権力の側から規定されている。原子力をどんどん研究しろ、カネはいくらでもやるぞ、と言えば、科学に携わっている専門家はそちらに大挙して流れていくわけですし、そうやって科学というものができているのです。価値中立などということはまずもってありえません。科学はすべて社会の中で規定されている、ということは皆さんにも認識していただきたいと思います。

田口:別の言い方をすれば、差別を受ける側は生活全体において差別を受任することになるので、差別する側と差別される側で価値中立を取る、ということは、その時点で必ず権力寄りになる。圧倒的な非対称の中で中立的な立場を取る、ということは完全に権力に寄る、ということだと思います。小出先生と熊取六人組の方々は、原発と差別の関係について常に意識的であり、また常に差別を受ける側に立ってこられたと思いますが、その点について小出先生のお考えをお教えいただければ幸いです。

小出:今日聴いていただいたように、私は核=原子力、原発に反対し、それに抵抗して生きてきました。核=原子力は純粋に科学的に言っても、特別に破滅的な技術だと思います。しかし、私がそれに反対してきたのは、単に危険だからではありません。核=原子力は徹頭徹尾差別的で、他者の犠牲を前提にしなければ成り立たないからです。原発を都会から離し、伊方などに押し付けてきたのも、その一例です。今日は聴いていただけませんでしたが、被曝労働を下請け労働者に押し付けてきたのも差別的です。おまけに、始末の方法を知らない核のゴミを膨大に生み、それを未来の子どもたちに負わせることも、無責任の極みです。原発が単に科学的に安全だとか、危険だとかいう議論ではなく、社会的な意味を含めて考えるべきと思います。

*質疑応答については、構成段階で小出裕章氏から追加的な回答をいただいた
[構成:佐藤嘉幸]

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