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鶴見俊輔の言葉と倫理  新刊

想像力、大衆文化、プラグマティズム

鶴見俊輔の言葉と倫理

鶴見哲学の中心へ、気鋭の哲学者による決定的論考

著者 谷川 嘉浩
ジャンル 哲学
思想
社会
出版年月日 2022/09/20
ISBN 9784409041215
判型・ページ数 4-6・390ページ
定価 本体4,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに  9

導入 ハックルベリー・フィンと悪の自覚――エピソード、(再)編集、境界  
 一 「よし、それじゃあぼくは地獄へ行こう」
 二 読み、つかみ、憶え、編集する――「語る」のではなく「示す」
 三 鶴見俊輔の言葉を再編集するという方法
 四 「根っこにハックルベリー・フィンの伝統が生きている」
 五 「文明を横に観て、そのそばをすりぬけてゆく」
 六 「二つの世界を往復する人間、境界線上に立つ人間」
 七 「聞いている方にはわからない時もある」
 八 「ちゃんと読む」という扱いを受けてこなかった思想家
 九 本書の構成

鶴見俊輔小伝  

第一部 書く、読む、書く  

第一章 鶴見俊輔は、なぜ作文が知的独立性の問題だと考えたのか――生活綴方、想像力、アナキズム、期待と回想
 一 天才と秀才はどう違うのか――桑原武夫の鶴見評
 二 理論と実感の隘路――生活綴方と、一九五六‐五八年の鶴見
 三 詩的想像力の方へ――佐藤忠男の生活綴方論
 四 The Exactness is a Fake. ――言葉選びという倫理的課題について
 五 アナキスト、ソローの森での生活記録――準拠枠としての過去
 六 原体験への誠実さ――期待と回想
 七 矛盾の認識から、矛盾の吟味へ

コラム1 消極的であることほど難しいことはない――ネガティヴ・ケイパビリティ  

第二章 鶴見俊輔は、なぜ自分の解釈理論を実践できなかったか――学びほどき、多元的自己、個人史的読解、エピソードという方法
 一 書くことから読むことへ――解釈の理論と実践
 二 固定化する解釈への抵抗
 三 自己に根差した読解――コナトゥス、学びほどき、多元的自己
 四 解釈理論の個人史的変形とその失敗
 五 エピソード的方法とその限界

コラム2 認識は遅れてやってくる――ソルニット、ウルフ、ホワイトヘッド  

第三章 鶴見俊輔は、なぜ文章教室で理想を書き留めることについて語ったのか――他愛ない夢、大衆文化、想像的変身、感性的横ずれ
 一 三つの文章術と一つの自己論――現代風俗研究会の文章講座
 二 気の利いた言葉を諦めること――鶴見の「紋切型」批判
 三 言葉のプラグマティズム、あるいは「自分の声」を乗せること
 四 問題を前に置き、制約の中であがくこと
 五 想像力の線を引く――鮎川信夫との問答
 六 無数の理想を書き留めること
 七 探偵と忍者――理想的形象への変身願望
 八 小さな変身を重ね、感性を揺らすこと

コラム3 精神のイディオムとしての漫画――長谷川町子の『サザエさん』

第二部 プラグマティズムとアナキズム、リベラリズムとニヒリズム  
第四章 鶴見俊輔は、どのようにプラグマティズムとアナキズムを統合したか――短歌の倫理、自己不信、反射と日常性

 一 短歌と倫理、あるいは哲学者の問題
 二 哲学――集団分極化とシニシズム
 三 内なる外部の育ち――二・二六事件、阿部定、金子文子
 四 足並みの乱れを擁護する――抵抗の多元主義
 五 プラグマティズムの実存主義的変形――自己論的可謬主義へ
 六 同情による自己変革――自己論的アナキズムへ
 七 "I'm proud of you."の自然さ
 八 記憶と反射から作られる倫理
 九 倫理としての不自然な自然さ

