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サンドロ・メッザードラ特別インタビュー「危機のヨーロッパ」後篇

危機のヨーロッパ

――移民・難民、階級構成、ポストコロニアル資本主義(後篇)

サンドロ・メッザードラ × 北川眞也(聞き手)

2016年2月15日 ベルリン

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北川 お話を伺っていて思うのは、ヨーロッパへと向かう移民たちの運動が、たとえどのように形容されようとも、ヨーロッパとその外部の諸地域を無媒介に接続し、EUとその外部の国々(たとえばトルコ)のあいだの関係にさまざまな影響を与えている現実を考慮するなら、事実上、ヨーロッパは「拡大」しているのかもしれないということです。また移民、難民たちの移動が、EUを人口学的な意味においても「拡大」させており、それがEU加盟諸国の民主主義に対して政治的に挑戦しているのだというエティエンヌ・バリバールの最近の文章(17)を思い出しました。

 さて、いまあなたが述べたような地球規模の歴史的・地理的条件をふまえるなら、境界を越えてくる移民たちの移動は、かれらの主体性という側面からみてもまた、現代という文脈において、やはりなんらかの政治性を有しているということになるのだと思います。

 以前、私はジャック・ランシエールのあるインタビュー(18)を読みました。そこにおいて、彼はいわば乗り継ぎの移民、たとえばカレー、またおそらくはヴェンティミッリア、ランペドゥーザ、レスボス(19)にいるようなタイプの主体は、彼のいう意味での政治を出現させるものではないと述べていました。他方で、長年フランスの諸都市で生活・労働しているが、滞在許可証のない「不法移民」あるいは非正規移民、いわば「サンパピエ」のイメージにふさわしい移民たちには「分け前なき者の分け前」を求める政治的主体になる可能性があるというわけです。

 しかし、先ほどもふれたように、あなたは歴史的にも、そして現在においても、移民たちの政治化について語っています。「ヨーロッパに入る権利がある」と声をあげる移民たち、先ほど話題にあがったEUの旗をふる移民たち、ヴェンティミッリアなどヨーロッパのさまざまな境界にいる移民たちは、まさしく乗り継ぎの主体であると言えるでしょう。

 あなたは、ランシエールの政治をめぐる思考の重要性を強調してきました。しかし同時に、何かしら不足する点も指摘してきました。たとえば、「資本主義、移民、社会闘争——移民の自律性理論のためのメモ」(20)という2004年のテクストです。あなたはそこで「コミュニズム」という言葉を用いて、その必要性についてはっきりと語っています。具体的には、コミュニズムは、ランシエールの議論、こう言ってよければ、ラディカル・デモクラシーを補完するものとして言及されていますね。

 私は、先日京都で行った『逃走の権利』のプレゼンテーション(21)のときに、(廣瀬)純たちとこの点について話をしました。この政治の思考、とりわけ純が繰り返していたことでもありますが、単純化して言えば、ランシエ-ル、ラクラウとムフ、バディウは、1968年以来、基本的に同じことを言い続けている。しかし、およそ同時代を生きてきたイタリアのオペライスタたちは、階級構成(composizione di classe)(22)、また資本主義の変容を考察しながら、議論と闘争を繰り返し、いつもアイディアや理論を変更してきた。オペライスタたちは、歴史的情勢のもとで、歴史のもとで思考し調査している。というわけで、政治を思考するうえで、いまいちど階級構成という概念の重要性を強調するところに至ったわけです。

 このような観点からするなら、政治、移民たちの政治をどのように考えることができると思われますか?

メッザードラ 大きな質問です。かなり複雑な問いですね。とりあえず、乗り継ぎの主体についての問いから返答するのが、私には容易であると思われます。そうですね、私たちがこの会話を行っている場所、ドイツの状況について話しましょう。

 この数ヶ月のあいだ、ドイツには数多の難民たち、移民たちがやってきました。かれらは乗り継ぎする主体です。けれども、かれらの到来は、政治的な議論と対立の諸条件を完全に変容させてきたと言えます。これは、多かれ少なかれラディカルな右翼勢力が成長してきたことには限られません。とりわけ、この国のなかに新たな社会的・政治的分裂が引き起こされてきたためでもあるのです。私にはこの点を強調しておくことが、極めて重要だと思われます。この分裂は、ただ右翼が新たに形成されたことのみならず、数十万人のドイツ市民を巻き込んで展開された、難民たち、移民たちへの並外れた連帯のイニシアチブによってもまた引き起こされてきたのです。単純な実用的・物質的な連帯は、難民たち、移民たちに対するなら、非常に重要なことです。しかし、これらのイニシアチブは、こうした連帯をはるかに越える問いをただちに提出したのだと言えます。それは、ベルリンのような都市で、こんにちかれらと共に生きることは何を意味するのかという問いです。

 私にとって、これは単なる一打撃以上のものです。難民たち、移民たちの大量運動、当然ながら独自の規定性を有する条件にあるわけですが、非常に一般的な物言いをするなら、この運動が傾向においては、所定の社会の内部で権力関係が組織されるやり方に疑問を投げかけたから、緊張を与えたからにほかなりません。この運動は、ランシエールによって定義された、ポリスという独自のレジームの内部における分け前の考慮=計算の配分に疑問を投げかけるものではないでしょうか。

 ここにおいて、私たちは、政治運動の伝統的な定義にはなんら入り込むことのない運動に対峙しているのだと言えます。しかしながら、この運動こそが、その根底においては社会運動として、ひとつの具体的な社会、この場合なら、ドイツ社会のように非常に重要で、一見するととても安定してみえる社会のただなかで、権力諸関係が組織される方法に疑問を呈しているわけなのです。繰り返しますが、私にとってこれはとても重要な論点です。それは、ここまで語ってきた独自の事柄を越えてのことです。それはまさしく、本質的に政治というものについての私たちの理解を生産的なやり方で複雑化するように強いるからであり、私たちが政治として理解するものの諸境界に疑問を投げかけるように強いるからにほかなりません。

 私にはこれはとても印象深いことであり、数か月にわたって、論文や本、また他の人と公表した論文のなかで、何度も次のように書いてきました。それは、あなたが言及したバディウ、ラクラウとムフ、またランシエールの立場の背後には、基本的に、政治の純粋性(purezza della politica)という観念があるということです。

 この表現は、今やずいぶん前のことですが、スラヴォイ・ジジェクがこの立場に対して批判的に用いたものです。この政治の純粋性という考え方は、結局のところ、それ自体で政治運動としてはっきりと特徴づけられる運動の形成へと通じる「諸条件」を理解するうえでの限界なのです。繰り返しましょう。これらの立場によって思考可能とされる地平の外部に位置するものは、明らさまに政治的なものとして姿をみせる運動を「可能とする諸条件」にかんする問題なのです。それというのは、基本的には、さまざまな実践と振る舞いからなる諸関係の物質性のただなかへの政治運動の根づき、政治の根づきにほかなりません。これは、まさしく政治的本性の内側においては、概して検討されません。フーコー流の言い回しを使いたいとすれば、それは主体性の生産をめぐる問題だと言えるでしょう。私には、これは基本的な問題であるように思えるのです(23)。

 またちょうどあなたが言及したように、コミュニズムの問い、私にとって極めて重要であり続けているコミュニズムの問いがあります。コミュニズムは、バディウのいう意味での観念へと縮減してしまうことはできませんし、ただ出来事の時間的地平においてのみ考えられるものでもありません。これらは、中国の文化革命、1968年 5月、パリ・コミューンにかんするバディウの著作の示唆に富んだテーマではありますが。

 コミュニズムの問題というのは、搾取され支配された主体性の諸運動の根源的な過剰性をめぐる問題なのです。それは、制度レヴェルにおける政治の所与の枠組みに比しての過剰性にほかなりません。できるだけ簡単に言ってみましょう。この枠組みの内部で場所をもたないもの、それは運動としてのコミュニズムの思考を必要とさせるものである、と。

 これは、移民についても該当することだと思います。もっとはっきり言うなら、移民は「弁証法」(括弧つきです)、承認と過剰性のあいだの「弁証法」を、必須の政治問題として、私たちに提出しているのです。つまり、一連のさまざまな運動や主体的振る舞いのただなかに表現される諸々の要求は、ある部分では、制度上のシステムの内部に承認を見出すこともできるでしょう。それは法権利の観点においても、シティズンシップという概念の変容という点においてもそうでしょう。私はこの承認を重要なことではないと言うつもりはありませんし、この承認要求のまわりで表現される「民主主義」運動を重要ではないと言うつもりもありません。逆です、極めて重要であると思います。

 しかし移民は、この承認の「弁証法」に比していつも過剰のままにとどまる諸要素があることを私たちに示しているのです。承認の「弁証法」、そして過剰性のさまざまな要素に賭けることを通じてこそ、コミュニズムの問いを、移民が私たちに提出している問題として考えることができるわけです。「考える」という点を強調しておきます。コミュニズムの問いは、おそらくは個々の移民が抱いている期待の地平とはまったく関係のないものです。移民たちの諸要求に対して、この問いをはっきりと設定することはもちろんほとんど意味のないことでしょう。ただその一方で、移民たちの諸要求、日常の対立から離れた理論的省察の観点からするなら、移民たちの運動は、コミュニズムの問いを、生産的なやり方で再検討することを可能としてくれるものだと言えるのです。