コラム4 メディア論、コミュニケーション論の先駆者としての鶴見俊輔

第五章  鶴見俊輔は、なぜ「コーヒーを飲むためなら世界が破滅してもかまわない」と言ったのか――「好み」のリベラリズム、あるいはニヒリズムに基づく大らかな政治運動  
 一 カナダの厳冬下で微笑む、そういうリベラリズム?
 二 どうだって構わないという自由の境涯――宗教からニヒリズムを育てる
 三 世界の破滅に優先する「好み」―― 『がきデカ』から『地下室の手記』へ
 四 アーレントのカント講義――趣味判断と共同性
 五 ニヒリズムという梯子、狂気と共同性――アーレントと鶴見
 六 ナンセンスの楽しみ、あるいは「好み」が生み出す教養と自由
 七 大まかな政治思想としてのリベラリズム
 八 「世界は舞台、人は役者」――役割と自己に隙間を作ること

コラム5 自己演出の過剰さとジェンダーバイアス  

第三部 日常とヴァルネラビリティ  

第六章 鶴見俊輔は、なぜ人の「むちゃくちゃ」を面白がったのか――中野重治、気分のアブダクション、ヴァルネラビリティ
 一 むちゃくちゃな室生犀星と中野重治
 二 アブダクションを信じる意志
 三 気分を契機とするアブダクション――中野重治『むらぎも』
 四 「傷「が生み出す自己の根本的な気分
 五 「傷」からの問いかけで自己の傾きは生じる――ヴァルネラビリティ

コラム6 「闇の定義を変えれば」――晩年の武谷三男  


第七章 中野重治はなぜ「くりかえし」自分の弱さに目を向けたのか――柳田國男、日常の謎、ネビュラと祈り
 一 中野重治と「くりかえし」の思想――弱さと反復
 二 ゴムボールのように弾む記号――柳田國男と「老いたる母の糸車」
 三 日常という謎へ飛び込む――身ぶりと民俗学
 四 「傷」の中にある漠然たるネビュラ

コラム7 限界芸術論の魅力はどこにあるか  

あとがき  
参考文献
人名索引

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内容説明

鶴見哲学の中心へ

哲学と市民運動をまたぎ、戦後日本に巨大な足跡を残した鶴見俊輔。しかし、その平明な語り口とは裏腹に、思想の本質は捉えがたく、謎に包まれている。鶴見は今も読まれるべきなのか、もちろんそうだ。残された膨大な言葉の数々に分け入り、単純化を避けつつ独自の視点から思想の可能性をつかみ出し、現代の倫理として編み直す。鶴見俊輔生誕100年、気鋭の哲学者によりついに書かれた決定的論考。

 「鶴見俊輔の哲学に価値があるのだとすれば――私はあると思うが――、彼の言葉を、そんなよそよそしい位置に放っておかずに、深く、適切に読み解くことで、彼の知的遺産をきちんと相続した方がいい。私が本書で試みるのは、彼の言葉を深く解釈し、現代の私たちが生きうる倫理へと再編集することであり、その仕事を通じて、彼の哲学を知的遺産として批判的に継承することだ。まともに読み解くことなしに、鶴見の言葉を、私たちの時代の経験に変えることはできない。」(本書より)

***

本書第1版第1刷において下記の間違いがありました。第2刷では訂正済。

p.10、145 (誤)ガリガリ博士  (正)カリガリ博士

p.15 注1 (誤)行いを言葉にことで  (正)行いを言葉にすることで

p.67 (誤)そして、負ける時に、 (正)そして負けるときに、

p.67 (誤)勝ったアメリカのほうがいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、  (正)勝ったアメリカにくっついて、

p.84 (誤)(鶴見・小熊・上野 2009)  (正)(鶴見・小熊・上野 2004)

p.113 注27 鶴見は書評論文でも言っていないことを後に語ったとするのは誤り。書評の時点からレッドフィールドの考えていることから逸れたことを読み取っていたが正しい。 

p.134 (誤)想像(=同上)を指す  (正)想像(=同情)を指す

p.355 (誤)誰に依って  (正)誰によって

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