北川 過剰性、そしてコミュニズムの問いはやはりとても強調されるべきものであるように思います。それは政治をめぐる問いとまったく同時に、移民、正確には移民労働、移民労働の政治、つまりは階級闘争というテーマについて思考するうえでも同様であると思われます。

 あなたも主張するように、いまや階級構成のなかのなんらかの主体に政治的中心性をみつけることは有用な作業ではないでしょうし、おそらくそれは不可能なことでしょう。『逃走の権利』のなかでも、そのような議論がなされているように思えます。たとえば、あなたが移民労働の重要性を強調するときも、階級構成における中心性というよりも、こんにちの労働の模範性としての移民労働、あるいはグローバル資本主義を批判する運動はその主役のなかに移民たちを加えずにはいられない、といった言い方をしていますね(24)。

 しかし、いくぶん古い話で恐縮しますが、雑誌『デリーヴェアップローディ(DeriveApprodi)』に2002年に公表されたマリオ・ピッチニーニとの短い論文(25)なかで、あなたは「移民労働の政治的中心性」について言及していましたよね? ただ今はこのような言い方はしていませんし、その理由も、あなたの最近の仕事(26)をふまえると、十分に理解するところです。

 ただ、やはり移民労働は興味深い。挑発的な物言いをするなら、傾向としては、ヨーロッパ市民もまた移民のようになっているとは言えないでしょうか。目下のところ、ギリシャ、イタリア、スペインの人たちは、さまざまに移動しているし、改めて出移民となっているところです(27)。さらに言えば、ギリシャなどは今やEUの植民地であるといっても過言ではありません。

 こうしたことは、グローバル空間のみならず、ヨーロッパ空間のただなかにおける「ポストコロニアル資本主義(capitalismo postcoloniale)」(28)の極めて重要な要素であるように思えるのです。ギリシャのケースはもちろん、移民労働の置かれた位置、階級的位置をとらえるうえで、これは非常に重要な概念であると思いますが、どうでしょうか?

メッザードラ ブレット・ニールソンとの著書(29)のなかで、ポストコロニアル資本主義というアイディアについていくぶんは記述したつもりです。ともかく、質問は複雑で、さまざまな領域についての思考を要するものですね。

 たとえば、あなたはピッチニーニとの文章に言及しました。もうおよそ15年前の文章でしょうか。当時は、一方では、移民労働の運動、闘争、要求に対して、政治的に空間を与えることが、私にとって非常に重要な状況でした。他方では、オペライズモ、ポスト・オペライズモの議論の内部へと介入することがとても重要でした。このオペライズモ、ポスト・オペライズモの議論は、階級構成の内部において、もっとも進歩した主体を探求することをなおも重要な特徴とし続けていたのです。そのいっさいは、1990年代に「非物質的」労働、認知労働、一般的知性をめぐって浮き彫りとなってきました。

 当時、私もそこに参加していましたが、この議論はもちろんとても重要なものです。それによって、労働構成、階級構成の内部で生じていた重大な変化に焦点を当てることが可能となったわけですから。それは、資本主義が機能する様式についても同様のことが言えます。ポストフォード主義についての議論が、イタリア、またトニ・ネグリのようなイタリア人亡命者たちがいたフランスにおいて展開されてきたのです。90年代初頭まで私も関わっていた『決まり文句(Luogo Comune)』、フランスの『前未来(Futur Antérieur)』のような雑誌においてのことですね。

 移民という問いめぐって、私が90年代初頭から行っている政治的仕事のためでもありますが、私はこの議論の内部において、ある種の不満をもちはじめていました。つまり、もっとも進歩した主体を探求するというのは問題ではないのかと考えはじめていたのです。ここで簡潔に説明するとすれば、私がポストコロニアル研究に関心をもちはじめた理由のひとつは、多くのポストコロニアル研究者によって、この歴史的時間の直線性という観念に疑問が投げかけられていたからにほかなりません。それは、資本主義の発展それ自体の直線性という観念についても同様です。基本的に、これはもっとも進歩した主体を探求するというオペライズモの姿勢の背後に存在するものです。

 ともあれ、移民は90年代の初頭にイタリアの諸都市の生活を根源的に変化させていた諸運動の重要性に、私を直面させました。たぶんそれから、私の移民についての仕事がはじまったわけですね。ご存知の通り、イタリアはこの移民にかんする移行を、80年代、90年代に非常に早い速度で経験してきました。これは、イタリアを出移民から入移民の国へと至らしめた移行です。私はジェノヴァで育ちましたが、80年代は「白い」都市でした。90年代になってある時点で、「白くない」ことに気づいたというわけです。この観点は「田舎根性」に浸りきったものだと言えるのかもしれませんが。

 私たちの議論、オペライズモ、ポスト・オペライズモの議論では、この側面が完全に外部に位置しているように思えたのです。ちなみに、このオペライズモ、ポスト・オペライズモの議論というのは、80年代末になってようやく取り戻されたものです。つまり、多くの仲間が牢屋にいたり、亡命したりしていたために、この議論を行うこと自体がとても難しかった年月が過ぎてからのことでした。ですから、大きな息を吹き返した後に、ようやくこの議論が再度はじまることになるのです。しかし、私は移民と向き合う経験をしている、いやそれは当時のイタリア全体の経験でもあります。私には、私も加わっていたこうした言説のなかでは、このことについていかなる類の考察も存在していないように思われたのです。もちろん、それについて言葉にしたり、しゃべったりはしはじめていましたが、私たちの日常を変化させているこれほど重大な事柄について考察するための空間がないのなら、それが重要な役割を果たすことはないでしょう。

 それから他方において、もし階級構成、労働構成という観点から移民を考察するとすれば、移民はまさしく認知労働のそれとはいくぶん異なった労働形態を考察するように、私たちを仕向けるものであることが考慮されなければなりません。それは認知労働に従事する移民がいないからではありませんし、移民の認知労働が存在しないからではありません。しかし総体としてみるなら、移民は、認知労働、非物質的労働などのイメージとは非常に異なった一連の労働諸行為の持続する重要性を私たちに思い出させるのです。

 ケア労働の問いについて考えてみましょう。この労働は、まさしく「認知」上の能力をかなり必要とするものです。これは非常に重要なことです。しかし、それをほかならぬ非物質的労働と定義するのは難しいことでしょう。しかしながら、ケア労働、移民たちのケア労働は、さまざまな行為主体性のあいだの関係をたえず緊張にさらし、疑問にさらし続けているわけです。この極めて重要な事柄については、私たちイタリアの議論では、すでに90年代の末にクリスティーナ・モリーニが仕事をはじめていました。彼女はこの論題について重要なことを書いてきました(30)。

 しかし、包括的に言うとすれば、移民は、私に以下のことに対峙するよう仕向けはじめたのだと言えるでしょう。それは、最初に移民の自律性、それからだいぶたって、とりわけブレット(ニールソン)との仕事で、私が定義しようとしいくぶんは定式化してきたものですが、「労働の異質化と多数化」(eterogeneizzazione e moltiplicazione del lavoro)についてです。私には、これは移民のただなかにおいては極めて重要な要素であるように思えました。それは、資本の観点からみても、労働諸関係の全体を、標準形(standard)のまわりで、標準形に基づいた関係のまわりで組織されるものとして表象できるという考えそのものに疑問を投げかけることになるからにほかなりません。今となっては、これはもうそれほど規範とはなっていませんよね。フォード主義の労働者、フォード主義の工場労働者、そしてフォード主義の男性。これは、契約法の観点からみても、労働関係を組織するための標準形の枠組みであるというわけです。このまわりにおいて、その多様な制度、規則などとともに諸々の労働市場の総体が定められるわけです。

 私には、こんにち標準形について論じることはまったくできないように思えます。むしろ、分析的観点からも、政治的観点からも、労働世界のただなかにおける差異の増殖について強く主張しなければならないのだと思います。それはいわば労働構成の主体性の特徴づけという点についてもそうですし、契約法の観点からみたときの、労働諸関係の組織化という点についてもそうです。

 この近代資本主義の歴史を検討するなら、そのはじまりからヨーロッパのみならず、グローバルな歴史としてそれを検討するなら、この状況は、植民地世界、コロニアル資本主義(capitalismo coloniale)を長いあいだ特徴づけてきたそれにほかなりません。私には、こんにちいくぶんは世界のいたるところで、コロニアル資本主義のこうした経験のある種の「逆襲(striking back)」が起こっているように思われます。こんにち資本主義は、労働諸関係のこの異質性を生きているように思えるのです。もちろん、それはコロニアル資本主義の特徴とは異なった特徴づけを有しています。しかし、形態という観点からするなら、このように言えるわけです。

 資本主義については、ファノンもまた引き合いに出していましたね。株式、金融は、強制労働などの諸条件と共存する。産業賃金労働は、インフォーマル労働などの多数の形態と共存する(31)。繰り返しますが、もちろん、こんにちにおいては、これは異なった諸条件のもとで生じています。ポストコロニアル資本主義について論じることで、これらの諸条件を理解しよう、定義しようとしてきたわけです。

 ポストコロニアル資本主義において、私にとって非常に重要なひとつの要素として、金融が作動する場所、金融資本の場所があります。多くの仲間たち、なかでも親愛なるクリスティアン・マラッツィがこの点について仕事を行っています(32)が、それらは私にとって極めて重要です。なぜなら、これらの仕事はこの金融化のプロセスの新たな性質を明らかにしてきたからです。私の意見では、まさしく問題は、それらのイノベーションの観点から、すなわち、こんにちの社会的協働、生産的協働が、組織され、指令をくだされ、搾取されるやり方の観点から、金融化のプロセスを調査することが大切なのだと思います。この観点からするなら、繰り返しになりますが、この要素が異質性とかかわるものなのです。

 ここで、以下のことを付け加えましょう。移民は基本となるレンズです。移民は、階級構成を変容させる、また搾取の諸条件を変容させるうえでの基本的力というだけではありません。移民は、あなたが先ほどうまく説明してくれたような、移民たちに独自の経験を越えて有するさまざまな振る舞い、動態、経験、新たな移動性の経験を前もって解読するというのみならず、たいていの場合、労働のプレカリ化の形態を、「土着」の労働に対して何かしら先取りしているのです。またあなたが言及したように、ヨーロッパの内部の移民の問題もあります。それは、もう無視することが非常に困難な現実です。ベルリンでどこかに食べに行くなら、多くの人たちによって、イタリア語、スペイン語、ギリシャ語が話されているのに気づくことでしょう。

北川 ポストコロニアル資本主義のこうした特徴は、いわゆる「本源的蓄積」の現代性とも大きく関係しているのだと思います。あなたも論じていましたが、現代資本主義の批判的分析においては、本源的蓄積の現代性がかなり主張されてきました。たとえば、これについては「略奪による蓄積(accumulation by dispossession)」という概念を用いて、デヴィッド・ハーヴェイもまた極めて重要な議論をしてきました(33)。

 あなたも言及していたように、ハーヴェイは、資本主義的生産様式の「標準形」、つまり一方の「拡大再生産」と、他方の「略奪による蓄積」とのあいだを厳格に区別しています(34)。しかし、資本主義のはじまりからの植民地性という先ほどの議論をふまえると、この両者の区別は、前者の中心性を少なくとも理論的前提として保持したうえでなされているようにも思われます。というのは、略奪は、植民地または旧植民地においては「いつも」資本主義の主要な形態であり続けてきたからです(35)。たとえそれが昨今では新たな形態をとるとしても、そこにおいては、本源的蓄積の暴力によって生産手段から切り離されても、「標準形」の世界への扉は閉ざされたままの略奪された者たち、生存維持のために、あらゆる種類の労働を行う者たち、何かしら移動、越境する者たち(場合によってはヨーロッパへ)が大量にいたわけです。

 ハーヴェイの言う「拡大再生産」と「略奪による蓄積」の「有機的なつながり」、あるいは弁証法的関係という枠組みにおいては、あなたの論じる「標準形」を無効化する生産様式の異質化と多数化という趨勢、さらには「中心性」のない労働の異質化と多数化という趨勢を十分にはとらえきれないようにも思えます。それは、階級闘争の異質化と多数化についても同様でしょうか。

メッザードラ 思うに、デヴィッド・ハーヴェイは、非常に重要な役割を果たしてきました。彼が「略奪による蓄積」と名づけた形態のこんにちにおける重要性を明らかにしてきたからですね。この種の功績や活動に疑問を投げかける必要はないでしょう。

 しかし、近年、ハーヴェイの立場がとてもよく受け入れられているラテンアメリカの文脈において仕事をするなかで、私がいつも論じ立てようとしてきたことは、略奪と搾取のあいだの区別が、対立、二項対立となってしまう危険があるということです。単純化して言えば、これには搾取の新しい性質を私たちから見失わせてしまう危険がある。つまり、こんにちの資本の蓄積と価値増殖のレジームを規定するさいに、搾取と略奪が組み合わされるやり方を見失わせてしまうということです。 

 たとえば、「採掘」という問題を考えたい。それはまさしく文字通りの意味でのことです。ラテンアメリカ、またアジア、アフリカの多くの地域において、採掘活動が強化されていることをめぐってこんにちではさまざまな議論がなされています。それは、環境のみならず、コミュニティ全体に対して、だいたいの場合は、先住民のコミュニティに対して、暴力的なやり方で破壊的影響をもたらしているのです。

 ラテンアメリカでは、文字通りの意味における採掘活動のこうした強化が、この地域におけるこんにちの資本主義の暗号、象徴として採用されつつあります。もちろん、このテーゼについての経験的論証は不足していません。それは、採掘活動の強化に抗する数々の極めて重要な社会闘争が不足していないのと同様です。これらの社会闘争には、ただ鉱物の採掘活動のみならず、たとえば大豆栽培のような農業を急襲し、大きく変容させている採掘活動に抵抗するそれもあります。

 しかしながら、私は、とりわけ友人であり同士であるアルゼンチン人のヴェロニカ・ガーゴとともに書いた論文のなかで、以下のことを主張しようとしてきました。このタイプの理論的立場は、約言するなら、新採掘主義(neo-estrattivismo)という定式を見出している。しかしこの立場は、過度に偏ったやり方で、文字通りの採掘がなされる場所への批判に注意を集中させる結果となり、田舎と都市のあいだの対立を再生産してしまうものではないか。このような対立は、理論的にも異論の余地があるものですし、率直に言って、政治的にはただ不安にさせるものでしかありません。

 そこから、私たちは以下のように自問しはじめました。採掘というカテゴリーは、より一般的な観点から考察するならば、字義通りの採掘活動とは関係のないかたちでも、こんにちの資本主義についての何がしかを明らかにしてくれるのか否か。私はとりわけヴェロニカとの仕事(36)でそれを探求しようとしてきました。ブレットとの継続する仕事(37)でもそうです。ただ文字通りの意味でのみ採掘というカテゴリーを解読するのではなく、とりわけ金融が社会的協働と関係を築くやり方を理解するために、それを用いてみようとしたのです。

北川 それが採掘主義というよりも、あなたの言う新採掘主義というわけですね?

メッザードラ そうです。採掘主義という定式は、ラテンアメリカでは非常に普及したものですね。今は新採掘主義についてより論じられているわけです。採掘主義は、16世紀以来、いつもラテンアメリカのコロニアル資本主義の特徴でしたから。

 ここで新採掘主義について考えるために、金融についてとりあげてみましょう。金融とは何か。大きな問いですね(笑)。ここで十分な言葉、解答を与えることはできないでしょう。しかし、マルクスの『資本論』第3巻に非常に示唆に富んだ指摘をみつけられると思います。もちろん、マルクスの時代の金融は、こんにちの金融とはほとんど関係ありません。だから、彼の理論を、デリバティブ、クレジット・デフォルト・スワップ、ハイ・フリークエンシー・トレーディングなどに適用するために取り出すことはできません。

 しかし、マルクスは非常に一般的な観点に立脚して、金融資本を定義しています。それというのは、なおも生産されなければならない富、未来において生産されなければならない富に対する莫大な有価証券、請求権の蓄積であると。私がこんにち有価証券を有しているとして、私の利潤はどこから派生するのか? それは、なおも生産されなければならない富から派生する。それはつまり、私の有価証券を通して、私は未来において展開されなければならない生産過程を抵当に入れているということです。この有価証券を通して、偉大な資本家、持ち株主としての私は、いまのところ、未来に対する一種の権力を保持している、なおもなされなくてはならない生産過程に対する指令を保持しているのです。

 借金を抱える貧困な労働者、借金をして返済義務を負っている労働者の立場からすると、この借金は、未来の生産に対して私が保有する権利との相互取引の材料となります。結局のところ、この債務、義務とはいったい何でしょうか? それは、返済するために未来において働かなければならないという義務にほかなりません。

 さて、私を偉大な金融資本家としましょう。あなたは、住宅契約のために借金をし、私に債務を負う貧者としましょう。明日、あなたは何をするのか? 私には何の関心もありません。重要なことは、あなたが自ら働くことです。工場で働こうが、スウェットショップで働こうが、路上でヘロインを売ろうが、広告代理店でクリエイティブな仕事をしようが、私にはどうでもよいことです。どうでもよい。あなたは確実に、借金を返済するため、他の労働者たちとの関係のなかに参入することになる。社会的協働の編成に参入することとなる。明後日になれば、私はまさにそこから価値を抽出します、あなたの労働を組織することなしに、です。これは、あなたが産業資本家とのあいだに有する関係との根本的な差異ですね。産業資本家は、労働を組織していたのです。それから、価値を抽出していました。他の人たちのそれと同様に、あなたの労働の協働は、産業資本家が組織するものだったのです。

 反対に、金融資本家はなんらかのかたちで、かれがそこから価値を引き出す社会的協働の外部にいる。ここにおいて、金融資本家はこの社会的協働から価値を「採掘」しているのだと言える。隠喩を用いるなら、これは、鉱山において大地から貴重な鉱物を採掘することと類似したやり方であるというわけですね。

 さて、この観点からするならば、少し立ち止まって考察すべき状況があるのだと思います。どういう意味でしょうか? それは、私の話したこのとても単純で、単純化されていて、およそ陳腐な例から、以下のことを説明できるということです。すなわち、現代資本主義の全編成のただなかにおける金融資本の優位性に、労働の異質化の諸過程がいかに呼応しているのかということです。というのは、もしかしたらあなたは工場に働きにいって、他の人は広告代理店で働いて、さらに別の人はゲットーでドラッグの密売人の仕事をする……といった状況があるからですね。同質化、つまりこの種の関係に建設的なやり方で対応し続ける同質化は些かも存在しないのです。

 さらに言えば、私もそうですが、以下の事柄を再考したい人たちにとっては、非常に一般的で明らかな問題があります。それは、少しばかり誇張した表現でいうなら、労働と資本のあいだの関係の政治的主体化にかんする諸条件を再考すること、より単純な用語でいうなら、こんにちの階級闘争の場所を考え直すということにほかなりません。それは以下の意味においてのことです。もしあなたが工場に働きにいくなら、そこには独自の敵対性の源泉となる工場の雇い主との関係というものがある。しかし同時に、私との関係、金融資本家との関係においては、そもそものところ、別のタイプの敵対関係が存在しているのです。だからこそ、金融資本に敵対する組織の政治的可能性を思考することが、こんにち私たちが直面している重大な問題であると考えるわけです。

 またご存知のように、移民のなかにも、このタイプの論理が浸透しています。それは移民たちが資金調達を行うさいのさまざまなやり方を通してのことです。これらは、しばしば事前契約の諸条件、つまりは移民たちが借金を返済しなければならない諸条件を提出しています。またこの論理は、移民による送金の流通を通しても浸透していますね。それは、移民経験の金融化と対応しているのです。(了)

前篇はこちら)

17.  Étienne Balibar, Europe and the refugees: a demographic enlargement, 2015, https://www.opendemocracy.net/can-europe-make-it/etienne-balibar/europe-and-refugees-demographic-enlargement

18.  「ジャングル[北川による注:フランス・カレーにある。イギリスへ向かおうとする移民たちが一時的に集住する屋外占拠空間]の人々は、通過するためだけにそこにいるからです。警察との関係にしても行く手を阻む鉄条網を前にしても、状況全体のなかでかれらが求めているのは、どうやったらそこを通り過ぎることができるかです。かれらは政治的主体としてそこにいるのではない。滞在許可証が取得できないまま5年なり10年なりフランスなどで働く人々の状況とは違うわけです。こちらのほうはまさに政治的な状況です」。ジャック・ランシエール(市田良彦、上尾正道、信友建志、箱田徹訳)『平等の方法』航思社、2014、295-296頁。

19.  ヴェンティミッリアは、イタリアとフランスの国境にあるイタリア側の町である。2015年6月に、フランスがイタリアとの間の国境審査を復活させたことで、境界を通過できない数多の移民たちが、ヴェンティミッリアの海沿いの岩礁にキャンプを張るようになった。ランペドゥーザは、イタリア最南端のチュニジアに近い地中海の小さな島である。ここ20年ほどのあいだ、アフリカからの移民たちの船がたどりつく場所として位置づけられてきた。レスボスは、トルコの目と鼻の先にあるギリシャの島で、シリアやイラクなどからの移民、難民たちの船がたどりつく場所となっている。

20.  Sandro Mezzadra, Capitalismo, migrazione e lotte sociali: appunti per una teoria dell’autonomia delle migrazioni. In S. Mezzadra, a cura di, I confini della libertà: per un’analisi politica delle migrazioni contemporanee, Roma: DeriveApprodi, pp. 7-19. [サンドロ・メッツァードラ(北川眞也訳)「社会運動として移民をイメージせよ?――移民の自律性を思考するための理論ノート」『空間・社会・地理思想』12号、2008、73-85頁。]

21.  2016年1月29日に、「階級構成とは何か」と題して、廣瀬純、箱田徹、上尾真道と行った。イベントは、廣瀬純の編著『資本の専制、奴隷の叛乱』と『逃走の権利』の出版をかねて行われた。『資本の専制、奴隷の叛乱』には、メッザードラのインタビューとテクスト「ブリュッセルの「一方的命令(ディクタート)」とシリザのジレンマ」(エティエンヌ・バリバールとフリーダー・オットー・ヴォルフとの共著) が所収されている。

22.  階級構成(composizione di classe)は、オペライズモの主要概念のひとつ。それはある歴史的時点における労働者階級が内在化している行動や規範の組織体のこと。階級構成は、労働の技術的構造、階級の欲求や欲望のパターン、政治的・社会活動が生じるさいの制度などの相互作用によって規定される。労働者の効果的な組織化や活動を生み出すには、階級構成を経験的研究から理解することが必要と考えられた。この概念は、階級の技術的構成(composizione tecnica di classe)と政治的構成(composizione politica di classe)に区別されてきた。技術的構成は、労働力として理解された労働者階級。資本主義の分業、生産の技術的組織、技術と生きた労働のあいだの関係によって定められる。政治的構成は、労働者階級の主体形成の次元。文化、思考様式、欲求、欲望などに関わり、意識には還元されないそれは、何より闘争へと向かう主体形成過程に関係する。

23.  この政治の純粋性批判については、たとえば以下の論文を参照。Sandro Chignola e Sandro Mezzadra, Fuori dalla pura politica. Laboratori globali della soggettività, 2012, http://www.uninomade.org/fuori-dalla-pura-politica

24.  メッザードラ『逃走の権利』、20-21頁、25頁。

25.  Sandro Mezzadra e Mario Piccinini, Centralità politica del lavoro migrante, DeriveApprodi 21, 2002, pp. 8-10.

26.  サンドロ・メッツァードラ、ブレット・ニールソン(北川眞也訳)「方法としての境界、あるいは労働の多数化」『空間・社会・地理思想』13号、2010、51-59頁。

27.  もちろん、国籍国や「人種」などによって、その移動が問題視される具合はまったく異なる。たとえば、仕事を見つけるためにモロッコに不法滞在するスペイン人とサブサハラ出身者のあいだで言えば、後者は警察による厳しい取り締まりの対象となり、その移動が問題視される。その意味では、その人の移動性、ある瞬間、ある場所におけるその人の滞在可能性が、統治とセキュリティの対象として問題化されるときに、その人は「移民」というカテゴリーにあてはまるとも言えよう。Martina Tazzioli, Border interruptions and spatial disobediences beyond the scene of the political, 2015, http://www.darkmatter101.org/site/2015/10/05/border-interruptions-and-spatial-disobediences-beyond-the-scene-of-the-political

28.  たとえば、Sandro Mezzadra, Quante sono le storie del lavoro? Per una teoria del capitalismo postcoloniale, 2011, http://www.uninomade.org/quante-sono-le-storie-del-lavoro-per-una-teoria-del-capitalismo-postcoloniale

29.  Sandro Mezzadra and Brett Neilson, Border as Method, or Multiplication of Labour, Durham MC and London: Duke University Press, 2013.

30.  たとえば以下。Cristina Morini, La serva serve: le nuove forzate del lavoro domestico, Roma: DeriveApprodi, 2002.

31.  当該箇所は以下。「奴隷制度、農奴、物々交換、家内工業、株式操作などの共存する現実」、「均衡を欠いた変転きわまりない現実」。ファノン『地に呪われたる者』、63頁。

32.  たとえば、[1]クリスティアン・マラッツィ(柱本元彦訳、水嶋一憲監修)『資本と言語——ニューエコノミーのサイクルと危機』人文書院、2010。また[2]アンドレア・フマガッリ、サンドロ・メッザードラ編(朝比奈佳尉、長谷川若枝訳)『金融危機をめぐる10のテーゼ――金融市場・社会闘争・政治的シナリオ』以文社、2010。

33.  たとえば、デヴィッド・ハーヴェイ(本橋哲也訳)『ニューインペリアリズム』青木書店、2005。

34.  Sandro Mezzadra, La condizione postcoloniale: storia e politica nel presente globale, Verona: ombre corte.

35.  Miguel Mellino, David Harvey e l’accumulazione per espropriazione, 2014, http://www.euronomade.info/?p=3244

36.  Verónica Gago y Sandro Mezzadra, Para una crítica de las operaciones extractivas del capital. Patrón de acumulación y luchas sociales en el tiempo de la financiarización, Nueva Sociedad 255, 2015, pp. 38-52.

37.  ⑴Sandro Mezzadra and Brett Neilson, Extraction, logistics, finance: Global crisis and the politics of operations, Radical Philosophy 178, 2013, pp. 8-18. ⑵Sandro Mezzadra and Brett Neilson, Operations of capital, The South Atlantic Quarterly 114-1, 2015, pp. 1-9.

翻訳・構成 北川眞也

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